一週間後の大円台

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 こんな日が来ることは、なんとなく予想はついていた。元来、男相手にしか恋愛が出来ない自分と、異性相手にまともな恋愛ができるアイツ。  長く続くはずがない。分かっていたのに、付き合えた奇跡があまりに眩しくて、己の足元を失念していた。  見上げた空は、今にも雨が降り出しそうだ。    週明け、月曜日。一日目。その日、珍しく夏月(なつき)が学校を欠席した。  受験組の人間が多い中、悠人(ゆうと)と夏月は既に推薦で合格が決まっていて、周囲の喧騒とは別の世界にいた。  約一年一緒のクラスに在籍しているが、夏月が休むなど初めてのことだ。珍しいこともあるものだと、悠人は主のいない空席をボンヤリと眺めてスマートフォンを取り出す。大丈夫なのか、ちょっと連絡してみようと思った。 「えー! 本当? 夏月君とカナ、付き合い始めたの?」 「らしいよ。週末、カナが告白してOK貰ったんだって」  騒がしい教室内で、近くの女子生徒らの会話に悠人は動きを止める。思わずそちらを見てしまったが、二人は話に夢中で悠人には気付かない。  手にしたスマートフォンを握り締め、視線を彷徨わせる。今、確かに聞こえた。夏月と女子生徒の誰かが付き合い始めたと。  口元を押さえ、動揺を隠そうとするが無様にも指先が震えてスマートフォンを落としてしまう。慌てて拾うが、夏月に連絡する勇気はとうに失せていた。  鼓動が早い。嫌な汗が額に滲む。それでもクラスメイト二人の声は、無遠慮に悠人へ届いてきた。 「カナ、ずっと好きだって言ってたもんね。夏月君も、カナには優しかったし」 「だよねー。大学も一緒のとこ行くって言ってたし、良かったよ」  聞きたくない。でも、それが事実なら悠人の立場はどうなるのだろう。このクラスにカナという名前の女子生徒はいない。となると、必然的に別のクラスの女子生徒ということになる。  徐々に遠くなる喧噪。木霊する、己の激しい心音。上手く息が出来ない。それだけショックだった。  夏月と悠人が付き合い始めたのは、夏休み前のことだ。家が隣同士の腐れ縁。中学の頃からずっと夏月のことが好きだった悠人は、自分の想いが届くことはないとキッパリ諦めていた。  幼馴染として、友達として、傍にいられればそれでいい。十分だった。それなのに、ある喧嘩がきっかけで激昂した悠人がついうっかり夏月に告白してしまったことから、付き合い始めるようになった。  悠人はすぐに誤魔化してなかったことにしようとしたのだけれど、それを夏月が許さなかった。  まさか付き合えるなんて夢にも思わなかったから、悠人は疑心暗鬼に囚われて友達のスタイルを貫こうとしていた。今思えば、防衛に近い。しかし悠人と付き合い始めた途端、夏月は悠人とくっつきたがり分かりやすく嫉妬するようになった。案外、寂しがりやで嫉妬深く、素直に拗ねる。悠人の友人関係に口を出すことはしないが、距離感ゼロの友人と二人きりになることだけは許してくれない。  だから、少し安心していた。ちゃんと夏月も自分のことを好きでいてくれるのだと。ゆっくりとだが、信じ始めていた。それなのに、結局これだ。終わってしまった。何も聞いていない。話して貰っていない。  好きな相手がいるのなら言ってくれればいいのに。優しさの意味をはき違えるような男だっただろうか。  悠人が男だから、気を遣っているのだろう。付き合い出した相手が、女性であるから。  そんな優しさ、いらない。彼の性格上、二股はしなさそうだから休み明けにでも話が出るだろう。  フラれるのか。そうか。らしくもなく、視界が歪む。唇を固く結び、寝入るようにして机に伏した。  ◆ ◆ ◆  二日目。火曜日。  悠人から何の連絡もない。  不覚にもインフルエンザにかかり、一週間の休養を余儀なくされた夏月は、連絡一つ寄越さない恋人に苛立ちを募らせていた。未だ熱は三十八度を超えているものの、メールを読むくらいはできる。  クラスメイトや部活の後輩、バイト先の先輩まで『インフルご愁傷様』なんて可愛げのないメールを送って来たのに、肝心の悠人は音信不通だ。何かあったのかと心配になって、今朝方利用しているSNSで連絡してみたが返信の一つも来やしない。  もう夕方の六時。学校はとっくに終わっている。既読はついているのに、どうしたというのだろう。まさか彼も体調を崩して寝込んでいるのか。いや、だとすれば同じクラスのヤツからその話が出てもいいはずだ。  夏月と悠人が付き合い出して、まだ数ヵ月。逆ギレ状態で告白されて以降、毎日がバラ色。こんなにも幸せな毎日が続いていいのかと怖くなるくらい、悠人が可愛い。  激昂する悠人を宥めながら自身も告白したが、悠人と違い夏月は小学校の高学年には既に意識していた。可愛い女の子も好きだが、悠人は別格。