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 前宮司の神葬祭が無事に執り行われた。  仕切ってくれたのは新しく天瑠神社の宮司になった、杢代(もくだい)という名の男だった。  三十代後半には見えない若々しさに、装束を着るために生まれたような秀麗さは、手伝いに来ていた娘達の心を一瞬で掴んでいた。 「宮司さん、ご苦労様でした。神社のすぐ麓に家を構えてます、雪藤と申します。こっちは息子の一守と清です。これからよろしくお願いします」  普段着の白衣と紫の袴に着替えた杢代を見つけると、一守の父親は二人の息子を連れて挨拶をした。 「こちらこそ、まだ不慣れなものでご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします。あの、聞き覚え違いだったらすいません、雪藤さんは漆塗り職人さんでしょうか」 「はい。細々とやっております」 「やはりそうでしたか。実は引越しの際に烏帽子を傷めてしまいましてね、修繕をお願いできませんか」 「それはお困りでしょう。私でよろしければ、手直しさせて下さい」 「本当ですか、有難いです。では近々伺いますのでよろしくお願い致します」  大人二人が挨拶や仕事の話を終えるの待って、一守が清の手を引いて杢代に頭を下げた。 「宮司さん、一守と言います。こっちは弟の清。ほら、清もご挨拶して」  初めて見る大人に恥ずかしかったのか、清が体を半分一守の後ろに隠し、顔だけをひょこっと出している。そんな微笑ましい姿を見て、杢代がくすくすと笑った。 「これはこれは。逞しいお兄さんと可愛らしい弟さんで——おや。雪藤さん、弟君は混血ですか? もしや、奥さんは異国の方——」  一守の背後から出てこようとしない清に近付き、杢代が珍しいものでも見るように頭の先からつま先まで視線を往復させている。 「いえ、清は孤児だったんですよ」 「でも、清は俺の大事な弟ですっ。血は繋がってなくても俺らの家族です」  父の言葉に被せるよう言うと、一守が守るように清の肩をグッと引き寄せた。 「フフ、そうですね、あなた方を見れば仲の良い家族だと分かります。にしても、雪藤さんは奇特な方ですね、このご時世、家族を養うだけでも大変なのに」  宮司に褒められ、恐縮している父親の横で清は自分のことを言われていると思い、杢代をジッと見上げていた。 「ほら、清。宮司さんにご挨拶だ」  父親に促され、清が、「よろしく……お願いします。おじさん」と、七十代だった前宮司と同じように呼んだ。これには父親も一守も慌てて、清の口を手で覆った。 「おじさんかぁ、まだ私は三十代なんだけど。そっか、清君から見ればそうなのかぁ」  涼やかな顔が崩れ、豪快に笑い飛ばしてくれる杢代に、父親は申し訳ありませんと、ペコペコと頭を下げている。一守も清の耳元でこっそりと、「宮司さんだよ、ぐ・う・じ」と、何度も繰り返して伝え教えた。 「宮司さん、清は言葉をまだちゃんと覚えてなくて。きっと俺の教え方が悪いんです、だから清を叱らないで下さい」  勢いよく一守が頭を下げた。 「顔をあげてくれないか、一守君。大丈夫だよ、清君の呼び易い言い方で構わないんだ」  片目を瞬かせながら杢代が清を見下ろすと、柔らかな笑顔に安堵したのか、花が綻んだようなとびきりの笑顔を清が見せた。  深く、青い双眸をゆっくりと瞬かせると、ごめんなさいと、呟いたあと、小さな桜唇はキュッと硬く結ばれた。 「……いいんだよ。あ、そうだ。もしよかったら私が教えましょうか、言葉も勉強も」  少しの()のあと、杢代が自身のこぶしを掌底に打ち付け、申し出てくれた。 「本当ですか。よかったな、清。宮司さんがお前に勉強を教えてくださるって」  父親が手放しで喜ぶ横で、一守は複雑そうな表情を浮かべていた。  これまでの清の世界は一守と父、二人だけが全てで、他人が張り込む機会などなかった。  唯一、亡くなった宮司だけが清にとって家族以外の気心知れる存在で、一守もなにも気に病むことはなかった。けれど、物腰の柔らかい人柄の杢代にはなぜか警戒心が芽生えてしまう。不穏を感じた一守は、固唾を呑んで清の返事を待った。  自分のいない所で、自分以外の人間と清が過ごす……。二人っきりで……。  清を心配する気持ちと同時に、一守は経験したことのない胸騒ぎを自覚した。  清を他の人の側に置くのは嫌だ。清の面倒を見るのは自分だけがいい。無意識にそんなことを思ってしまい、自分自身でも驚いてしまった。 「いい。俺、かずちゃんに教えてもらうから」  杢代の申し出を迷わず断った清の声は、一守の心に一条の光を射し、身体をあからさまに弛緩させた。  清は自分を必要としている、他の誰もいらないんだ。  天瑠神社で初めて清を見つけた時、深くて青い瞳に吸い込まれそうになった。  言葉も名前も、どこから来たのかさえも分からない。頼りなげで可愛い小さな清。  庇護欲を掻き立てられる小さな命は、いつしか一守にとっての、揺るぎない存在意義になっていた。  自分が守ってやらなければと、根拠のない使命感が勝手に湧き上がる。今だって縋るように一守の手を掴んでくるのが嬉しい。  一守はその手をそっと手繰り寄せると、手のひらから伝わる温もりが、一守にこれまでと違う温度を伝えてくる。心臓が自我を持ったように逸り、離すまいと手に力がこもった。 「清、いいのか。せっかく宮司さんが言って下さったのに」  父親の言葉に、一守の手をギュッと握り返しながら清はコクンと、首を縦に振った。  小さな手が一守にこの上ない喜びを与えてくれる。ぶるりと心が震えるのを実感すると、共鳴したように下腹部から味わったことのない疼きが湧き上がった。 「はは、嫌われちゃったかな。でも清君、もっと色んなことを知りたくなったらいつでも私のところへおいで。東京から珍しい本や絵を描く道具を持ってきてるから」  杢代の言葉に反応を示さない清を、父親が困惑した顔で一瞥すると、さあ、もう失礼しようと、取り繕うように頭を下げ、三人は境内を後にした。  待ってるよ、と背中に降り注いでくる杢代の声を聞きながら。
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