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男児誕生
そこら中のテーブルから笑い声とともに紫煙が舞い上がり、それらが飴色になった壁や天井に吸い込まれていく。酔いがまわり、目の前がぼやけていたが、今日はまだまだ飲み足りない気分だ。
今後について、父親との話し合いが終わり、あとの残りの時間は父子水入らずでゆっくりと飲みたい気分だ。
小皿の上で潤いを失い、萎んでしまったきゅうりの浅漬けを二切れまとめて指でつまみ上げ、口に放り込んだ。咀嚼すると、歯応えはなくなっていたが、酸味と旨味はまだ残っていて、口の中でジュワっと広がった。続いて目の前のジョッキを持ち上げ、泡が無くなったビールを飲み干した。口の中の酸味と旨味がビールの苦味に流され胃の中へ落ちていった。
煙草を一本取り出して、前に座る父親の三浦奏輔の顔を見た。奏輔は満足そうに笑みを浮かべてこっちを見ていた。
「父さん、ビールは?」
三浦孝士は奏輔の空になったビールジョッキを指に挟んだ煙草でさした。
「そうだな。今日は孝士のおかげて気分もいいことだし、もう少し飲もうかな」
奏輔は陽に焼けた細面の顔をしわくちゃにして言った。
孝士は店員を呼んで、吸い殻であふれた灰皿の交換を頼み、生ビール二つと子持ちししゃもと漬け物の盛り合わせを注文した。店員が灰皿を代えてくれると同時に、孝士は煙草に火をつけた。天井の飴色の梁に向けて紫煙を吐いて、これから先のことを思い浮かべた。これから新しい未来が広がる。チャレンジすることに不安は全くない。ワクワクした希望が膨らんでいくばかりだ。
「孝士、お前これから忙しくなるぞ。体が資本だから煙草は少し控えた方がいいんじゃないか」
奏輔がこの日初めて少しだけ渋い表情を浮かべた。眉間に皺が入っていたが、口元は綻んでいた。
「わかってる。これからは健康に注意して、しっかり父さんの後を継ぐよ」
「ありがとうな。わしは嬉しいけど、あの店は客足も落ちてるし、本当にお前やっていけるのか。このままサラリーマンでいた方がいいんじゃないのか。翔子さんに苦労もかけるし、あの店は、わしの代で畳んでもいいんだぞ」
「また、話が戻ってんじゃないか」
孝士はうんざりするように言った。
「でもな、やっぱり心配だ。あの店がお前が言うようにうまくいくもんなのか」
「俺があの店を継ぐと決めたんだ。但し、何度も言うけど、増床して果物屋からスーパーに改装するからな。そうしたらきっとうまくいく」
「最近は大手のスーパーがあちこちにオープンしているし簡単じゃないぞ」
「そんなことわかってるよ。普通のスーパーじゃ勝てないけど、まずは父さんのように味で勝負する店をつくる。自ら産地まで足を運んで美味しいものを仕入れる。それから食の安全だ。食品添加物や農薬を出来るだけ排除していきたいんだ。大手スーパーとは違う、大手スーパーのできないことで勝負する」
「まあ、難しいことは、よくわからんが、お客さんは大事にしろ」
「ああ、わかってる。そこは父さんを見て育ったからな」
「本当にわかってるのか」
奏輔は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ああ、大丈夫だ」
孝士はそう言ってから新しく届いた冷えたジョッキを口にして、ししゃもを手でつまみ頭からかじった。
「孝士、ありがとうな。お前には親孝行してもらおうと思って孝士と名付けたんだが、最後に、やっと名前通りの親孝行してくれるんだな」
「最後に、やっとだなんて、失礼だな。これまでも親孝行してんだろ」
「そうだったか。お前が親孝行したなんて、これまでのわしの記憶にはないぞ」
奏輔が大きな口を開けて、ワハハと笑った。
「ひでえな、俺はこれまでにもいろいろ親孝行したぞ」
孝士が口を尖らせてみせた。
「それにしても、お前が店を継いでくれるなんて、わしは全く思ってもみなかった。わしは……」
さっきまで笑っていた奏輔だったが、熱いものがこみ上げたのか、急に言葉を詰まらせ、潤んだ目を宙に向けた。よく見ると光るものが頬を伝っていた。