特別だ。いつか手に入れようと虎視眈々、着実に捉える気でいた。そんな中で彼の方から告白を受けたのだから、舞い上がらない方が無理であろう。 (連絡くらい、寄越せよなぁ)  声が聞きたい。欲を言えば、逢いたい。付き合い始めてから、どれだけ人を夢中にさせればいいのだと逆切れしたくなるほどには惚れてしまっている。  可愛くて。可愛くて。最高に愛おしい。ようやく手に入れた宝物だ。  そろそろ卒業も近い。進学する大学は違うから、必然的にこれまでよりは会える時間が少なくなる。お互いに忙しくもなるだろう。それもあって夏月は卒業後に一緒に住もうと申し出た。悠人はびっくりしていたが、照れたようにはにかんで承諾してくれた。 「……、……はぁ」  無意識にため息が零れる。何度見てもスマートフォンの液晶画面は黒いまま。熱のせいで気弱になっているのか、不安ばかりが大きくなる。咳のし過ぎで声が出ないから、こちらからかけるのは憚れた。少し、怖くもあったのだ。  嫌な予感がする。  的中しなければいいのだけれど。  そんなことをグルグルと考えながら、熱に浮かされた夏月はゆっくり眠りの淵についていった。  ◆ ◆ ◆  三日目。水曜日。  あれから夏月とは連絡を取っていない。その勇気が出てこない。  夏月とカナという少女が付き合い始めたという噂は、瞬く間に学年内に広がった。  人伝いに彼女が二組であることを知り、一年時と去年夏月と同じクラスだったという情報まで耳に入ってきた。顔はまだ見ていない。一度だけ夏月から『インフルに負けた』という連絡が入ったが、既読のまま返信していない。何と返せばいいのか、考えあぐねていた。  何故、一番最初に言ってくれなかったのだろう。人伝いではなく、直接本人から聞きたかった。そうすれば、きっとここまでショックは受けていない。  いや。違う。結局、ショックは受ける。同じだ。何せ、卒業後は金を貯めて一緒に住もうとまで言ってくれていた。可愛い女子に告白され、目が覚めたのか。  このまま悠人と一緒にいても、将来などない。世間的に胡乱な目で見られるかもしれない。親兄弟にも申し訳ない。でも異性となら道は開かれる。結婚もできる。望めば家族だって増えるだろう。幸せな将来が待っている。どう考えたって、選ぶのは後者。悠人ではない。  頭では分かっているのに、吹っ切れない。悠人とて生半可な気持ちで、夏月と付き合ってきたわけではないのだ。好きだった。本当に、心底惚れていた。  何かと負い目を感じて逃げ腰になる悠人を、馬鹿だなと笑って叱ってくれる。そんな夏月に益々心奪われて、やっと最近になって自然体で夏月に接することができるようになったというのに。 「悠人」  放課後。人気のなくなった教室で、ぼんやり外を眺めていた悠人に声がかかる。窓から外を眺めていた悠人の前に、夏月と同じくもう一人の幼馴染が立っていた。三人とも家が近所で親同士も仲がいい。また、彼は悠人と夏月が付き合っていたのを知っている、唯一の人物でもあった。 「……(あさひ)」 「どうした、ぼんやりして」  柔和な笑顔を向けられて、曖昧に濁す。授業も終わったのだし、学校に用はないのだから帰る時刻だ。 「最近元気ないけど、何かあった?」 「あー……。いや、その、ほら。もうすぐ卒業だなーと思って」  適当に誤魔化してはみたが、旭にはそれが嘘だとバレているだろう。敏く勘の良い彼のことである。 「夏月が関係してる?」  旭は悠人と夏月が付き合っていることを知っても、何も変わらないでいてくれた。むしろ、やっと肩の荷が降りたとよく分からないことを言いながら祝福してくれた。  いつもなら悠人が話すまで突っ込んでくることはないのに、この時は珍しく旭は引き下がらない。空いている前の席に腰を掛けて、真っ直ぐにこちらを見てくる。笑うことも、誤魔化すことももはやできずに、悠人は言葉を失う。  何と言ってしまえばいいのか、よく分からなかった。週明け、夏月が学校に登校してきたらおそらく自分はフラれる。それほど長い時間付き合っていたわけではないけれど、フラれると分かっていてそれを待つ今の状況を、簡潔に説明できるほど悠人は器用ではない。  こちらか連絡して関係を絶ってしまうことも考えた。ウジウジしたって始まらない。既に彼の心が離れてしまっているのなら、駄々を捏ねたって無駄だ。何より駄々を捏ねるような性格でもなかった。 「なぁ、悠人。まさかとは思うけど……」  RRRRR――。  旭の言葉を遮るようにして、悠人のスマートフォンが鳴った。着信を知らせるその音に、悠人がポケットからスマートフォンを取り出す。ほんの一瞬、強張る表情。  旭はそれを見逃さなかった。ポン、と優しく肩を叩いてその場を去って行く。フリックするのが躊躇われる、電話の相手。けれど、このまま不用意に引き延ばすわけにもいかない。終わりがきた。それだけだ。 「……はい」 『悠人?』  