不倫

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不倫

 カウベルを鳴らし店内に入ると、カウンターに立つ恰幅のいいマスターが笑みを浮かべながら「いらっしゃい」と声をかける。マスターの前には年配の痩せた男性が座っている。いつもと同じ光景だ。店内には他に客の姿はない。これもいつもと変わらない。いつもと変わるのは今の自分の感情だけだ。  マスターが水の入ったグラスとおしぼりを持って近づいてくる。上着を脱ぎながらホットコーヒーを注文した。  佐山孝恵は椅子に腰をおろし上着を横に置いて店内を見渡した。年配の男性客と視線が合うと、男性がペコリと照れ臭そうに頭を下げたので、こちらも頭を下げた。笑みを浮かべることはできなかった。  マスターがホットコーヒーを持ってきてくれて、「ごゆっくり」とコーヒーをテーブルに置いた。テーブルは今時、誰もやらないインベーダーゲームだ。ここは若い男女が好んで来るような場所ではないだろうが、人目を避けるにはちょうどよかった。なので、今から会う男はいつもここを待ち合わせ場所に選んだ。  ここで男を待っている時間は、いつも胸に抱えている罪悪感が消え、心をウキウキさせてくれた。しかし、それも今日で終わりになるだろう。  これまで、その男と会う時はいつも男の方が孝恵を呼び出した。孝恵が男に会うためには、男の都合に合わせるしかなかったからだ。男から誘いの電話があると、孝恵の心は弾み、他の予定をキャンセルしてでも時間を作った。  孝恵から男に電話したことは、これまで一度もなかったが、今日は孝恵から男にはじめて電話をした。電話する勇気はなかなか持てなかったが、このことを早く男に伝えなければならない。男からの誘いの電話を待っている余裕などないと覚悟を決めて携帯電話をバッグから取り出した。  携帯電話に登録してある男の電話番号を呼び出し、通話ボタンを押してから携帯電話を耳に当てた。呼び出し音を聞いている間、胸が苦しくなるくらい鼓動が激しくなったが、男は出そうにない。長い時間呼び出し音を聞いていると覚悟を決めた気持ちが萎えていく。日を改めるべきかな、男からの連絡を待つべきかなと思った瞬間に、「はい」と不機嫌そうな男の声が携帯電話の向こうから聞こえた。  孝恵は慌てて携帯電話を耳に強く当てたが、心臓が潰れそうで、次の言葉が出なかった。 「お前の方から電話してくるなって言ってるだろ」  男は怒鳴りつけるように言った。耳をつんざくような声で、孝恵は携帯電話を耳から少し離した。 「ご、ごめんなさい。で、でも、大事な話があって」 「大事な話?」  男の声のトーンが低くなった。孝恵はまた携帯電話を耳に近づけた。 「う、うん」 「なんだよ?」 「電話じゃ言いにくいんだけど」 「電話で言いにくいことかよ」  携帯電話の向こうから男の舌打ちする音がした。 「そう。会って話がしたいんだけど」 「今、忙しいんだ。要件聞いてから、会うかどうか決めるから、さっさと要件を言えよ。大した話じゃなかったら承知しねえぞ」 「うん、大事な話。驚かないでよ」 「お前が電話してきた時点で驚いてる」  男は平坦な冷めた口調で言った。 「じ、実は、わたし、お腹にあなたの赤ちゃんができちゃったみたいなの」  電話をかける前は、明るい声で言うべきなのか、神妙な声で言うべきなのか、悩んだが、男の態度のせいで暗い声になってしまった。  孝恵が言い終わると、受話器の向こうから深いため息の音がして、しばらく沈黙した。電話が切れてしまったのかと思うほど、沈黙は長かった。 「もしもし、聞こえてる?」 「ああ、聞こえてる」  無愛想な声がした。 「どうしたらいい?」 「フン、妊娠したってことか」  男は鼻を鳴らし不機嫌そうに言った。 