女児誕生

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女児誕生

 一人娘から聞いた相談事は、さすがにショックだった。よく聞く話だが、ドラマや映画だけの世界で、まさか、自分の娘がそんなことをしていたとは思ってもみなかった。  娘は真面目で心優しい女性で、決してふしだらな女性ではない。これまで、親に心配をかけたことなど、一度もなかった。佐山節子にとって自慢の娘だ。それが、どうしてこんなことになってしまったのか。経験が乏しく、男を見る目がなかったのだろうか。既婚か未婚かの見分けもつかないし、妻と別れるからといった男の戯言を信じてしまうなんて、本当に情けない。 「ハァー、最近体調が悪そうだと思ってたら。そういうことだったのね。それは困ったわね」  節子は深いため息をついて、唇を噛みしめた。 「軽率な娘でごめんなさい」  孝恵はテーブルに額が当たるくらいに深々と頭を下げた。 「終わったことは仕方ないわね。とりあえず、お母さんは子どもを堕ろすことには絶対反対だからね。せっかくできた命なんだから、お腹の子に罪はないんだし、堕ろすなんて可哀想よ」 「そうなったら、お父さんにも話さないといけないし、お父さんに怒られるよ」 「それくらいは覚悟しなさい。あなたのやったことは怒られて当然のことなんだから。怒られるのが嫌でお腹の子を殺しちゃうの。そんなことしたら、孝恵は一生後悔するわよ」  いつもは孝恵に優しい節子だが、さすがに今の状況ではそういうわけにいかない。 「わ、わかった。わたし、お父さんにちゃんと話して、この子を産むわ」  孝恵はお腹に手を当て、大きく息を吸った。 「そうね、そうしましょう。まず、わたしからお父さんに話すから、その後、孝恵から頭を下げて、ちゃんとお父さんに説明しなさい。お父さんに許してもらって、赤ちゃんは生んであげて三人で育てましょう」 「でも、ちゃんと育てられるかな」 「何とかなるわよ。わたしもお父さんも協力するわよ。さあ、これから忙しくなるわね」  節子は出来るだけ明るい口調で言った。今さら娘を非難して怒ったところで仕方がない。お腹の子には罪がないのだから、お腹の子の存在を否定する発言はやめた。それより新しい命の誕生に感謝し、子どもが生まれてくることを楽しみに待つべきだと思った。 「わかった」  孝恵は俯いたまま小さく頷いた。  節子が夫の昭一に孝恵が不倫の末、妊娠してしまったことを告げると、昭一は真っ赤な顔をして怒り出した。相手の男がどこの誰で、その男に怒りをぶつけないと気が収まらない。男がどこの誰かを教えろと喚いた。節子も相手の男のことは孝恵から聞いていないと言うと、昭一の怒りは一段と激しくなった。普段は物静かで温厚な昭一なのに、さすがにこの時は違った。かわいい一人娘が傷つけられたわけだから、夫の気持ちがわからないわけではない。しかし、今、それをしたところで、誰も得をしない。悲しみや怒り、苦しみが増すばかりだと節子は昭一を丸一日かけて説得した。  その日は朝から晩までずっと二人の間はギスギスしていたが、最後に昭一は節子の説得に首を縦に振った。節子の説得が終わってから、孝恵から昭一に頭を下げさせた。 「お父さん、軽率なことをしてごめんなさい。でも、お腹の子どもだけは生ませてください」  孝恵は昭一の前で正座し頭を下げた。昭一はしばらく目を閉じて黙っていた。節子は隣に座り、じっと昭一の言葉を待った。 「父さんと母さんにかわいい孫の顔を見せてくれ」  昭一はそう言って孝恵に笑みを向けてくれた。昭一の笑みと言葉に節子は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。  孝恵は「うん、お父さんありがとう」と言って涙を流した。  新しい命の誕生とともに、どこからともなく「オギャア、オギャア」と赤ちゃんの泣き声が響き渡る。その声を聞きながら、節子と昭一は長椅子に二人並んで座っていた。二人とも椅子から立ち上がる気力はなかった。節子は椅子に座ったまま号泣し続けた。隣に座っている昭一は体を震わせていた。 「孝恵がお腹の子どもを堕ろすと言った時に、わたしが反対しなければよかったのよ」  節子は嗚咽しながら言った。 「お前のせいじゃない」  昭一の声は震えていた。 「孝恵は子どもを堕ろすと言ってたし、あなたは生むことに反対してた。