少し掠れた、けれど聞き慣れた低い声。緊張で震える指先から、今にも電話が落ちそうで手指に力を込める。音のない教室では、やけに心臓の音が大きく聞こえた。 「何……?」 『何って、やけに冷たいな……。寝込んでる恋人にそれはないだろ?』 「……恋、人?」  繰り返した唇が、戦慄く。気付けば笑っていた。視界は歪んで頬に涙が伝う。それなのに、悠人は笑っていた。夏月にではない。己に、だ。 「ふざけんな」  溢れる涙が止まらない。抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出す。もう、止められそうになかった。 「俺が男だから二股かけていいとか、そういうこと?」  滑稽ではないか。信じていたのに。そんなことはしないと。そんな男ではないと。 『……悠人?』 「お前はそんなことしないって思ってた。いいよ、こっちからハッキリ言ってやる」 『お前、さっきから何言って』 「知らないと思ったのか? 誤魔化せるとでも思ったのかよっ?」 『悠人、落ち着けって』 「気安く呼ぶな」  電話越しに分かる、相手の息を呑む気配。 「それじゃあな。もう友達には戻れないけど、……大事にしてやれよ」  一方的に電話を切って、次々に溢れる涙を拭うこともせず、ただ悠人は顔を伏せて泣いた。声を押し殺し、震える体を自ら抱えるようにして、一人泣き続けた。  男同士のサヨナラなんて、やはりこんなものなのだ。  ◆ ◆ ◆  四日目。木曜日。  口惜しいことに、まだ熱が下がらない。  とはいっても微熱程度で、体自体は重怠いが確実に回復傾向にあった。できることなら登校したいのだけれど、今の時期に菌を蔓延させに行こうものなら周囲に白い目で見られる。学校側も許さないだろう。逢いに行けない。電話も繋がらない。現状は最悪だった。 (……悠人)  一体何があったのか。連絡がないことを心配して電話をかけた昨日。電話に出た当初から、悠人の様子はおかしかった。何を言われているのか分からないまま、相手の激昂とともに別れを切り出された。  理由なんて、まったく分からない。思い当たらない。二股がどうのと言っていたが、何のことなのだろう。あの口ぶりからして、悠人はどうも夏月が別の誰かと付き合っていると勘違いしているようだ。  だが、そんな事実は夏月にはなかった。付き合い始めてからずっと悠人一筋できていたし、他に目を向ける気など更々ない。悠人が傍にいてくれさえすればいい。  枕元に置いてあったスマートフォンを手に取り、事情を知っているかもしれない、理解ある幼馴染人に連絡を入れた。ツーコールで電話に出た相手に、夏月が口を開く。 「俺だけど」 『そろそろかかってくるかと思ってたよ』 「悠人、なんかあった?」 『俺も話してみたんだけど、何も教えてもらえなくて』 「あいつ、いきなり別れるとか言い出したんだ」 『え? そうなのか? じゃあ、あれだ』 「あれ?」 『ほら、一組に笹川っていただろ? 親が離婚して夏月の姓になった、バスケ部の』 「あー、いたな。そいつが何?」 『今、二組にいる女子と付き合い始めたって噂になってる』  それを聞いて、ようやく合点がいく。額を押さえ、低く唸りながら理解したとを伝えた。どうりで二股がどうのと言っていたはずだ。 「……サンキュー、解決した」 『どうするんだ? かなりこじらせてるみたいだけど』 「だろうな。電話に出やしねぇ」 『俺から連絡入れとくか?』 「いや、あれだけの剣幕で言った台詞だからな。事情が分かった途端、謝るだけ謝って、自己嫌悪からやっぱり別れるとか言い出すのは目に見えてる」 『悠人らしいな』 「可愛いだろ?」 『はいはい。じゃあ、俺は受験勉強に戻るよ』 「悪いな、忙しいのに」 『いいよ。お前も安静にな』  おう、と返事をして電話を切り、夏月は考えた末にメールを打ち始めた。相手はもちろん、悠人だ。  内容は簡潔に、話があるとだけ。あえて誤解であることは明記しない。したところで、会いに行けない以上面倒なことになるだけだ。  土曜までにはきっと完治する。話し合うのは日曜だ。経験上、それまであまり刺激しない方がい上手くいく。薄く笑みを浮かべ、夏月はスマートフォンに保存してある悠人に目を細めた。  本当に、どこまでも可愛い恋人殿だ。 「愛されてるなぁ……俺」  こちらも負けてはいないのだけれど。  ◆ ◆ ◆      五日目。金曜日。  空は見事な曇天。降り注ぐ雪を見上げて、悠人は白い息を天へ吐き出した。  昨日、夜に夏月から連絡が入った。そこに夏月は、話があるとだけ書いてあった。きっと、カナという人物についてのことだろう。気にしなくとも、ちゃんと身を引くというのに。怒りのまま別れを告げたのが、ある意味で功を奏したか。来週、会った瞬間に悠人の春はピリオドを打つ。長いようで短かった。楽しい思い出も沢山作れた。それで、十分だ。 