第一章 ~運命の始まり~

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ヴァーレ 邸区 ヴェルマイヤの邸 浴室。 ヴェルマイヤが花びらを浮かべた浴槽にゆったりと浸かっている。 ec58db75-c4ff-4d25-b41d-cda6b15ebeb0 アグネスがその長い金髪を櫛で梳いている。 「ほんとうに、いつ見てもお美しい これほど見事に輝く金色の御髪は皇女様だけですよ」 当然でしょうと言うように、ふふんと微笑するヴェルマイヤ。 お気に入りの花風呂に入っている時はいつも機嫌がいい。 「それで? 邸の手配はどうなっているの?」 アグネスがビクッとする。 「それが、まだ探している最中でして」 「まだ?」 ヴェルマイヤの語気が強くなる。 「も、申し訳ございません 急ぎ手配いたします」 扉が開いて戸口にバルグが現れる。 「ふむ いい眺めだ」 ヴェルマイヤがご機嫌斜めな顔になる。 「アグネス 下がっていいわ」 「かしこまりました」 出て行く。 「見送りに来なかったな」 「見送り? ああ今日だったわね、神殿への出立は」 今朝、シグルは即位礼のためにユノと供に神殿へ向かった。 神族たちが中央門に勢揃いして儀礼として見送ったのだが、ヴェルマイヤは現れなかった。 「何が気に入らない」 「そうね、今一番気に入らないのはユノをヴァーレに呼び戻したあなたよ」 「俺なのか?」 服を脱ぎ始める。 「何をしているの」 「皇女様のご機嫌を取ろうかと」 裸になって浴槽に入る。 「なぜそうもユノを嫌う?」 「盲人のくせに何でもわかっているような顔をして薄気味悪いからよ」 「そう思うのは何かやましいことがあるからじゃないのか」 「私が? それはあなたではなくて?」 「俺は何もない」 「あら、そう?」 ヴェルマイヤが意味深な目を向ける。 それが何を言わんとしているのか、わかって目を逸らすバルグ。 正直、バルグもユノは苦手な存在だ。 子どもの頃は不気味に感じることすらあった。 だが、なぜかシグルは懐いていた。 変人同士気が合うのか、とにかくあのシグルのお守りができるのはユノしかいない。 「シグルには神帝として最低限の公務はやってもらう ユノが側人としてついていれば俺は助かる」 「わかったわよ でもユノに余計な邪魔はさせないようにして」 それはヴェルマイヤに言われるまでもないことだ。 「かつては"何でも見通せる盲目の神官"として名を馳せていたが、七年間ヴァーレを遠ざかって政治的影響力はもうない 本人もそれはよくわかっているはずだ」 千里眼があるのなんのとも言われているが、それは全くもって馬鹿馬鹿しい話だ。 暗殺疑惑も、先帝に信頼されていたユノの存在を煩わしく思う連中のくだらない戯言だ。 正気を失くしたシエイラ妃が、窓から落ちて死んだのは自死だった可能性が高い。 俺の父親は、元々心臓に持病を抱えていた。 あの時、発作を起こさなくてもいずれは同じことになっていた。 だから、あれは仕方なかったのだ。 ヴェルマイヤがふふんと笑う。 「今は神族会議長に誰も逆らえない ということかしら? バルグ卿」 つま先でバルグの胸をなぞる。 そのつま先に口づけるバルグ。 「今ヴァーレで俺に逆らうのはあなたくらいですよ、皇女」 バルグの手がヴェルマイヤの脚を撫でる。 「だがこれには逆らえないだろう?」と愛撫を続ける。 「んふふ」と笑いながら身をよじるヴェルマイヤ。 「逆らえないのはあなたのほうでしょう?」 浴槽の中、お互いの欲望をぶつけ合うかのような二人。 神都 郊外 救護院。 台所で子供たちにせかされながら食事の支度をしているエリン。 「エリンおねえちゃん まだあ? お腹すいたよお」 「もうすぐだからね じゃあ食器出すのを手伝ってくれる?」 「わかったー」 院長が来て「エリン あなたにお客様がいらしてますよ」と伝える。 「お客様?」 「ヴァーレからのお使いだそうよ」 不安な面持ちで台所を出て行くエリンを院長が心配そうな顔で見る。 玄関。 アグネスがいる。 「アグネスさん?!」 怯えたように身を硬くするエリン。 「な、何のご用ですか」 「皇女様からのおことづけです 神都に邸を用意するのでそちらへ移るようにとのことです」 言われている意味がわからないエリン。 「邸・・・?」 「ヴァーレの外であればお前も気兼ねしないだろうとの皇女様のご配慮です」 「あの、おっしゃっている意味がわかりません」 アグネスがエリンに近づいて小声で言う。 「神帝様の愛妾として不自由なく暮らせるのですよ」 「あ、あたしは、そんなこと望んでいません! それにシグル様だって、そんなことお考えになってはいない・・・」 「口を慎みなさい! 神帝様ですよ」 はっとするエリン。 