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「かずちゃーん、もうこれ食べていい」  柿を手にした清が、屋根の修理をする一守に向かって下から叫んでいる。 「あー、それ、中田さん家の柿だろ。ダメだぞ食っちゃ。それは渋柿と言って干してからじゃないと食えない。そのままだと渋くて食えたもんじゃ——」 「うわぁー。苦いっ! 苦いよ、かずちゃん。これ、まだ熟れてない」  下から悲鳴に似た声が聞こえ、慌てて屋根から下を覗くと、柿を口にした清が悶絶している。 「お前なぁ、だから食うなって言ったろ」  呆れながら梯子を降り、一守が「水いるか?」と清に声をかけた。ぺっぺっと舌を突き出し、清が苦味を追い出しながら首を横に振って強がりを見せている。 「へ、平気。でも、キレイな橙色してたから甘いんだと思ったんだよー」  まだ痺れているのか指で舌を擦った後、手の甲で唇全体をゴシゴシと拭っている。 「おばちゃん持ってきてくれた時言ってただろ? 軒下に吊るしなさいって」 「軒下?」  言葉の意味が分からず、まだ舌を弄りながら清が小鳥のように首を傾げている。  天瑠神社で清を見つけてから、六年の月日が経っても、清の可愛さは健在だった。  弄りすぎて赤くなった唇でさえも、ぽってりして可愛さを強調しているように見える。  一守は十八歳になり、身長もいつの間にか父親を追い越していた。畑仕事や近所の牛舎の掃除をこなすうち、しなやかな筋肉が身を纏う逞しい男に成長していた。  清の方も幾分か大きくなったが、背丈は一守の顎程までしかなく、愛らしい顔が際立ち女の子と間違えられることは珍しくない。  陶器のような滑らかな肌に、神社の湖と同じように澄んだ青い瞳。  焦茶だった髪は灰色がさす亜麻色に変化し、クルッと丸まった毛先が、額に遠慮がちな影を作ると、稀代な美少年を作り上げていた。  周りの大人達は混血孤児と決めつけ、親も探してないだろうと囁いていたが、父親は警察に届けは出し、子供を探してる親がいないかをたまに確認しているようだった。だが、時が経過しても清の家族らしい人間が探しに来ることはなく、警察も役場の人間も遠回しに父に押し付ける素振りを見せている。  年齢も不明だったため、今は概ね十五歳とし、誕生日も清を見つけた日に決めた。  一守の父親は漆塗りの職人だったが、贅沢品に繋がる仕事は少なく、もっぱら仏壇、位牌などの塗りの仕事ばかりで、相変わらず生活は楽じゃなかった。家族が一人増えたことで、ひもじい思いをすることもあるけれど、一守はそれ以上に清の存在が嬉しかった。  自分が腹を空かしても、清にはたっぷり食べさせた。父親も清に優しく接し、我が子のように可愛がってくれる。  血の繋がりはなくても惜しみない愛情を注がれた清はよく笑い、言葉もつっかえずに言えるまでになった。清が幸せそうにしていることが、一守の生きる糧となっていた。  時々、聞き慣れない言葉が分からず首を傾げる。その仕草がなんとも言えない愛くるしさで、一守は成長してもなお、清を甘やかしてしまうのだ。  皮を剥き熱湯で殺菌した渋柿を紐で縛りながら、ここが軒下な、と一守が柿をぶら下げながら縁側に座る清に説明した。  青くて丸い目が一守と柿を交互に見上げながら、「早く食べたいな、いつ食べられるの、明日?」など、無邪気な質問をしてくる。  可愛い……。本当に、清は可愛い。目に入れても痛くないと、孫を可愛がる近所の老人の気持ちが今なら理解できる。  吊るされた柿を嬉しそうに突く清を見ながら、一守はしみじみとそんなことを思った。  清を学校へ行かせることは金銭的に難しく、一守が清に勉強を教えていた。その成果もあって、そろばんも使えるようになり、裁縫などは指導する一守よりも器用にこなした。  漆塗りの手伝いも、一守より素質あると、父親はいつも清を褒めていた。  家族三人仲睦まじく日々を送っていたある日、仕上げた位牌を配達に行った父親が、戻って来るなり興奮気味で一守を居間に呼んだ。 