「カナ、置いてくぞ」 「ちょっと待ってよー」  食堂を出て教室へ向かう帰り道。同じく食堂から出て来た二人の生徒に、何気なく目がいった。カナという名前に反応したのかもしれない。夏月の新しい彼女も確かそんな名前だった。二組にいるとのことだが、どんな子なのだろう。 「あ、カナちゃんと夏月君だ」 「あの二人付き合い出したんでしょ? いいなー、私も彼氏欲しー」  ピタリ。思わず、足が止まる。  少し前を行く女子生徒二人組。  今、何と言ったのか。  なつき? 誰がだ? 夏月は今インフルエンザで学校を休んでいる。  先程目がいった、カップルと思われる二人組を見る。女子生徒の方は顔こそ見たことはあっても名前までは知らない人物。男子生徒の方は、元バスケ部主将の笹川である。断じて夏月という名前ではない。記憶する限り、学年で夏月という名前は同じクラスのあいつだけだ。 「夏月君、親が離婚して色々あったけどカナちゃんとくっついて良かったよね」 「ホントだよね。ずっと両片思いだったもんね」 「でも私、まだたまに笹川君って呼んじゃうことあってさ」 「私も私も! 慣れないよね!」  笑いながら去ってゆく二人の女子生徒に、悠人の目が釘付けになる。その場に立ち尽くし、微動だにすらできない。既に噂のカップルの姿はなく、廊下のど真ん中で悠人は動けずにいた。 「悠人? お前、そんなとこで何して」 「嘘だろ……」 「は?」  怪訝そうな旭を余所に、悠人は頭を抱えて蹲る。 「そんな、だって……」  旭の声は届いておらず、あまりの動揺っぷりに周囲の生徒たちも何事かと悠人を見ていた。だがそんなこと当の本人はどこ吹く風だ。 「マズイ」  えらいことになった。そう呟く声が、震えている。 「マズイ、マズイ、マッズイ!!」 「ゆ、悠人……?」 「どーしよぉぉぉぉー!!!!」  悠人の悲痛(?)な叫びはどこまでも響き渡り、困惑する旭を巻き込んでその日一番の注目を浴びていた。  ◆ ◆ ◆  六日目。土曜日。  インターフォンが押せない。ここまで来た以上、もはや引き返せないというのに、もう一歩が踏み出せない。   翌日。悠人は日曜まで待てずに、夏月に謝るため彼の自宅を訪れていた。彼の好きな駅前のワッフルを購入し、とにかく謝らねばとここまで来たのはいいが、きっと彼は深く怒っているだろう。  勝手に勘違いして、別れを切り出して、しかもずっと電話もメールも無視していた。最低だ。彼の言い分なんて、一度も聞かなかった。何故自分はこうなのだろうと悔やんでも遅い。  こんな面倒臭い奴、愛想を尽かされて当然である。自ら招いてしまったことだ。幕引きだけは、きちんとせねばならない。このまま別れると言われても、悠人には謝ることしかできないだろう。  よし、と拳を握り、たぷり三十分ほどかけてようやくインターフォンを押した。すぐに女性の声が返事をくれる。夏月の母親だ。カメラ越しに悠人の姿を捉えた彼女は、笑顔で迎え入れてくれた。 「まぁ、久しぶりねー。お見舞いに来てくれたの?」 「あ、はい……その、大丈夫ですか?」 「ええ。もう熱は引いてるのよ。本人も部屋で漫画読んでるわ。私、今からちょっと出なきゃいけなくて。ゆっくりしていってね、悠人君」  綺麗に化粧をして着飾った格好の夏月の母親は、そう言うと夏月に一声かけただけで出て行ってしまった。夏月以外は誰もいないのか、家の中はとても静かだ。二階から扉の開く音と足音が聞こえてくる。一気に緊張が増して、悠人は固く拳を握ったまま玄関で彼が下ってくるのをジッと待った。  実は、来るというのを伝えていない。どうしても連絡ができなくて、直接来てしまった。  一週間ぶりに見る夏月は、病のせいか少し痩せていた。かなり驚いている様子だった。それもそうだろうと思いつつ、何と切り出せばいいのか分からなくて無言のままだ。色々謝罪の言葉は考えてきたが、いざ本人を目の前にすると口が開かない。沈黙が落ちる。握った拳は、小さく震えていた。 「……ったく」  どこか優しい、苦笑混じりの声。 「寒かっただろ。上がれよ」  先に声をかけたのは、夏月の方だった。顔を上げて視界に飛び込んでくる、優しい笑顔。あれだけのことをしたのに笑っていてくれる夏月に、悠人は心底申し訳なくて唇を噛んだ。動かない悠人に、夏月がなおも声をかける。 「悠人。ほら」  目の前に広がる、両腕。おいで、と微笑まれてとうとう涙腺が壊れてしまう。 「ずびばぜんでしたぁぁぁーっ」 「はいはい」  靴を脱ぎ捨て広い腕の中に飛び込んで、憚りもなく号泣する。この場に夏月以外誰もいないのが幸いして、年甲斐もなく咽び泣いた。髪を撫でる手のひらが、ひどく優しい。 「誤解が解けて何より」 「お、俺……っ、夏月、が二人、いるなんて……知ら、なくて……っ」  しゃくりあげながら弁明する様はほとんど子供のそれだが、今はそれを馬鹿にする輩は存在しない。