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第2話 白い少女
道が急にアスファルトになった、と思ったら民家と田畑がある集落が見えた。
「ほら稔流、着いたぞ」
ずっと続いてきた道路から狭い私道を上がった所に、立派な日本家屋があった。
父の実家は、村の中では比較的裕福らしい。実は村にたくさん居る『宇賀田さん』の本家だ、というのは引っ越しが決まってから初めて聞いた。
「父さん、母さん、ただいま」
父が玄関のチャイムも鳴らさずにガラリと引き戸を開けたので、稔流はぎょっとした。
…そうだった。この村は、田舎過ぎて鍵をかけて用心する必要もないし、寧ろ鍵をかけているとアポ無しでやって来た客が「水臭い」と気分を悪くするという、何だか怖い価値観なのだ。
実は、アポ無しでも玄関から入るのはまだ礼儀正しい方で、勝手に居間のサッシを開けて入って来るのが当たり前だ。
二階の部屋を自室に貰えないだろうか…と稔流は思った。
流石に二階の窓からは入って来ない。と思いたい。
「あらあら、お帰りなさい。真苗ちゃんも稔流ちゃんもよく来たねえ」
暖簾をくぐって奥から出て来た祖母は、本当に嬉しそうだった。
そして、気付いた。
父は当然のように「ただいま」と言い、祖母は「お帰りなさい」と言うのだと。
――――稔流が、ただいまと言って帰ったマンションには、もう帰れないのに。
母と稔流は「よく来たねえ」という《外》の者なのだ。
ただし、母の祖父はこの村の出身なので身内感があり、娘に近い感覚で「真苗ちゃん」なのだろう。
小学5年生の稔流は、ちゃん付けは微妙に居心地が悪いのだけれども、祖母にとっては孫はいつまでも小さい孫のままなのだろうから仕方がない。
「…お邪魔します」
稔流は、何だか他人行儀な挨拶になってしまった。
でも、5年の空白の間に、稔流はもう祖母に飛び付いて甘える年齢ではなくなっていて、どう振る舞えばいいのかわからなかった。
「上がって休みなさいな。お父さーん!豊たちが帰って来ましたよ!」
この『お父さん』というのは、稔流の父・宇賀田豊の父で、稔流の祖父にあたる。
どうして、年寄りは自分の配偶者のことをお父さんとかお母さんとか呼ぶのだろうか?
「お母さん」
稔流は靴を履いたまま、リュックだけ玄関に置いて言った。
「俺、外にいてもいい?」
「…どうして?」
いつもは明るい母の表情が、微かに強張った。
母こそ、一体何が気に掛かるのだろうかと、稔流は怪訝に思った。
「座りっぱなしで疲れたから、庭と畑を散歩してくる。あと、ひいおばあちゃんって、まだ古い家にいるの?」
「どうかしら…?前もご飯の時はこっちだったと思うんだけど」
「行ってみる」
絶対にお庭から出ちゃダメよ、という母らしくもない過保護な言葉を背に、稔流は玄関から出た。
夏の日差しが強くて、キャップを被ってくるんだったと思ったけれども、あの家に、大人達だけが笑い合う場所に、戻りたくなかった。
本当は、違和感しか感じない場所から、遠ざかりたかったのだ。
だから、逃げた。
立派な母屋の裏には、もう農業の一線を退いたけれども、まだまだ元気だという曾祖母が手がけている家庭菜園がある。
面積としては、畑と言った方がしっくり広さだ。
その曾祖母は、30年ほど前に現在の家を建てたのに、それまでの母屋だった古民家に残った。
(ねえ、どうしてひとりでふるいいえにいるの?)
