最終章

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最終章

「狭いけど二部屋あるから、こっちの部屋をちはが使ってくれ。家にあるものは何でも勝手に使って構わないから」  千春が予定通り退院し、病院から直接二人で惠護のアパートに帰って来た。  帰り道、惠護は敢えて普通を装い、テレビのお笑い芸人の話や、最近気に入っている定食屋の話をして会話を紡ごうとしていた。けれど千春の反応は鈍く、家に到着した今もずっと無言のままだった。  不安で仕方ないのが千春からひしひしと伝わってくる。自分だって記憶がなくなれば、気が触れてもおかしくない。千春のように黙ったままでなんていられず、きっと焦ったり苛立ったりしていたと思う。  惠護と言う人間が、千春を愛している恋人だと言っても、見知らぬ人間にそんなこと言われたら誰だって混乱するし、不審にもおもうだろう。だから惠護は苦渋の決断で、自分との関係は仲の良かった友人だと伝えた。  ようやく成就できたこの想いも、また『記憶』に阻まれてしまった……。  ちょっと休みます、そう、色のない顔で言われ、惠護は更に打ちのめされてしまった。  千春のために何もできない自分が悔しい。千春の記憶に欠片も残っていないことが悲しい。でもそれは自分の我儘な欲求でしかない。  惠護の中で一守も、秋衛も、葵留も嘆いているのが分かる。体を託してくれたコマもどこかで、惠護の不甲斐なさを責めているかも知れない。 「どうすればいいんだ……」  ラポールの珈琲でも飲めば何か思い出すかと、用意していた豆を挽いて千春の部屋に向かった。  ドアをノックしようとて、惠護はその手を止めた。部屋の中から泣き声が聞こえてきたからだ。  声を押し殺し、苦しそうに泣く千春が容易に想像でき、惠護の胸に杭が深々と貫かれてしまった。  一守の死後、清はずっと悲しみ、怯え、苦しみ続けていた。拠り所だった一守を失い、清は泣き暮らし、体は日に日に痩せていった。  そんな清をずっと一守は見ていた。見つめるだけで何もできなかった。  次第に清は衰弱し、数年後に畑仕事中に死んでしまった。  奇しくも、一守が死んだ同じ場所で。  清の死後、一守は旅立った魂を探し続けた。けれど見つけることは出来ず、一守自身も流転に身を委ねるしかなかった。  葵留の死後は、千春の両親を辿ってようやく清の存在を突き止めることができた。  そして奇跡のようなコマとの出会い……。  コマに体まで差し出してもらい、助けられ、再び清に触れることが出来た。なのに、この仕打ちは、まだ呪いが続いているのだろうか。  俺は何も学んでない。前世と同じだ……。  惠護は首を左右にブンっと振り、明るい声を意識してドアをノックした。 「ちは、珈琲煎れたんだ。飲まないか」  声をかけて数秒待つと、ドアは開かれ、泣き腫らした目の千春が出てきた。  惠護は気付かないふりで、「飯の前に先に風呂入れよ」と言い、マグカップを渡した。  千春が料理を振る舞ってくれるお礼に、お揃いで用意したカップ。それを見て何か思い出して欲しいと淡い期待をしたが、落胆しただけに終わった。  千春が惠護の家に来て三日、十日、そしてもうすぐ二週間が経とうとした頃、沈んだ表情しか浮かべなかった千春も、一緒にお笑いの番組を観れば笑うようにはなった。  千春の両親も心配して訪ねて来たが、惠護は、自分と一緒にいた日常を過ごせば思い出すかも知れませんと力強く言い、両親は頭を深々と下げて惠護に任せてくれた。 「ちは、今日は朝メシ、外で食わないか」  寒い真冬の朝、部屋からパジャマ姿で出てきた千春に、歯ブラシを咥えたまま惠護が言った。 「外で……」  まだ眠そうな顔に、寝癖のついた髪。何もかもが愛おしい。千春のためなら何でもしてやりたい。記憶を取り戻せるなら、どんな労力も惜しまない。 「そう。前に——いや、記憶がなくなる前だけどさ、ちはが言ってたんだ。千春が住んでたアパートの近くに焼きたてのパンを店内で食べれる店が出来たって。そこに行ってみないか」 「俺の……住んでいた」 「そうそう。ちはの部屋の前には小さな川があって、その土手には桜の木が何本も連なってるんだ。春になれば、千春お手製の弁当持って花見しようって言ってたんだよ」 「川……桜……」  記憶を手繰り寄せようと、眉間にしわが生まれた。そんな顔もたまらなく可愛い。でも、今は愛でている場合じゃない。少しでも記憶が戻るよう、何かきっかけを作る。それが今の自分に出来ることだ。 「まだ冬だから花見は無理だけど、パン屋に行ってから帰りに川沿いを散歩しよう。あ、行きたくないならいいんだ、ちはの作る朝メシも最高だから」  不思議なもので、料理をすることは体で記憶しているのか、以前と同じように手際よく、そして味付けも変わらず千春の料理は美味い。