夏月が苦笑しながら頷いているだけだ。 「だと思った。お前、早合点し過ぎだ。あー可愛い」 「ううぅぅっ」 「ホント、……可愛い」  嬉しそうに強く強く抱き締められて、悠人はまだ涙する。恰好悪くても、子供染みていても、今は構わなかった。ただ、夏月が当たり前のように傍にいてくれることが嬉しい。どんなに謝罪の言葉を紡いでも許してもらえないと思っていた。罵声を浴びせられても無理はないと、覚悟していた。  泣きじゃくる悠人が少し落ち着いてきた頃合いで、ヒョイとばかりに両足が浮く。驚いて夏月を見れば、仲直りしようと提案された。それには特に異論はなかったので頷けば、夏月は悠人を抱えたまま二階へ上がる。自室に悠人を連れ込みベッドに下ろすと、ニッコリ微笑んだ。 「え?」 「ん?」 「仲直りって、コレッ?」 「大丈夫。さっき丁度、風呂入ったばっかだから」 「そ、そうじゃなくてっ」 「……ショックだったなぁ。愛する恋人に誤解されて、こっちの言い分も聞かずにいきなり別れるって言われるし。連絡取ろうにも無視されるし」 「ご、ごめ……っ。でも、お前病み上がりで……」 「夜な夜な枕を涙で濡らし」 「ぁぁぁもう! 分かった、分かったってばッ!!」  今回ばかりは分が悪い。完全に悪いのは悠人の方で、それを許した夏月には今のところ逆らえない。  ちら、とずっと手にしていたワッフルの入った箱を見て、差し出す。かなり今更だが、いつまでも持っているわけにはいかない。 「その……、土産」 「あ、悪いな。俺の好きな店のやつだろ? 後で一緒に食おうな」  土産を受け取りそれをテーブルに置くと、すかさず戻って来る夏月に悠人は逃れられないことを悟る。  二度とこんなことないと思っていただけに、妙な気恥ずかしさだ。何度体を重ねても羞恥心が消えることはない。覆い被さってくる夏月に、悠人は体の力を抜くためそっと息を吐いた。   「ン、ぁ……っ」  悠人の最奥へ指を二本差し込んだ状態で、夏月は声なく喘ぐ恋人を真っ直ぐに見下ろしていた。  付け根まで沈めると、今度はゆっくりと引き抜きローションを足してまた奥へ沈める。丁度擦れる浅い箇所には既に花開いた前立腺があって、指が上下に動くたび悠人の息が上がっていた。 「や、っぁ……!」  赤く熟れた突起に歯を立て、白い胸が大きく仰け反る。既に勃ち上がった悠人のものはビクビクと小刻みに震え、それに呼応するかのように細い腰が浮く。男の抱き方など知らなかった夏月も、こと悠人に関してだけはどこをどう刺激すればいいのか隅々まで熟知していた。  どこもかしこも敏感で、反応がいちいち可愛くてたまらない。  このまま指をもう一本増やして早々に繋がりたい気分ではあったが、もう少し彼の乱れる様を見ていたい。同性であっても彼以上に興奮を覚える体はなく、いつだったか授業中に後ろの席から彼の白いうなじが目についた時は、それだけで押し倒したい衝動が湧き起こった。さすがに行動を起こすような馬鹿はしなかったが、あのあと半勃ちになった自身のものに苦労したのを覚えている。 「やぁ、ッ、ちょ、駄目……だって、同時、は……っ」  涙目で訴えられても可愛いだけだ。  ほんの少し盛り上がった箇所を強く擦り上げながら、濡れそぼつ陰茎に舌を這わせる。ねっとりと根本から亀頭まで舐めあげれば、震える鈴口から半透明の液体が素直に滲んできた。乱れる腰に、指をわざと折り曲げ更に刺激を加える。 「ひ、ぁ……ッ、ま、待って……夏、き」  生憎と、待つわけがない。更に指を差し入れて多少強引に前立腺を指で擦り、それと同時に震える亀頭を口に含んだ。容赦なく吸い上げる。 「あぁぁ、ぁ、ぁ、ぁンン……!!」  瞠若したまま戦慄く様の美しいこと。一人ほくそ笑みながら、夏月はほろ苦い体液を搾り取ろうと口を窄める。グっと根本まで咥え込んで、敏感な亀頭を口蓋で擦った。薄紅色の陰茎は一気に熱を増し、泣き声に近い喘ぎ声が頭上から聞こえてくる。 「イ、く……離し、て……ぇ」  当然、そんなお願いが聞けるはずもなく。唇で亀頭を揉み扱きながら舌先を取らせ、鈴口に捩じ込んだ。小さく、悠人の体が痙攣する。三本指の入った最奥がきつく締まり、蠕動しながら白濁を散らした。  口内に広がる苦みのある体液を、夏月は躊躇なく嚥下する。荒く息を継ぐ悠人に笑みを刻み、滑らかな両足に手をかけた。大きく左右に広げ、ヒクヒクとうねっている最奥へ己のものを宛がった。  それに気付いた悠人が待ってくれと請うが、笑顔のままスルーする。腰を抱き寄せ、赤く鬱血した両方の突起に手を伸ばした。きつく抓んで左右に弄れば、眉根を寄せて悠人が仰け反った。いつだったか、彼がそんな所感じるわけがないと言い放ったことがある。今の様子を当時の悠人に見せてやりたいくらいだ。  きつく抓んだままクリクリと弄ってやり、軽く爪弾く。そのまま柔肉を押し広げて腰を進めた。 