「い、今から会える?」 「忙しいんだけどな」 「ダメ?」 「いや、会うしかねえな。でも少しだけだぞ。今から行くからいつものとこで待ってろ」  男はそう言うとすぐに電話を切った。孝恵は男の態度から、絶望的だなと思ったが、とりあえず、いつもの待ち合わせ場所の『喫茶すず』へと向かった。  いつものことだが、今日も長い時間待たされた。いつもと違うのは今日は暗澹とした気持ちで待っているということだ。これまでは、この待っている時間を幸せに感じた。これから男に会えると思うと自然と心が弾んだ。  カウンターに立つ恰幅のいいマスターと常連客であろう年配の痩せた男性との会話もこれまでは、全く耳に届かず気にならなかったが、今日はその会話が耳障りで仕方がなかった。二人の弾む会話が孝恵のざらついた気持ちに一段とやすりをかけた。 「へえ、奏さん、よかったじゃないか。孝ちゃんが後を継いでくれて、孝ちゃんに子どもができるなんてダブルで幸せが来たね。ついに奏さんもおじいちゃんか。俺にもその幸せを分けてくれよ」  マスターの口から出た『孝ちゃんに子供ができる』という言葉を聞いて、孝恵の体はピクリと反応した。呼吸するのが苦しくなって、孝恵は耳をふさいだ。 「私たち、別れた方がいいのかな?」  不安と罪悪感が大きくなると、男の腕の中で孝恵はいつも男にそう言った。その時に男から返ってくる言葉はいつも決まって、『妻とは別れるから』だった。  孝恵にとって、その言葉は希望の言葉であり、孝恵の不安や罪悪感を薄める魔法の言葉だった。しかし、その言葉は不安や罪悪感を一瞬だけ薄めることができても、完全に消すことはなかった。そんなことはわかっていたのに、自分がバカだったと孝恵は唇を噛みしめた。  体調の異変に気づいたのは一週間前だった。医者から妊娠していると告げられ、複雑な気持ちになった。病院の帰り道、自分のお腹に手を当て、これであの男は逃げ出すかもしれないという不安と不倫して妊娠したという罪悪感が大きく膨らんだ。一方で、男といっしょになれるチャンスが来たのかもしれない、この子がわたしとあの男を結んでくれるのかもしれないというバカな期待も膨らんだ。さっきの男の電話の態度から遊ばれていたことにやっと気づいた。これで捨てられるんだと覚悟した。  カランカランとカウベルが音を立てたので、孝恵は顔を上げてドアの方を見ると男が立っていた。男は口元を歪めて不機嫌そうな表情を孝恵に向けてきた。男は無言のまま、セカンドバッグをテーブルに投げるように置いて、孝恵の前にドンと座った。  孝恵は男と顔を合わせることができず、広くて厚い胸板に視線を向けていた。この胸に抱かれて幸せだと思っていた時期もあったのにと思う。しかし、幸せと思いながらも、不安と罪悪感がいつも影を落としていた。 「俺、忙しいんだけどな」  男が口を開いた。  孝恵は顔を上げて、「お仕事大変そうね」と言ったが、男はそれには答えようとはせず、体を椅子の背もたれに預け、小指で耳穴をほじりながら宙を見ていた。  マスターが水を持って注文を取りにきたが、男はすぐに帰るからと言って注文はしなかった。マスターが席から離れていくのを確認してから、孝恵は背筋を伸ばし、深呼吸をした。  孝恵が覚悟を決めて口を開こうとした瞬間に、またカウベルが鳴った。孝恵がドアの方を見るとサラリーマン風の男性が入ってきた。常連客だろうか、以前にもここで何度か顔を見た記憶がある。男性客は孝恵の後ろの席に腰を下ろした。離れた席に座ってほしかったが、そんなことは言えない。男性客はマスターにコーヒーを注文していた。  孝恵は仕切り直して、男の顔を見た。 「急に呼び出してごめんなさい」  孝恵は頭を下げた。 