(落ち着くからね。それに…)
曾祖母が、懐かしそうに壁を見上げていたことを思い出した。
飾られていたのは、経年劣化でくすんだ色の写真で、紋付袴の花婿と白無垢の花嫁の写真だった。曾祖父母の若き日の晴れ姿。
大正時代に建てられたという古民家は、柱は煤けて黒光りしており、家の中は昼でも薄暗かった。
何だかお化け屋敷みたいだと稔流は少し怖かったけれども、曾祖母にとってその古い家は大切な思い出そのものだったのかもしれない。
畑に曾祖母の姿が見当たらないので、稔流はそのお化け屋敷みたいな古い家に行ってみようと思った。
(ばあちゃんはね、ひとりじゃないんだよ)
(ほかにだれかいるの?)
(いるよ)
井戸で冷やしたスイカを切り分けて皿に載せると、曾祖母は家族の分とは別に広縁に置いたのだった。
(時々、食べに来よる)
(いっしょにすんでるひと?)
(そうだよ)
(だれ?)
伝統的な古民家は、夏の昼間は庇に遮られて室内に直射日光は入らない。障子を開け放ってセミの声を聞きながら、少しひんやりする畳の上に座ってスイカを食べたものだった。
そう言えば、幼い頃の自分も、玄関ではなく濡れ縁で靴を脱いで出入りしていたなあと思い出した。
その方が気軽であったのだし、現在でも他人がリビングに上がり込んでくるのはその延長線上の習慣なのかもしれない、と気付いた。
尤も、稔流の場合は古い家の玄関から入った土間に、魔除けに般若面が飾ってあるのがとても怖くて、避けていたという理由が大きかったのだが。
「…驚いた。まだ私が見えるのか?」
小鳥のような、鈴を振るような声がそう言った。
さっきまで誰もいなかったはずの濡れ縁に、小さな女の子がちょこんと座っていた。
5、6歳だろうか?とても綺麗な子だ。袖と裾に椿の柄がある白地の着物を来て、紅い帯を蝶々に結んでいる。
肩にかかる長さで切り揃えられた髪は真っ白で、赤い椿の花が雪の中に咲くように飾られていた。
幻想的な姿をしているのに、真っ直ぐに稔流を見つめる黒い瞳が、これは確かに現実なのだと、稔流と少女をこの世界に繋ぎ止める。
「5年ぶりか?数え十二…ああ、今時の数え方なら十か。ずいぶん大きくなったな。前は私より小さかったというのに」
「…………」
「ふうん…?見えてはいるけれども、やはり忘れているか。私が何もしなくても、お前が成長した証ならば、悪くないのだろうな」
その少女も幼いのに、稔流の半分ほどの年頃だろうに、口調も言葉も大人びているのが不思議だ。
不思議なのに、不自然ではないのが、やはり不思議で。
稔流が返答に困っていると、少女はくすりと笑って、白い髪がさらりと揺れた。
老いた者のそれとは違う、深く降り積もった雪のような、淡い光を帯びたような、影になると青みを帯びて透き通るような…美しい白。
「忘れる…?」
「気にするな。今のお前が思い出せなくても、あの時のお前が嘘を吐いた訳ではないことくらい、私は知っているから」
「…………」
(お前は、嘘を吐いてはいない――――)
稔流は、立ち尽くした。
その言葉には聞き覚えがある、そんな気がしたのだ。
真っ白な髪も、出会った瞬間は、初めて見たとても綺麗なもの…だと思ったのに。
――――きっと、初めてじゃ、ないんだ。
(ゆきの、いとみたい)
稔流の脳裏に、あどけない声が遠く響いた。
自分の声だ。稔流の唇は、無意識にひとつの名を紡いでいた。
「さくら……?」
髪に赤い椿の花を飾っているのに、椿という名は嫌いだと言ったから。
真っ白な髪は、夜の闇の中でも雪のようにきらきら淡い光を揺らすのに、雪も冬もあまり好きじゃないと言ったから。
(はるは、すき?)
(暖かければ、嫌いではないな)
(じゃあ、はるのおはなならいい?)
さくら、と呼ばれた少女は、少し意外そうに小首を傾げたが、ふわりと柔らかな蕾がほころぶように、綺麗に笑った。
「そうだよ。稔流」
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