「や、……熱、ぃ……中、ぁ……っ」  涙目で訴えられ、ゾクリ、腰にくる。  このまま欲望のまま穿ちたい激情と、大事に抱きたいある程度の理性とが火花を散らした。  達したばかりだというのに悠人のものは既に力を取り戻していて、白い腹の上で紅色に染まっていた。蠱惑的な姿に、こちらの息が荒くなる。目を眇め、乾いた唇を舐めた。駄目だ。大事にしたいと思えば思うほど、抱き潰してしまいたい衝動が強くなる。狭い最奥へ自身をこれ以上ないほどに深く挿入して、中をかき乱したい。  快感に濡れ、泣き乱れる悠人を……見たい。  腹の底で、何かの焼き千切れる音。コキ、と首を鳴らして悠人を見る。 「ごめんな? 悠人」  艶然とする夏月に、悠人が目を瞠った。こうやって自分を呼ぶ時の夏月がどういう状態なのかを十二分過ぎるほどに彼は知っていた。動揺と羞恥とがない交ぜになった視線。   嗚呼……たまらない。  そう低く笑って、夏月が腰を穿つ。容赦も手加減もしない荒々しい律動に、悠人の細い体が大きく揺れる。それでも痛みはないらしく、腹の上で踊る陰茎はしっとりと濡れていた。腰と臀部が触れ合うほどに深く挿入し、細腰を掴んで今度はゆっくり弧を描く。  グリグリと弱い箇所を抉るようにして刺激し、眼下に激しく乱れる恋人を眺めながらピンポイントで攻めてゆく。甲高く喘ぐ悠人は普段からは想像もつかぬほど艶っぽく、白い肌が上気して実に淫猥だ。  手放さずに済んで、本当に良かった。こんなあられもない姿を、一つ間違えれば見知らぬ男に晒さねばならなかったところだ。そう考えるだけで、歯軋りしたくなる。 (……俺のものだ)  誰がくれてやるものか。  激情を胸に秘めて、身を屈める。喘ぐ唇に深く口付けて、そのまま大きく揺すぶった。 「んんっ、は、ぁ……ぅ」  透明な糸を引く唇を離して、官能に染まる表情を見つめながら腰を穿つ。  顔を見られているのが恥ずかしいのか、すぐに背けようとするが両手でその小さな顔を挟んで許さない。 「恥か、し……っ、や……だぁ、ぁ、あ、あ、ひぁッ」  しきりに喘がされて、閉じることの出来ない唇から伝う透明な蜜。感じ入った赤い目元は潤み、あえて激しく結合部を揺らすとほとんど泣きながらしがみ付いてくる。元々敏感な彼の体は更にその度合いを増し、今ではこうやって耳殻を舐るだけで甘く喘いでくれていた。  耳が弱いらしく、甘く囁けば素直に秘部が収斂する。 「悠人、可愛い」 「ぅ、ん……っ、ぁ、なつ……き」 「中うねってる。ぐちゃぐちゃだ」 「やだ、言わ、な……っ」 「俺のに絡みついてるの、自分でも分かるんだろ?」 「……っ、知らな、ぁ……アッ、待……ンぅっ」  知らぬフリをする可愛い唇を塞いで、緩慢だった律動を速めた。結合部からは粘着質な音がぐちゅぐちゅと淫靡に広がり、互いの腹の間で濡れる悠人のものからは白い蜜が垂れ流されている。  深い愉悦から、悠人が夏月の肌に爪を立てているがそれさえ今は興奮する材料に過ぎない。引っ掻かれた背中に痛みが走り血が滲んだとしても、相手が悠人なら構わなかった。無意識にしがみ付いてくる様は愛おしく、嗜虐心を大いに満足させてくれる。だが、満足すればするほど次を欲してしまうのが人の性だ。  意識も半濁になりかけている悠人に小さく笑みを浮かべ、彼のものに利き手を添える。何をする気かと視線で問うてくる彼に笑みを深くして、腰を使う反動で陰茎を扱き始めた。 「あぁぁッ、ぁ、ぁ……ぁ、く、ンっ」 「……イイ顔。とろとろ」 「むり、も、ぁぁンッ……我慢、できな……っ」  かぶりを振って絶頂を訴える悠人に、夏月はあえて何も言わずに吐精を促した。真っ赤に熟れた亀頭が涙を散らすのはいともたやすく、断続的に吐き出される白濁の液体は先ほど出したこともあってごく微量であった。 「え……っ、やめ、何っ?」  肘をついて体を起こし、悠人が力の入らない白い手を夏月の利き手に重ねてくる。吐精してもなお扱かれる陰茎に困惑した表情を浮かべ、強引に扱いてくる夏月にこれ以上は無理だと首を振る。それでも、夏月は微笑むだけだ。 「やだって! それ、変……っ、嫌だ……やだ、っ」  濡れそぼつ悠人のものに、熱がこもる。己の変化にひどく困惑して夏月の下から逃げ出そうとするが、体格の差は明白で暴れることすら叶わない。そもそも二度吐精し散々喘がされて、体力は底を尽きかけていた。 「ダメ、何か……ジンジン、する……、っ」  未知なものが怖いのか、涙声で悠人が顔を歪ませる。  敏感な亀頭を親指の腹で愛撫しながら時折爪を立てると、激しく腰を乱して戦慄いた。 「ンぁ……! あぁぅ……っ、やだ、や、ぁぁ……ッ」 「駄目だ」  尚も亀頭を中心に愛撫し続け、快楽とも苦悶ともつかない状態の恋人を追い落としてゆく。 「夏月……こんな、漏れる……から! やだ、て……ッ!」  必死に逃げようとする悠人を穿ちながら押さえつけ、双方の速度を一層速めた。 