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 今夜はメザシ、それとこの匂いは大根の煮物……。  居間に流れてくる匂いにくんくんと鼻を働かせ、清は大好物な料理を頭に浮かべた。  父親の畑で取れる野菜はどれも美味しい。  特に清は大根が大好きだった。トマトもきゅうりも体にいいから食べろと言われるが、臭いが苦手で、特にきゅうりは草っぽくて好きになれない。以前、裏山で撮った鈴虫のカゴに、一守がきゅうりを入れたのを見て、益々口にするのが苦手になってしまった。  ——だってそれ、虫のご飯なんでしょ。  そう言ったら一守は、鈴虫はコレが大好物なんだよと、ニコニコして言ってたっけ。  ちゃぶ台に並べられていく皿を覗くと、トマトやきゅうりの姿は見当たらない。  清は網の上に並べたメザシを菜箸でひっくり返す一守の背中を見つめながら、自分の中にあるごちゃ混ぜな感情と葛藤していた。  あの夜、別人のような一守が怖かった。  唇に触れていた感触の意味も分からない。  翌朝になっても彼を警戒する心は消えず、遠巻きで見た背中にも怯えた。  向けていた視線に気付かれ、振り返った顔はいつもの優しい一守だ。でも、心なしかその顔はどこか寂しそうに見える。けれど、清にはその理由が分からない。  話しかけようと一歩踏み出しても、あの夜の一守がよぎり、勝手に目がそっぽを向く。  いつもの楽しい食卓はどこかへ行ってしまい、静寂だけが続いて息が詰まりそうだった。  学校であったことを賑やかに話してくれる顔、清の話しに大口で笑う声。あの、逞しい腕にぶら下がって、思いっきり甘やかされていた。優しく髪を撫でても欲しいけど、そう思う反面、噛みついてくるような一守の顔が蘇ると、喉が声を閉じ込めるように貼り付く。  くっつきたい、でも怖い。清の中で、振り子のように二つの感情が揺れ続けていた。  料理が出来上がる頃、父親が帰宅し、気不味い二人だけの時間が掻き消えホッとした。  兄弟喧嘩が長引いていることに父親が気遣ったのか、奮発して町で団子を買ってきてくれた。一守が一瞬喜んだ顔を見せたが、「俺の分、清が食べていいよ」と言ったきり、宿題があるからと、部屋へ下がってしまった。  一守が出ていった襖を眺めていると、 「なんだ、あいつ腹でも壊してんのか。食いしんぼうのくせに。よし、清。一守の分もお前が食っちまえ、な」  寂しげな表情を察したのか、父親が団子を二人分皿に乗せてくれた。  甘いものは大好きだ。いつもなら飛び上がるほど喜ぶのに、今日はあんまり嬉しくない。  一守と一緒に食べたかった。ほっぺにあんこが付いたら、大きな手で拭って欲しい。  食器を洗いに台所へ行った父が鼻歌を歌ってる。ラジオでたまに流れてくる陽気な音楽だった。楽しげな音色でも、清の心は晴れないままで、ちっとも楽しくならない。  あの日以来ずっと、清は父親の部屋で眠っている。
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