「父ちゃん。そんなに慌ててどうした」  夕食の支度を中断し、ちゃぶ台につくと、トコトコと清も後をついて一守の隣にちょこんと座った。 「天瑠神社の宮司さんが亡くなったんだ」 「えっ! 死んだ? 入院して少し良くなってたんじゃなかったのかっ」  水仕事をしていた手が、膝の上でこぶしに変わった。心配げな顔の清が手を重ねてくると、一守は手を返して華奢なその手を握り締めた。 「さっき配達先で聞いたばっかりだ。夕べ発作起こしてあっという間だったらしい」  畳の上にペタンと臀部を落とし、一守は愕然と肩を落とした。ちゃぶ台の上に雫がポタポタと落ち、勝手に体が震え出す。 「お……れ、宮司さんに本当によくしてもらった。疎開してこの村にきた時も、ろくに食べるもんない俺達に、メシ作ってくれて……。自分だって楽な暮らしじゃないのに」 「そうだったな。この村で俺達親子が生きて来れたのは宮司さんのおかげだ。家も見つけてくれたし、仕事もしやすくさせて貰った。この恩は一生忘れないな」 「うん……。でも恩返しも出来ないままなんて、俺、悔しいよ」 「かずちゃん、神社のおじさん死んじゃったの……?」  青い双眸が滲み、今にも泣きそうな清が一守の手を揺さぶってくる。 「……ああ。もう天国に行っちゃったんだ。清も好きだったろ? 宮司さん」 「うん。俺、いっぱい芋もらった。神社に行ったら、おじさんニコニコして、いつも俺の頭を撫でてくれたんだ」 「そうだったな、清は神様の子どもって宮司さん言ってたもんな。神社の湖にいたのは、神様がうっかりお前を地上に落っことしちゃったんだって」 「もう、神社に行ってもおじさんいないの……? 神社、どうなるの? ボロボロになって壊れちゃう?」  一度でも瞬きをすれば、瞳から涙が溢れてしまいそうな清を見て、一守は自分の目をこぶしで拭い去ると、小さな肩をそっと抱き寄せた。 「いないけど、宮司さんは空から俺達を見守ってくれてる。だから寂しくなんかないぞ」  自分の額を清の丸いおでこに当てると、一守はわざとグリグリと擦り付けた。 「痛い……かずちゃん」 「じゃあもう泣くな。お前が泣いてると宮司さんが心配するぞ」 「かずちゃんも泣いてた、おじさん心配する」 「俺は——泣いてない。さっきのは汗だ、汗」 「汗? かずちゃん暑いの?」  惚けた返しをする清に堪えきれず、父親が大声で笑った。つられて一守も笑い、状況をよく分かってない清も一緒になって笑った。  三人分の笑い声は、火にかけたヤカンの蒸気と一緒に窓の隙間から外へと流れていく。  故人との思い出を馳せながら、一守は台所へ戻ろうとしたが、父親の、そうそう、と言う言葉が聞こえ、ヤカンを火から下ろして振り返った。 「宮司さんには子どもがいないだろ? 奥さんも先に他界してるし。だから新しい宮司さんが他所から来るらしいぞ」 「よそから? そりゃよかった。これで神社も安泰だな」 「そうだな。新しい宮司さんは神社の、本庁? とかって場所から派遣されるんだと」 「へえ、神社も会社みたいだ」  一守と父親が会話する間、清が茶碗を並べながらまだ悲しげな顔をしている。それに気付いた一守が、短く切り揃えた亜麻色の髪を撫でた。 「清、新しい宮司さんが来るんだってさ。天瑠神社は大丈夫だよ」 「ボロボロにならない?」 「ならない、ならない。新しい宮司さんがちゃんと守ってくれる、お前の大切な場所だもんな」 「俺、掃除しに行く! 新しいおじさんのお手伝いする」 「そうだな、俺も一緒に行くよ。学校や手伝いのない日には一緒に行こうな」  もう一度清の髪を撫でながら一守が言うと、悲しみに染まった空気を払うよう、父親が手叩(てばた)きをした。 「さあ、くよくよするのはしまいだ。メシにしよう、父ちゃん腹減ったよ」  大袈裟なまでに父親が自身の腹部を手でさすると、清はまた笑った。花が満開に咲いたように、美しく、鮮やかに。
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