神帝様・・・ 森の木漏れ日の中、初めてシグル様を見た時のことを思い出す。b0ed4e98-8089-484e-8b10-fcf21173232c ほんとうに、もう雲の上の神様と同じなんだ そんなお方と地べたにいるあたしが一緒になんかなれっこない 「あたしは、ここで働くことにしたんです 院長先生もそうしていいと言ってくれてます、だから・・・」 アグネスにすがるように頭を下げる。 「お願いします、アグネスさん 皇女様にお断りしてください お願いします!」 表情を変えず厳しい目でエリンをじっと見るアグネス。 「これ以上お前が逆らえば、皇女様のお怒りはこの救護院にも向きかねませんよ」 「そんな・・・!」 「ご命令に従うしかないないのよ、エリン」 心配して様子を伺いに来た院長が、うなだれているエリンを見てアグネスに遠慮がちに尋ねる。 「あの、この子が何か失礼なことでも?」 アグネスが「いいえ、そのようなことではありませんよ」と丁寧な口調で応える。 「エリンはとても良くやってくれています 皇女様にも大変可愛いがられていて、休暇が明けたらすぐにヴァーレに戻って欲しいとの仰せなのです」 「こ、皇女様が? なんと光栄な・・・ エリン、ありがたく仰せの通りになさい」 「院長先生?! でも、あたしはここで子どもたちの世話を」 「ここのことは気にしなくてもいいのよ あなたの将来のためには、ヴァーレでお勤めさせていただくほうが」 院長の言葉に当惑するエリン。 「で、でも、あたしは・・」 何か言おうとするエリンをアグネスが遮る。 「後日、迎えの者をよこしますので わかりましたね? エリン」 院長が「良かったわね」とエリンの肩に優しく手を置く。 何も言えずに茫然となるエリン。 神殿0207c3dc-2c22-4a7f-8675-f8f03cd5c59f 高い塀と鉄の門扉。 中の建物は一切見えず、外界と完全に遮断されているかのよう。 神殿内 神帝の間。 寝台で眠っているシグル。 「神帝」と声が聞こえる。 神帝・・・? 僕はまだ神帝じゃない・・・・ 僕は・・・・・ 「神帝」 もう一度、今度ははっきりと声が聞こえる。 シグルが目を開ける。 夢を見ていた。 ヴァーレの森を歩いていた。 1e37275d-5372-4b08-8a5a-8f3f35879e0c あてどなく、どこへ行くでも何をするでもなく ただ歩き続けていた・・・・ 「神帝」 その声のほうを見る。 神帝の礼装束と帝冠を手にした二人の神徒が寝台の前に立っている。 「神帝、ご帰還のお時間です お仕度を」 「・・・わかった」 シグルがゆっくりと起き上がる。 十二日間の祈祷と、即入礼の儀式は終わったのだ。 でもまだ夢の中にいるような気がするシグル。 神殿・外。 迎えの守衛隊が待機している。 鉄の門扉がわずかに開き、純白の礼装に帝冠をつけたシグルが出て来る。 守衛隊兵たちが一斉に、左手を胸に当てる。 神帝に対してのみ行う敬礼だ。 ヒューイが前に出て、シグルにその敬礼をする。 「お迎えに上がりました 神帝」 五頭の白馬が引く銀色に輝く輿に乗るシグル。 神帝の紋章旗を掲げた守衛兵の騎馬隊に先導されて、新たな神帝の帰還行列がヴァーレへと向かう。 交易市場 裏通り。 どこかの地下の一室でダグとアレンがヒソヒソと話し込んでいる。 「たった二人の査察隊だった?」 聞き返したダグにアレンがうなずく。 「あの日は密売人がうようよいたのに、検挙は一件もなし」 「ただの偵察か だが査察隊がそういう動きをするのは珍しいな」 「店先でオーガが足止めされたのはヒヤっとしましたけどね」 「ヘタに目をつけられていないだろうな オーガは大尉がヴァーレに入った後の唯一の連絡網だ 使えない状況になるのはマズい」 「うまく切り抜けていたから大丈夫だとは思いますが」 たしかに、オーガはうまくかわせる術を持っている。 だが、うまくかわし過ぎて反って目を留められてはいないだろうか。 「査察隊の指揮官は神族会議長だったな」 「ええ、年に何度かは査察に同行して来ています 一度近くで見ましたが、やたらと品のいい容貌でしたよ ただ目つきは鋭かったですね 神族の査察隊長なんて、肩書だけかと思ってましたけど」 04273fca-ef1e-4883-b817-85c762aafe37 「バルグ卿・・・ 今回の婚姻政策に積極的だったと聞いているが 次に何をしようとしているのか・・・」 ヴァーレ 南館 バルグの執務室。 査察隊員が「先日の報告書です」とバルグに書類を渡す。 パラパラと報告書をめくって目を通すバルグ。 「目ぼしそうなのはいたか」 「ナーダの海産物を扱っている行商の個人業者くらいでしょうか ただ身元を洗い出すには時間はかかるかと」   報告書の一箇所にバルグが目を留める。 「森番見習い?」 