「ひ……、ぁッ」  泣き顔のまま短く息を呑んだ、刹那。弓なりになって仰け反った悠人の中心から、激しく水飛沫が上がり留まることを知らぬまま白い体を濡らしてゆく。大きく痙攣する細い体にかかる体液はひどく生々しく、きつく締め付けてくる最奥に夏月も持っていかれそうになる。  それをどうにか堪えて、今度は自らの絶頂のために抽挿を開始した。  奥に亀頭が届くほど深く抽挿を繰り返し、ぐったりと力のない体を抱き締め最奥へ己が証を吐き出す。  その瞬間小さく腕の中で悠人が悶えたが、もはや彼に意識はない。荒く息を継ぎながら、夏月は恋人の肩口に額を乗せる。 「やべェ……やり過ぎた」  ちょっと意地悪なお仕置きのつもりだったのだが、まさか気を失うとは思わなかった。ベッドの方も、ボロボロだ。明日まで家族が戻ってこないのが不幸中の幸いである。伏せっていた分溜まっていたわけだが、病み上がりにこれはない。悠人が起きたらきっと叱られるだろう。こっぴどく。それでも、今は繋ぎとめた恋人を腕に抱いていたい。  少し休んだらシャワーを浴びて、悠人の体を綺麗にしよう。その後、彼を別室で寝かせてからベッドは整えればいい。小さく息をついて、悠人の隣で横になる。  汗やその他諸々のお陰で汚れていたが、気分はスッキリしていた。 「起きたらまずは土下座だな」  先に謝ってしまえばこちらのもの。基本的に悠人は下手に出られると、ひどく弱いのだ。伊達に長い間一緒にいたわけではない。そんなことを考えながら目を閉じて、夏月は束の間の休息に寝息を立てた。素っ裸のままじゃ、またぶり返すな~と一人ごちながら。  ◆ ◆ ◆  七日目。日曜日。朝。  声が出ない。正確には掠れた、かなりひどい声しか出ない。昨日は、本当にとんでもなかった。  あの後一度起きて夏月が入れてくれた風呂に入り、今日は誰も戻らないというので夕方までのんびりと過ごした。起き抜け早々に土下座までして謝ってきた夏月だったが、今回は全面的に自分が悪かったこともあり怒りはさほど湧いていなかった。 (腰いてェ……)  土産に買ってきたワッフルを食べながら他愛もない話をして、DVDを観たりゲームをしたりと、気付けば帰宅せねばならない時刻になっていた。だが、そろそろ帰るという悠人を、夏月は帰したがらない。そのままなし崩しに押し倒され、せっかく綺麗に整えたベッドをまた汚す羽目になってしまったのは、嫌がらなかった悠人のせいでもある。  よくもまぁ、あそこまで盛り上がれたものだと思い出しただけで赤面してしまう。二度目の行為はひたすら優しく、甘かった。悠人の嫌がるようなことや負担になることは一切されず、セックス云々というより睦み合ったに近い。お陰で体中、赤い鬱血だらけで人目にはしばらく晒せない状態だ。  ギ、とスプリングを軋ませて、悠人が重い体を起こす。部屋の主の姿はどこにもなく、下の階から何やら物音がするので一階にいるようだ。起きるのは億劫だが、このまま素っ裸というわけにもいかない。さすがにそろそろ起きなければ。  トントントン、と軽やかな足音。夏月が二階へ上がってきたのだろう。 「あれ……下着」  ない。下着どころか、服が一枚もない。確かこの辺に脱ぎ捨てたはず。そう思って探してみるが、悠人の服はどこにも見当たらなかった。一旦ベッドから下りて布団を捲ったりしてみるが、同じこと。  ガチャリ、ドアの開く。背を向けたまま、悠人は自分の服がどこか知らないかを夏月に問うた。 「……、……」  だが返事がない。不思議に思って上半身だけ体を捻って後ろを振り向けば、そこに立っていたのは夏月ではなかった。 「あ……っ、あ、……あさひッ?」 「あ、の。おばさんから夏月の様子を見て来いって電話が来て……その、不可抗力……なんだけど」  全裸の悠人を見て、旭が慌てて下を向く。同じ男同士なのだし素っ裸だけなら、そう慌てることもない。が、今回はそうもいかなかった。  全身に散る赤いマーク。夏月が存分に刻んだ鬱血の痕。しかも泊まっているのだから、二人が何をしたかだなんて明白だ。いくら夏月と悠人の関係を知っているからとはいえ、羞恥で死ねる事態だ。 「ごっ、ごめん……!! 服がなくて、えと、その」  近くにあった夏月のパーカーを手に取り、悠人はかなり焦りながらそれを身に着ける。  約三十センチの体格差は半端ではないので、悲しいかな上着だけで臀部の下までちゃんと隠してくれる。  長い袖を折り曲げて、真っ赤な顔のままもう大丈夫だと幼馴染に告げた。 「おーい悠人、そろそろ起きて飯……あ? 旭。何やってんだ、こんなとこで」  そこへタイミング良く夏月が姿を現した。既に部屋着に着替えてある彼は、思いがけない幼馴染の姿に目を丸くして、それから悠人を見るや絶句した。机の上に置いてあったスマートフォンを構え、しごく真面目な表情で――snap。 「……お前、ちょっとアレだぞ」 「馬鹿言え、奇跡だぞ! どんだけ頼んでもやってくれなかったのに!」  