奏輔が孝士に向かって、こんなに感情を出すのはめずらしい。孝士が店を継ぐことを本当に喜んでくれていると思うと、孝士まで胸が熱くなった。
果物店を継ぐことを父親の奏輔が涙するほど喜んでくれたことが嬉しくて、孝士の「ただいま」という声は弾んだ。
「お帰りなさい。お義父さんはどうだったの」
玄関で靴を脱いでいると、妻の翔子が玄関まで来て訊いてきた。
「ビックリするくらい喜んでくれてたぞ。果物店からスーパーミウラにするのもいいと言ってくれたしな。あの親父が、大きな口開けて笑ってたと思ったら、急に涙流して嬉し泣きしたんだぞ」
孝士は玄関からリビングへと向かいながら後ろからついてくる翔子に言った。
「へぇー、そうなの。あのお義父さんがそんなに喜んでくれてたんだ。わたしもお義父さんの喜んでる顔見たかったわ。あなたよかったわね。でも、疲れたでしょ。すぐにお風呂入ります。それともコーヒーでもいれましょうか」
翔子が後ろからついてきた。
「ありがとう。コーヒーでも飲もうかな。これからいろいろ大変なこともあるけど、とりあえずはオープンに向けての準備だな」
孝士はリビングで胡座をかいて、両膝に手を置いた。
「そう、それはよかったわ」
翔子がキッチンから笑みを浮かべながら言った。
「これから、翔子にもいろいろと手伝ってもらわないといけないから、苦労かけるけどよろしく頼むな」
孝士はキッチンに立つ翔子に向かって言った。
「それがね、あなたに報告しなければならないことがあるの」
翔子がキッチンから出てきてコーヒーカップを孝士の前に置きながら言った。翔子が眉をハの字にしていた。
「報告って?」
孝士はコーヒーカップを口にして、翔子の言葉を待った。
「スーパーミウラのオープンなんだけど、わたしはその時、手伝えないかもしれない」
「手伝えない、それ、どういうことだ?」
孝士は少し苛ついた。翔子はスーパーミウラをオープンさせることに賛成してくれたはずなのに、今になってどういうことだと思った。
「実はね、もしかしてとは思ってたんだけど、やっぱり当たりだったの」
「当たりって?」
孝士は当たりの意味がわからず、表情が厳しくなっているのが自分でもわかった。
「あのね」
翔子は言葉を切って、孝士の顔を見てきた。翔子の表情は孝士とは正反対で笑みが広がっている。
「当たりってなんだ。ちゃんと説明してくれ」
孝士が苛ついているのに、翔子は笑みを浮かべている。孝士は全く意味がわからなかった。
「ごめんなさい。わたしね、妊娠したみたいなの」
「えっ、ニンシン?」
孝士は翔子の言った言葉の意味がわからなかった。
「そうよ。わたし、妊娠したの」
翔子が背筋を伸ばし、自分のお腹に両手を当てた。孝士と翔子は結婚して五年になる。結婚してから、なかなか子宝に恵まれなかった。二人とも子どもは欲しかったが、できなければできないで仕方がないと少しあきらめかけてきた時期だった。
孝士は、翔子のニンシンという言葉を聞いてから、それが自分の子どもができたということだと理解するまでにしばらく時間がかかってしまった。
「ニンシンって、それは、俺たちの子どもができたってことか」
「そうよ。だけど、このタイミングだから、あなたが大変になるかもしれない」
翔子の表情から笑みが消えた。
「そうか」
孝士は翔子の顔をじっと見つめた。
「あなた、やっぱり困るよね」
「なにが困るんだ」
「これからスーパーミウラをオープンさせる準備に入るわけでしょ。その為に二人とも会社をやめて安定した収入もなくなっちゃったし、その上、わたしがスーパーミウラの手伝いができなくなったら、あなたが大変になるじゃない」
翔子は俯きながら言った。
「そんなの大丈夫だろ」
「大丈夫かな」
「当たり前だろ。よかったじゃないか」
「そう。そのわりには、あなた、嬉しそうじゃないわよ」
「いや、そうじゃなくて、信じられないというか、まだピンとこない。本当に俺たちの子どもができたんだよな」
「そう、わたしたちの子どもがやっとできたの。この中に」
翔子が笑みを浮かべて立ち上がり、お腹に手を当てた。孝士は翔子のお腹に視線を向けた。しばらく翔子のお腹を見て、そして飛び上がるように立ち上がった。
