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「今度からは素直に合コンって言えよ」  個室の座敷に案内された千春と仙太郎は、待機していた下前に溜息まじりに言った。  長テーブルの両端にはずらりと座布団が敷かれ、結構な人数の『飲み会』らしい。 「いいや、これはあくまで飲み会だ。看護学生との親睦を兼ねたな」  しれっと言う下前を一瞥した仙太郎が、女子と交流したいのはあいつだよなと、千春の耳元に囁いてきた。 「じゃ、そう言うことで。俺はホスト役で忙しいからな、お前らも楽しめよ」  颯爽とした敬礼を見せると、下前はやって来た参加者を、嬉々して出迎えに行った。  参加者の女性陣が、どこの場所に座ろうかと立ち竦んでいると、すかさず下前が案内している。千春と仙太郎は、下前のやに下がった顔を横目に、一番奥の席に腰を据えた。 「ま、会費分、飲んで食って楽しむか」  仙太郎がメニューを手にしながら、片目を瞬かせた。 「そうだな、外食久しぶりだし」  横からメニューを覗き込み、飲み物を選んでいると、下前が一人の女性を連れてやって来た。 「お前ら、男同士で並んでるんじゃない。ほら、彼女に座ってもらえ」  看護師の制服が似合いそうな清楚系美人が、千春と仙太郎に微笑みかけている。その横から、席を開けろと、下前に視線で言われ、仙太郎が座布団ごと真横へとスライドした。  交流会という名の合コンが下前の乾杯音頭で始まると、個室は一気に盛り上りを見せた。  乾杯のビールを口にした時、襖が開くのが目の端に映り、千春が何気なく目を向けると、一人の男性が、遅れてすまないと言いながら空いていた席に腰掛けている。  見たことのない人だなぁと思い、それもそうかと思った。今夜のメンバーは学部がバラバラで、知らない顔がいても不思議ではない。  仙太郎と女性が話しこむ姿越しに、部屋を眺めていると、遅れてやって来た男性と目が合った。にっこりと自然な笑みを向けられ、千春もつられて微笑んだ。テーブルの端と端から送り合う視線だけの挨拶に、続きの表情に困ると、千春は思わず下を向いてしまった。  数秒後、そっと顔を上げると、彼は隣の人ともう楽しそうに笑っている。  遠目でも分かる、キリッと明瞭な一重瞼。  額にはらりと落ちた前髪は、絹糸のように揺れている。彼の輪郭だけが金の絵の具で縁取られているかのように、美しく輝いて見えた。  仙太郎に飲み過ぎるなよと言われ、その言葉で我に返ると、分かってると慌てて返事をした。僅かな時間、彼に心が奪われていたのを隠すように。  宴は佳境に入り、酩酊する者、介抱するものと自然に役割が分かれていく。そんな中でも、今夜の趣旨を全うすべく、互いの連絡先を交換する姿もちらほら見えた。  二杯のビールだけで酔いが回った千春は、火照った顔をおしぼりで冷やそうと手に取ってみたものの、水分はなくただのタオルと化してしまっていた。 「仙太郎、新しいおしぼり貰ってくる」  声をかけて部屋を出ると、週末ということもあって、スタッフはみんな忙しそうだ。  顔でも洗うか……。  トイレに行き、手洗い場で熱を剥がすよう水を顔にかけていると、背中に人の気配を感じ、濡れた顔のまま千春が振り返った。  そこには、遅れて来た一重瞼のイケメンが立っていて、「拭くものあるの」と千春にタオルを差し出してくれている。 「だ、大丈夫です、あります」  ポケットから出したハンカチを見せながら、ありがとうございますと、付け加えた。 「平気?」  質問の意味をすぐ理解出来ず、返す言葉を戸惑っていると、「顔、真っ赤だな」とまた微笑まれた。  親しみを感じる漆黒の瞳で見つめられると、千春はどう返していいか分からず、彼の眼差しから逃げるように、瞳を右往左往させてしまった。 「やっぱ、酔ってるんじゃない?」  炭酸の蓋を耳元で開けられたように、ビクッと体を反応させると、「よ、酔ってないです」と慌てて反論した。  