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「シェイン様」
主治医が耳元でけっこうな大きさの声で呼びかける。
父は少しばかり医師の方を見ただけで、またチェス盤に視線を戻した。
「お客様がいらしてます」
「いや騎士ではだめだ」
どうやらチェス・パズルの話をしているらしい。
テティアが傍に行っても、視線すら寄越さなかった。
「この状態で何時間も過ごされることもあります。ごく稀に、突然正解することもあります。そう言う日は少しだけ活動的な気分になるのか、ファーン様のお茶のお誘いを受けられることがあります」
「私チェスはよく分かりません」
ダリウスが後ろからその盤を覗く。比較的優しい問題で、現役の頃の父なら見た瞬間に答えただろう。
「あと2手、祈祷師でチェックメイトです」
テティアは一瞬考える。
正解して活動的になるのは嬉しくて落ち着かないのではないだろうか。
それを聞いてほしくてお茶の誘いを受けているのではと。
「ダリウスさん、クラウン・マジックで正解の手をうっすら見せてあげたらどうなりますかね?」
「どうなるでしょうか」
「あくまで自分で閃いたって思えるくらいうっすら……あ、先生。シェイン様は目は?」
「よく見えてらっしゃいます」
ダリウスはやや気は乗らないものの、テティアの考えに乗っかり正解の手を再現するように黒と白の駒を分身させ動かした。
「お…………」
目の前で突然動いたように見えた駒を父親はどう思ったのか。
「見たか?」
「何をでございましょう?」
主治医がとぼけて答える。
「ふむ……祈祷師か……。チェックメイト」
骨ばった手がゆっくり駒を動かし、王の駒を倒す。
カランと転がったキングをテティアが拾うと、彼は不思議そうな顔をした。
「チェス、お好きなんですね」
テティアはキングを盤に置くと、大きくゆっくりと話しかけた。
瞼の下がった目は優しそうで、ダリウスと同じグレーの目をしていた。
頬はこけてしまっているが、その穏やかな表情を見るとダリウスの幼少期の話と結びつけるのは難しかった。
「誰だね君は」
「ダリウス様の婚約者です」
「ほう……誰かね」
息子を認識していないのは本当らしい。
テティアの胸がきゅっと切なくなった。
「シェイン様と同じで、チェスが趣味の方です」
そんなことはないのだが、興味ありそうな話題で反応を見た。
「そうか。ここいらのものは誰も相手にならん。今度お相手願いたいものだ」
「ではそうお伝えしますね。私、テティアって言います。また会いに来てもよろしいでしょうか?」
「フレッドを通せ」
「はい、そうさせて頂きます。それでは失礼いたしますね」
短い会話を終えると、テティアはダリウスの元に戻って来た。
「ダリウスさん、という訳です」
「……きっと明日には忘れています」
「それならその場で勝負を挑めばいいじゃないですか。話をするよりは気が楽じゃないですか?」
「あなたはどうしても私に接点を持たせたいのですね」
「そうですよ。だってダリウスさんの売り込みに来てるんですから!」
唯一ダリウスが前向きになれない問題に、テティアの方が積極的に取り組んでくれる。
いつもは先行き不透明なことに不安を抱く質なのに、こんな最適解の見えない問題に解決意欲を見せてくれる。
「ありがとうございます。あなたを伴侶に望んで本当に良かったと思います」
「も、もう、急にそう言うのは無しです……ほら、次はお母様ですよ!」
「ダリウス様が急に面会を望まれたのは婚約者様の影響ですか」
「ええ。彼女がいなければ私はずっと心にしこりを抱えたまま過ごしていたでしょうね。母は?」
恐らく庭だろうと言うので、父の部屋からそのまま温室へと出る。
花の香りが閉じ込められた温室に入ると、小さな噴水の音が聞こえてきた。
石畳の小径の先には、カウチのクッションに埋もれるようにして背を預けている、年老いてはいるが上品さを感じる老婆が座っていた。
使用人の手を借りてお茶を楽しんでいるようだった。
「ファーン様、お加減いかがですかな。実はお客様がいらしたようです」
「まあこんな田舎の屋敷に誰かしら。どうぞ連れて来てちょうだい」
見かけよりはしっかりした声でそう言うと、医師がテティアに頷いた。
テティアが進み出て、カウチの傍までやって来る。
「こんにちは。お茶のお時間にお邪魔して申し訳ございません」
「……ええ、いいのよ。…………?」
顔を上げた母親は何故かやたら熱心にテティアの顔を見ている。
使用人に持っていたカップを押し付けると、テティアの顔を良く見たいのか身を乗り出した。
不思議に思いつつも彼女が無理をしないようにすぐ近づいたテティアは、カウチの傍にしゃがみ顔が見えるようにしてやった。
「ファーン様? ……あの……?」
「顔をよく見せてちょうだい……」
母親は何故かテティアの顔に手を伸ばすと、皺だらけの指先でテティアの頬にそっと触れる。それから髪に触れると、肩に垂らしていたひと房を手に取りしげしげと見た。
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