「いいけど、俺、ほんと、今日はあんまり時間ないんだよな」 「まだ仕事中なの」 「どうでもいいだろ」 「あ、ご、ごめんなさい」  男はテーブルを人差し指でトントンと叩いていた。 「実はね、わたしのお腹にあなたの赤ちゃんができちゃったみたいなの」  小さくて震える声になった。 「それは、さっき、電話で聞いた」  男はイライラした様子で答えた。 「そ、そうね。さっき電話で話したね」  孝恵は俯いた。 「でも、本当かよ。思い込んでるだけじゃねえのか」 「本当よ。病院に行ってきたんだから」  孝恵はお腹に手を当て、少し声を張った。 「嘘つけ」  男は胸のポケットから煙草の箱を取り出した。 「こんな大事なことで嘘つくわけないでしょ」  さすがの孝恵も声が大きくなった。 「でも、急にそんなこと言われてもなあ」  男は面倒くさそうに言って、箱から煙草を一本抜いて口に咥えた。 「どうしたらいい?」  男はなにも言わず、上着のポケットからジッポーのライターを取り出した。孝恵が男の誕生日にプレゼントしたネーム入りのものだ。男はそのライターで煙草に火をつけて煙を長い時間吸い込んでから、孝恵の顔に向かって思い切り紫煙を吐いた。紫煙が孝恵の顔の前に広がり、孝恵はそれを右手で払った。 「生んでも大丈夫かな?」 「バカなこと言うなよ」 「やっぱり堕ろした方がいい?」 「当たり前だろ。費用は俺の方で何とかしてやる」 「う、うん、わ、わかった」  孝恵は、そう言うしかなかった。  男はしばらく口を開かず、孝恵に目を合わせようともせず、煙草をせわしなく何度も吸っていた。男もさすがに戸惑っている様子だった。男は煙草を灰皿に押し付けてから、孝恵の方に冷めた視線を向けた。 「これを機に、俺たちの関係もそろそろ終わりにしようか。いつまでもこんな関係を続けていても、お互いのためにならないしな」  男はそう言うと、すぐに次の煙草に火を点けた。 「う、うん、わ、わかった」  孝恵は、またそう言うしかできなかった。奥さんと別れるって言ってたじゃない、と今ここでこの男に詰めよったところで無駄だということが、今やっとわかってしまった。  男は煙草の煙を思いきり吸い込んでから、すぐに灰皿に押し付けた。 「じゃあ、今日で終わりだ。子どもを堕ろす費用はメールで請求してくれたら、お前の銀行の口座に振り込んどくから、それでいいな」  男は口に残っていた紫煙を漏らしながら言って立ち上がった。孝恵は何も言えず、立ち上がった男を見上げた。男が冷めた視線で孝恵を見下ろした。 「これ、返すわ。もう使わねえし」  男はジッポーのライターをテーブルの上にコツンと置いた。 「えっ、それは返さなくていい」  孝恵はテーブルの上の銀色に光るライターを見た後、男の顔を見上げた。 「俺もいらねえし、お前がいらねえなら捨てとけよ。じゃあな」  男は孝恵を見下ろし肩をポンと叩いた。叩かれた瞬間に孝恵の肩はガクリと落ちた。男が喫茶店のドアを開けて出ていった。カウベルの音がカランカランと試合終了のゴングのように空しく孝恵の耳に届いた。  カウベルの音が消えて、店内の掛時計に視線をやった。目が潤んで時計の針が見えなかった。ハンカチで涙を拭ってから、もう一度見ると午後六時を少しまわったところだった。  この店の正確な閉店の時間は知らないが、そろそろ閉店の時間のはずだ。二度とこの店に来ることもないだろうと店内を見渡した。テーブルの上に置いたままのジッポーのライターに視線をやった。もう必要ないものだと躊躇いながらも、それをバッグに放り込んだ。  男が結婚していることを最初から知っていれば、誘われた時に断っていたのに、魔法の言葉がなかったらすぐに別れたのに、そう思いながら、孝恵は『喫茶すず』を後にした。
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