なおも連写する夏月に、悠人も額を押さえたまま深く息をついた。だが、お陰で羞恥心は失せた。それは旭も同じだったようで、やってられないとばかりに部屋を出て行く。 「あ、おい、旭」 「おばさんから連絡あって様子見に来ただけだよ。電話に出ないからって」 「そういや着信来てるな」 「あとで連絡入れといてあげな。それじゃ、お邪魔様」  早々に立ち去る旭にとりあえず夏月は礼を言って、そのまま見送る。悠人は何だかとても疲れてしまって、ベッドに腰掛けると重力に負けて後ろに倒れ込んだ。柔らかなスプリングに体を沈め、息を吐く。 「……何」  傍で真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる夏月の視線に気付き、気怠い声で尋ねた。 「いや、絶景だなぁーと」  意味が分からず己の姿を改めて確認し、瞬時に理解した。立っている状態では隠れていた下肢が、横になったことで隠せなくなり半分ほど見えてしまっている。 「これは、お誘いと取っても?」 「ばっ、馬鹿! 服がなかったんだよッ。まさか、お前……わざとじゃ」 「あ、その手があったな」  今まで何故気付かなかったのだと悔やむ夏月を無視して、悠人はゆっくりと起き上がる。実は未だに後ろには異物感が残っていた。それを口にすると、本気で押し倒され兼ねないので黙っておく。 「もういいや。飯食いたい」 「下に用意してある。服は洗濯してるから、俺の着といて」  そう言って夏月はクローゼットの中からシャツを取り出し、悠人へ手渡した。有難くそれを受け取って袖を通し、先に着ていたパーカーを羽織った。 「おい」 「ん?」 「ん? じゃねーよ。下」 「ない」  きっぱりと断言されたかと思うと、夏月は鼻歌交じりに部屋を出て行ってしまった。慌てて呼び止めても素知らぬフリだ。 「下着はっ?」 「今、新しいヤツねェんだわ」 「はぁっ?」  付き合うようになってから、互いの家に一枚は未使用の下着は置いてある。いつ相手が泊まりにきてもいいようにという配慮だ。先に始めたのは悠人で、夏月もいつしかそうしてくれるようになっていた。それが今更、新品がないとは言わせない。絶対に嘘だ。彼のかろやかな足取りからもそう断言できる。  一人残された夏月の部屋で勝手に漁ってやろうかとも思ったが、案外育ちの良い悠人に他人のクローゼットを許可なく開くなんてことはできない。  悔しいが、夏月はそんなところも分かっていて下着を出さなかったのだろう。とりあえず、服が乾くまでの辛抱だと言い聞かせて悠人は一階へ下りた。夏月が作ったのか、いい匂いがキッチンからしてくる。昨晩はほとんど食べていないので、かなり空腹だった。何気に夏月は料理が上手い。家事も一通りこなす。逆に悠人は掃除こそ上手いが、料理全般は何度チャレンジしても失敗続きだった。  味噌汁を作っても何故だか味がない。卵焼きを作れば必ず焦がす。簡単な料理であっても、まともにできあがった試しはなかった。これは一種の才能だと、夏月にも笑われたことまである。 「腹減っただろ? たくさん食えよ」  ご飯に味噌汁、シャケの焼き物に黄金色の卵焼き。わざわざ作ってくれたのか、悠人の大好きな野菜炒めまで並んでいる。しかも納豆付きだ。すっかり機嫌を直した悠人は、笑顔で食卓についた。  礼を言って手を合わせ、いただきますと味噌汁を手にする。夏月はお茶の準備を終えた後で席につき、上機嫌で料理を頬張る悠人を見てから箸を取った。 「美味いか?」 「美味い! お前、料理上手くなったよなぁ」 「誰かさんが作れないなら、俺が作るしかないだろ? その代り、掃除の方は頼むぞ」  いつか一緒に住もうと約束した件を言っているのだと察して、悠人は笑顔で頷いた。反故にならなかった約束が、本当に嬉しかった。 「なぁ、夏月」 「ん?」 「ありがとう」  ほんの少し顔を赤らめて、ふわり、花開いたような柔らかな笑顔。  卵焼きに箸を伸ばしていた夏月の手が、ピタリと止まる。一瞬の瞠目と、長身の立ち上がる気配。食卓越しに寄せられる顔。重ねるだけの、優しい口付け。 「……何、急に」  照れた調子の悠人が頬を赤らめて、不意の口付けに恋人を見る。 「好きだなと思って」 「……っ」  思わず味噌汁のお椀を落しそうになって、慌てて両手で支えた。照れを隠すように出汁のきいた味噌汁を飲み干し、好物の野菜炒めを頬張る。そんな悠人に微笑みながら、夏月もまた食事を再開した。  遠くで、洗濯を終えた洗濯機の終了を知らせるアラーム音。今日はいい天気だ。洗濯物もよく乾くだろう。こんな日はいつも外に出ていたが、のんびりと部屋で過ごすのも悪くない。  そんなこんなの、一週間。とりあえずは、大団円。     
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