同居して初めて口にした時、惠護はこっそり涙を流してしまった。 「行く……行ってみたい」  丸い眸を輝かせ、返事をくれた。その言葉には、微かな期待が込められてるように思える。 「あったかい格好してきたか。そのコートの下は何枚着てる? ほら、ちゃんとマフラー巻いて。風邪でもひいたらどうす——って、ちは。何で笑ってるんだ」 「だって、惠護さん過保護なんだもん。お母さんみたい」  くすくす笑う千春を見つめ、「お母さんって、せめてお兄さんって言えよ」と、笑って返した。そう言えば、葵留だったとき、同じセリフをちはに言った気がする。  前世の記憶は、良いも悪いも様々な形で二人の中に芽吹いている。惠護はそんな風に思えてならなかった。  目的の場所まで電車で向かった。少し遅めの時間に到着したのが幸いし、食事を終えて帰って行く客が殆どですぐ席に案内された。 「よかったな、待たずに座れて」  惠護の言葉に大きく頷き、千春が嬉しそうにメニューを見ている。そんなささやかなことでも心から嬉しかった。ただ、千春の中では、まだ惠護は『他人』のままだ。  千春が入院中、二人の関係を説明する時、恋人と言いたい気持ちをグッと堪え、親友だと説明した時の自分の声は、切な過ぎて震えていたと思う。  焼きたてのクロワッサンに感動し、満腹になった後、千春のアパートに到着した。 「ほら、あそこ。あの角部屋がちはの部屋だ。お袋さんが、たまに掃除に来てるって」  惠護が指さすベランダを、千春の視線が辿っている。横目で反応を確かめると、眉ひとつ動いてない。  やっぱり無理だった……。でも、焦ることはない。そう自分に言い聞かせ、惠護は土手を歩いて橋まで行こうと提案した。  肩を並べて歩くと、つい、手を繋ぎたくなる。記憶を失くす前は、恥ずかしそうに、でもちゃんと千春は応じてくれた。 「まだ、一月だもんな。芽は出てないかー」  手持ち無沙汰の手を自分の頭の後ろで組み、しなやかに伸びる桜の枝を見上げて惠護は呟いた。  上ばかり見ていたせいで足元のダンボールに気付かず、足をその上に乗せた途端、惠護の体はひっくり返り、朝露に濡れた雑草の上を滑り台を滑るよう土手を下って行った。 「うわぁぁぁ!」  その様子を俊敏に反応した千春が、咄嗟に惠護の腕を掴み、でも間に合わず、二人は絡まり合って、一緒に転げ落ちてしまった。 「痛ってー、何だよもう。このダンボールめ。ちは、ごめん巻き込んだ。お前怪我とかしてないか。平気か、頭とか打ってないか」  自分を助けようと一緒に落ちた千春の体を心配し、惠護はペタペタと千春の体を確かめるよう触れた。すると—— 「ブッ! アッハッハ。かずちゃんの顔、泥だらけで真っ黒だ」  かず……ちゃ……ん。いま……千春は俺のことをなんて……呼んだ……?  ころころと笑う、目の前にいるのは誰……だ、千春……いや、もしかしたら…… 「ち——いや、せ、せい、清。お前……俺のこと——」  千春の両肩を掴み、惠護は目尻が裂けるほど目を見張って千春を凝視した。 「ど、どうしたんですか惠護さん。あーほら、もう、顔が泥だらけだ。拭かないと」  くすくす笑いながら、千春がカバンからタオルを出している。  一瞬、聞こえた呼び名は空耳だったのだろうか。いや、確かに千春は言った、『かずちゃん』と。  記憶が蘇ったのかと喜んだのも束の間、『千春』はタオルで惠護の顔を黙々と拭いている。  その様子は、さっき一緒に朝食を食べた千春のままだった……。 「あの……もしかしてどこか怪我したんですか。それなら早く家に——」  千春の言葉を遮り、惠護は目の前の体を抱き締めた。  一守として、秋衛として。葵留と、惠護、全ての想いを詰め込んで強く抱き締めた。 「けい……ごさん。どうしたんですか」 「何でもない……何でもないよ、ちょっとだけ、抱き締めさせて」  清と……千春とまた巡り合い、再び心を結ぶことができた。今は記憶がなくても、お互いが生きて側にいる。肌に触れることができる。  戸惑いも笑顔も一つ一つ重ねて二人で過ごせば、もう他には何もいらない。そう思っていれば、悲しむことなどない。  千春を好きな気持ち、それは前世も今も、そしてこの先の未来も変わることはないのだから。  今は見知らぬ人でも、きっとまた二人は同じ想いを重ねて生きていける。  天からの贈り物のような君と、また新しく恋をすることができる。 「好き」の気持ちは、この先幾重にも重なっていくのだから。                                 了 
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