男性は、ふーんと言いながら、千春の横を通り過ぎると、着ているシャツの袖口を水で濡らし、ゴシゴシと布同士を擦り合わせている。水色のシャツの袖口だけ色が濃く変わり、水分を含んで重そうだ。 「あ、あの……それどうしたんですか」  流水の下で揉み洗いする姿に尋ねると、男性が袖口部分を向け、参ったよと苦笑した。 「醤油が付いたんだ。これ気に入ってたのにさ」  男性は憂鬱そうにまた布を擦り、懸命にシミを撃退しようとしている。  秀でた横顔にまた見入ってしまった千春は、思い出したように、あ、と言い、 「俺、染み抜きシート持ってるんです。取ってくるのでちょっと待っててください」  男性の返事も聞かず、俊敏に踵を返すと、千春はトイレから出て座敷に戻った。  席に戻るとかばんの中に手を突っ込み、目当てのものを掴むと、仙太郎に声をかけられたのにも気付かず、再びトイレへと直行する。 「お、お待たせしましたっ」  声を掛けたと同時にドアを開けると、男性が「おー」と短い返事をし、濡れた箇所をタオルで拭っていた。 「これ、使って下さいっ。付いたばかりのシミだったら結構落ちるんです」  男性の前にシートを差し出した千春は、ポカンとしている顔に、「あ、おせっかいでしたよね」と、手を引っ込めようとした。けれど去って行こうとする手首を引き止められ、指先からシートをスッと抜き取られる。 「貰っとく、助かるよ」  男性は袋を開封すると、シートをシミの付いた箇所にリズミカルにあてている。千春は勧めたものの効果が発揮できるのか気になり、席に戻らず男性の仕草をジッと見守った。 「おおっ! 薄くなってきた。すげぇ」  テンションの上がった男性の言葉に胸を撫で下ろし、「よかった」と、肩で息を吐いた。 「けど、こんなのよく持ってたな」  シミが消えたことに感動した男性が、秀麗な笑顔で、ありがとなと言ってくれる。  光に包まれたような笑顔が眩しく、千春はトイレの床へ視線を落とし、その光を遮った。 「お、俺、そそっかしいからいつも持ち歩いてるんです。前に白いシャツにカレーうどんのシミつけちゃって凄く困ったから」 「あー、カレーうどんな。俺もやった。あと、ミートソースな」 「そうそう、それも経験済みです。その時はコンビニに走って買いましたよ」  分かるわぁ、と男性が共感してくれる砕けた口調に、千春は眩しさを忘れて答えていた。 「俺は上条(かみじょう)惠護(けいご)。工学部建築学科の三年。君は?」 「俺は……鵜木千春って言います。二年生、文学部、文化史学科です」  よろしくお願いしますと、頭を下げた千春は、差し出されていた惠護の手に気付くのが遅れ、細くてしなやかな手を慌てて握り返した。その時、ドアが勢いよく開くと、男性が入って来るなり、ここにいたのかと賑やかしのように叫んできた。 「惠護がいないって、女子達が心配してるぞ。一応、俺が長ーい便所だろって言っておいたけどな」  友人らしい男性がニヤついて言った言葉に、長いは余計だと惠護が言い返しつつ、千春に向かって片目を瞬かせてきた。  目の前を通り過ぎながら、惠護の手がふわりと頭上に舞い降り、そのまま髪をクシャリとされた瞬間、覚えのある香りが漂った。  この匂い——。  振り返ると、もうそこに惠護の姿はなく、鼻腔をくすぐった匂いもたち消えてしまった。  忘れたくても忘れられない香りに心臓がトクンと疼き、過去の出来事が千春の体中を駆け巡る。  海馬に収まらず、心で住み続ける記憶が再燃し、全神経が意思を持って騒ついた。  これまでもいろんな場所で鼻を掠めた香り。その度に振り返り、辺りを見渡し、面影を探して、姿がないことに落胆した。  馬鹿だなと自省しながらも、今だ心に居座る感情に寄り添いたくなって情けなくなる。  ぽっかりと空いた穴は何年経っても塞がらず、ヒューヒューと冷たい風が吹き抜け、心を冷やし続けている。失った温もりは二度と戻らないと知りながらも、些細な香りにさえ浅ましく縋ろうとする自分に泣きたくなった。
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