わたしだけが子どもを生むべきだなんて偉そうに言ったからこんなことになってしまったのよ。あなたも本当はわたしのことを恨んでるんでしょ」  場所もわきまえず、自分でもわけがわからないくらいに喚いた。 「別にお前のことを恨んでなんていない。ショックは大きいが、今さら言っても仕方ないことだ」 「嘘、あなたは恨んでるわ。遠慮しないで、わたしのことをもっと責めてよ」  節子は隣に座る昭一の体を揺すった。 「いい加減にしないか。お前がそんなことでどうするんだ。生まれてきた孫娘のためにも、悲しんでる場合じゃないんだぞ。さあ、そろそろ孫娘に会いに行くぞ」  昭一が節子の両肩を握り、節子の目をじっと見つめた。 「孫娘の顔なんて見たくない」  節子はだだっ子のように首を横に振った。 「孝恵が命がけで生んだ赤ん坊だ。孝恵のためにも、赤ん坊のためにも顔を見てやれ」 「できるわけないわ」  節子は下を向いて首を横に振った。 「これからは、孝恵の代わりに赤ん坊の世話をお前がやらなければならないんだぞ」 「わたし、生きていけない。わたしも死にたい」  節子は昭一の胸に顔を埋めた。 「バカなこと言うな。生まれてきた孫娘のために、お前がしっかりしないでどうするんだ」  昭一が少し声を荒げて、節子の肩を揺らした。  節子は嗚咽しながら頷いた。顔を上げ昭一の顔を見ると、夫は涙を堪えて節子に向けて笑みを浮かべていた。本当はこの人も辛いはずだ。それをグッと堪えてくれている。 「死んだ孝恵と生まれてきた赤ん坊のためにも、二人で赤ん坊を見に行こう」  昭一が節子の背中をポンポンと叩いた。孫娘の顔を見て気持ちを切り替えなければならない、昭一の言う通り、わたしがしっかりしなければならない。節子は頷いて、昭一に向けて笑みを返した。これから、わたしが母親がわりになって孫娘を育てるんだ。孝恵の分まで、孫娘を幸せにするんだ。昭一の顔を見ながら、節子は必死で気持ちを切り替えた。  昭一に肩を抱かれながら新生児室へと向かった。足元がフラフラするが、赤ん坊にはしっかりした祖母の姿を見せよう。新生児室のある五階までエレベーターで上がり、長い廊下を歩いた。昭一が先に歩いて行く。節子はゆっくりとした足取りで昭一の背中を追いかけた。先に新生児室を覗いている昭一が笑みを浮かべて手招きをするので、節子は足を早めた。昭一の隣に立って窓越しに新生児室を覗いた。 「あの子が孝恵の娘だぞ。わしとお前の孫娘だ。孝恵とお前に似てかわいいぞ」  昭一が窓の外から新生児室の中を指さした。昭一の指さす方向へ視線を向けると、赤くて小さな顔と紅葉のような小さな手が産着から覗いているのが見えた。  愛らしかった。さっき昭一の胸で流したのとは違う涙が頬を伝った。孝恵が生まれた日のことを思い出した。すると、また違う涙があふれてきた。  この孫娘のために昭一と二人で、孝恵を失った悲しみを乗り越えよう。孫娘の前では悲しい顔は絶対に見せられない。そんな顔を見せたら孫娘が傷ついてしまう。 「ところで、この子の名前は決まったのか」  昭一が新生児室の中を覗いたまま訊いてきた。名前はまだ決めていなかった。孝恵と話し合っていたが、候補はいくつか出たものの決まらないままだった。  孝恵の名前は節子と昭一と二人で考えた。あれこれと悩みに悩んで『孝恵』と決めた。素直で他人への思いやりのある娘に育ってほしいと思って、『孝恵』と名付けた。  親の欲目かもしれないが、孝恵は名前通り素直で優しく、他人思いの娘に育ってくれた。自分を犠牲にしてでも他人を思いやる優しい娘だった。しかし、孝恵自身は幸せでなかったのかもしれない。他人を幸せにすることも大切だけど、自分を犠牲にしちゃいけない。まず、自分自身が幸せにならないと意味がない。  生まれてきた孫娘には、孝恵とは違い、孫娘自身が幸せになってほしい。そして、その幸せを周りに振りまくような、そんな明るい娘に育ってほしい。節子はそう思って、新生児室の孫娘をじっと眺めていた。こうしていると知らぬ間に長い時間が経っていた。 「その奥が新生児室だ」  エレベーターの方からしゃがれた男性の声が聞こえた。声のする方に顔を向けると二人連れの男性が横に並んでこっちに近づいてきた。中年の恰幅のいい男と初老の痩せた男だった。 「ここに孝ちゃんの赤ちゃんがいるのか」  恰幅のいい男がそう言って、節子の隣に立ち、中を覗きこんだ。  節子は、男が言った『孝ちゃんの赤ちゃん』という言葉を聞いてビクッと反応した。