「そ、そうかー。やったなー、やった、やったー。ついに俺たちに子どもができたんだー」
孝士は両手を思いきり突き上げたあと、翔子をギュッと抱きしめた。孝士の目からは涙がボロボロと溢れた。
「でもね、予定日とスーパーミウラのオープン日が近いのよね。わたしがオープンの手伝いが出来なくなるのがちょっと心配なの。あなたに負担がかかるでしょ」
翔子は孝士の胸の中でそう言った。
「そんなの、全然平気だよ。子どもができるとわかっただけで、俺は二倍も三倍も働けるよ。翔子と生まれてくる子どものためなら、俺は少々のことは平気だ。よーし、今年はすごい年になるぞ。スーパーミウラのオープンと我が子の誕生だ」
孝士がテーブルの上に本とノートを並べて腕を組んでいる。「うーん」と声を上げて、天井に視線を向けたまま動かない。しばらくすると、また本とノートに視線を落とす。本をパラパラとめくり、ボールペンを握るとノートに漢字を書き込む。そしてまた腕を組んで天井に視線を向ける。孝士はその動作を朝から何度も何度も繰り返していた。真っ白だったページが漢字でびっしりと埋まり、書くスペースが無くなるとページをめくり真っ白な新しいページを開いた。そして、そのページも真っ黒にしてしまう。
「あなた、そろそろ、お昼ご飯にしますか」
翔子の声が背中から聞こえた。
孝士は振りむき、壁に掛かる時計を見た。すでに午後二時を過ぎていた。
「あっ、あー、もうこんな時間か」
そう言って、思いきり伸びをした。集中するとあっという間に時間が経つなと思った。こんなに集中したのはいつ以来だろう。もしかしたら、生まれてはじめてかもしれない。
「あなた、決まりましたか」
翔子がテーブルを挟んで前に座り、孝士の前のノートを覗き込んだ。
「いや、まだ、決めかねてるんだ」
「少し、休憩しましょうよ。お昼はチャーハンにしましたから」
「おー、いいな」
孝士がノートを開いたままテーブルの端に寄せた。翔子がキッチンから湯気のあがるチャーハンとスープを孝士の前に置いた。
「いただきます」
孝士は手を合わせてからチャーハンにスプーンを刺した。チャーハンをスプーンで口に運びながらも、ついテーブルの端に置いたノートに目がいった。
「あなた、すごく熱心ね」
翔子の声に孝士は顔を上げた。翔子の口元が綻んでいる。
「そりゃそうだよ」
「あなたがこんなに喜んでくれるとは思わなかったわ」
「えっ、そ、そうか」
「子どものことより、仕事のことしか頭にないのかと思ってたから」
「自分の子どもができたら嬉しいに決まってるだろ」
「確かにそうよね」
「それより、翔子は俺の体のこと心配してくれてるけど、そんなことより自分の体調に注意してくれよな」
「わかってる。もう、わたしだけの体じゃないからね」
「そうだ。俺たちの宝物がその中にいるんだからな」
孝士が翔子の目を見た後、視線を翔子のお腹に落とした。
「そうね、ここにいるのはわたしたちの宝物よね」
翔子はお腹に手を当てニコリと笑みを浮かべた。
チャーハンを食べ終わると、孝士はすぐに本とノートを手元に寄せて、午前中の続きをはじめた。候補はあがるがなかなか決めきれない。
翔子が洗い物を片付けてから孝士の前に腰をおろして、ノートを覗きこんだ。
「どんな感じ?」
「これなんてどうかな」
孝士はノートに書いてあるたくさんの漢字の中から、漢字二文字を丸で囲んだ。
「なんて読むの」
翔子が訊いた。
「ユキヒトだ。どうだ、いい名前だろ」
「うん、いいんじゃない」
「じゃあ、これにするか」
孝士がノートに書いた多くの名前の候補から『幸仁』と書いた二文字を赤のボールペンで四角く囲んだ。名前が決まった充足感を味わいながら、目頭を揉んだ。
「三浦幸仁か、いい名前ね」
「生まれてくる子には、周りの人を幸せにする人間になってほしいんだ。そう思ってこの名前に決めた」
孝士はそう言って、翔子の横に移動した。
「幸仁ね」
翔子が自分のお腹に手を当てた。
「幸仁、これからよろしくな」
孝士も翔子のお腹に手を当てた。
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