「ああ、そいつは亡くなった親が交易市場で馬具店をやっていたとかで」 「交易市場の出身なのか」 「早馬ができるらしくて、交易市場には使いでよく出入りしているようです」 バルグが「ふむ」と目を細める。 「こいつを詳しく調べろ」 「しかし、ヴァーレの使用人ですよ? 探していた人材はナーダとセリジアの情報通では?」 「調べろと言っている」 「は、はい」 事務官がバルグを呼びに来る。 「議長 そろそろお出迎えのお時間です」 「ああ 今行く」 即位礼を終えた新たな神帝が、神殿からヴァーレに戻って来る御帰還は、先帝の即位以来三十年ぶりのことだ。 神族は皆中央門で出迎える慣わしになっている。 今回はバルグがヴァーレの職員と使用人にも見学する許可を与えた。 内務卿はぶつくさ言っていたが。 「屋上からの拝見をお許し下さってありがとうございます 貴重な場に立ち会えて、職員一同大変楽しみにしています」 「使用人たちは?」 「中央門の柵の外に皆もう集まっていますよ」 「けっこう だがくれぐれも静かに頼む 神帝帰還の出迎えを儀式の一つと考えている神族もいるからな」 「はい 事前に厳重注意を申し渡しています」 鏡の前で身づくろいを確認するバルグ。 「では、百七代目の神帝をお出迎えするか」 ヴァーレ 森 遊歩道。 雑草の草むしりをしているオーガのところにニキがやって来る。 「親父が今日はもういいから神帝様のご帰還を見に行っていいって 早く行こうぜ」 「俺はいい」 「見なくていいのか?」 「お姿はいつも見てたじゃないか」 ご帰還を見たところで、見物の女子がキャアキャア騒いでました、って それくらいしか中尉に報告することないだろうし、と思う。 でも、見に行きたくない本当の理由はそれじゃないと自分でもわかっている。 俺は、シグル様のエリンに対する仕打ちが許せない だけど、相手は神帝様だ 怒ったところでどうにもならない なにもできない 神帝となったシグルの眩しい姿を見たら、自分の無力さを思い知らされる。 だから、見たくない。 「ほら、早く行けよ 作業終わったら見回りもしとくからさ」 「本とか? ありがとよ じゃな」 嬉しそうに走って行くニキ。 誰もいない森の中。 黙々と草むしりを続けるオーガ。 神都 ヴァーレへと続く大通り。 新たな神帝の帰還行列を見ようと集まった市民が沿道に溢れかえっている。 その人波の中にエリンがいる。 先導の騎馬隊がやって来る。 沿道の市民が歓声を上げる。 神帝の輿に一段と歓声が大きくなる。 中には涙ながらに手を合わせる者もいる。 輝く輿の上でうつむいているシグルの横顔。 人波の隙間からエリンにも一瞬だけ見えた。 93acc82c-53f4-4917-995b-e230a1672f31 「さようなら シグル様・・・・」 人混みをかき分けてその場を離れて行く。 ヴァーレ 森 湖。 草むしりを終えたオーガが鼻歌を歌いながら、のんびりと見回りをしている。 湖面に誰も乗っていない小舟が浮かんでいる。 04be16f8-2c7c-454d-8560-8ad1ecd037bc 「なんで舟が? 流されたのか ・・・ったく、マジかよ! 泳いで行って戻せってか」 春になったとはいえ、湖の水はまだ凍えるように冷たい。 とりあえず桟橋へ行くオーガ。 湖面に他にも何かが浮かんでいるのが見える。 目を凝らす。 「・・・?!」 何が浮かんでいるのか気づいたと同時に、上着を脱ぎ捨て湖に飛び込む。 ヴァーレ 中央門 勢揃いした神族たち。 列の中央にはバルグとヴェルマイヤ。 「おや、皇女 いらしたのですか」 「当然でしょう 私は姉よ、神帝の」 柵超しに中央門のほうを見ている使用人たち。 「ちょっと、見えないわよ 前の人はしゃがんでよ」 「しーっ 静かにしろって言われただろ」 「あっ 来た来た!」 第二中央門を通って、行列が正面の南館前に到着する。 輿を降りるシグルに深々とお辞儀をする神族一同。 「あーっ 神帝様が見えない~」 「静かにしろってば」 どこからか叫ぶ声「誰か!」 「だから静かにしろって」 叫ぶ声が大きくなる。 「誰か! 助けてくれ!」 ずぶ濡れのオーガがぐったりとしたエリンを抱えて歩いて来る。 「医療室の人はいませんか! 誰か・・・」 使用人たちから悲鳴が上がる。 柵の向こうの騒ぎに、ヒューイが素早く守衛兵たちに指令を出す。 「神帝をお守りして南館の中へ! 急げ!」 守衛隊兵たちがシグルを囲んで南館へと連れて行く。 「バルグ卿! 神族の皆さまを中へ!」 バルグが神族たちを南館の中へと急がせる。 ヒューイと数人の兵が剣を手に騒ぎのするほうへと駆けて行く。 屋上の見物人たちも何事かと騒然となる。 厳かだった空気は一変して喧噪と化す。
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