もしかして、この二人の知り合いが孝恵の不倫相手ではないのかと、節子は男たちを睨むようにして見た。節子は全く知らない男たちだった。  節子は昭一の顔を見た。昭一の眉間には深い皺が入り、目はつり上がっていた。昭一の拳が強く握られてブルブルと震えていた。昭一が男たちを殴りだすのではないかと節子は心配になった。 「あの子だ。ほら、可愛いだろ」  痩せた年配の男が新生児室の中を指さしながら言った。男の指さす方向を見ると、自分の孫娘を指さしているわけではなかった。 「ついに孝ちゃんもお父さんになったのか。俺も早く子供がほしいな」 「お前は、その前に結婚だろ」 「奏さん、それ言わないでよ。それ言われると、俺、落ち込んじゃうよ」 「店のアルバイトとかどうなんだ」 「ダメダメ。全く相手にされてない。俺は年とり過ぎたし、それにこの体じゃなぁ」  恰幅のいい男はそう言って、自分のお腹の肉をつまみながら満面のえびす顔を見せていた。どうやら孝恵とは全く関係のない男たちのようだ。フッと肩の力が抜けた。昭一も「フゥー」と息を吐いた。昭一のつり上がった目が元に戻り、握っていた拳は開かれた。 「少し、休憩して何か軽く腹にいれておくか」 「食欲はないですけど、コーヒーくらい飲みましょうかね」  もう少し孫娘を見ていたい気もするが、キリがないので、一旦、新生児室を離れることにした。さっきの男性二人に会釈して、新生児室を後にする時、年配の痩せた男性が「お孫さんですか」と満面の笑みで訊いてきたので、「ええ」とだけ返事した。 「おめでとうございます」  男性が言ったので、「ありがとうございます」と頭を下げてから、新生児室を後にした。  休憩室には若い男女と節子と同世代の女性二人が座って談笑していた。節子は空いた席に腰を下ろした。昭一が売店でコーヒーとサンドイッチを買ってテーブルまで持ってきてくれた。 「何か食べておかないと体に毒だぞ、ほれ」  昭一が心配そうに節子にサンドイッチを一切れ手渡してくれた。昔から優しくて頼りになる夫だ。  節子はサンドイッチを口に入れて咀嚼したが、なかなか喉を通らなかった。最後はコーヒーを飲んで胃に流しこんだ。昭一と二人きりでこうして外でコーヒーを飲むのはいつ以来だろう。最近はほとんど孝恵と二人でこうした時間を過ごしてした。それがもう出来ないのかと思うと、さっき食べたサンドイッチが胃液とともに上がってきそうになった。  昭一は二切れ目のサンドウィッチをかじっていた。節子はコーヒーを飲み終わってから、窓の近くまで行って外の景色を眺めた。真っ青な空に真綿のような雲が浮かんでいる。視線を下げると緑の葉が太陽の光でキラキラと輝いていた。 「ちょっと、外を散歩してきます」  外の空気でも吸って気分転換がしたくなった。 「いっしょに行こうか」  口いっぱいにサンドウィッチを頬張ったまま昭一が言った。 「いえ、一人でぶらりと病院の周りを散歩してきます。あなたはゆっくりしててください」  散歩したところで、今の気持ちが晴れるとは思わないが、じっとこの場にいるのも耐えられなかった。  さっき見た孫娘の姿を思い浮かべながら散歩すると、少し気分は晴れるかもしれない。そう期待して重い足取りのまま休憩室を後にし、病院のロビーを抜けた。  病院から一歩外に出ると真夏の太陽が容赦なく照りつけた。アスファルトからは、ゆらゆらとかげろうが立っていた。頭に日差しが突き刺さる。帽子か日傘を持ってくるべきだったと自分の影に視線を落とし歩いていると、人の気配を感じた。誰かがこっちを見ている気がした。周りに人影はなかったはずだがと思い顔を上げて見ると、そこには人ではなく黄色い花を咲かせた大きな向日葵が並んで咲いていた。黄色い花びらが太陽の光に反射し、まぶしくキラキラと輝いている。どれも節子の背丈より高い位置に大きな花を咲かせていた。節子の足は向日葵の列へと向かった。一番立派に花を咲かせている右端の向日葵の前に立ち、目を細めて見上げた。向日葵が「元気出してね」と声をかけてくれた気がした。向日葵はお陽様に向かって顔を上げ、キラキラと輝いて笑っていた。それを見て、節子の気持ちが少しだけ晴れやかになった。 「向日葵、ありがとう。少し元気になれたわ」  節子は向日葵を見上げて、手を合わせた。
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