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「雪藤さーん。お留守? 清君いるー」  中田家を仕切る勝気な女性の声が玄関から聞こえ、清は台所から慌てて駆けつけた。 「こんにちは、おばさん。まだ父ちゃん帰ってなくて」  割烹着に下駄履き姿のかっぷくのいい女性が、栗で山盛りになったカゴを手にして立っていた。 「じゃあ、コレ、お父ちゃん帰ってきたら焼いてもらいな」 「凄い! 栗だっ。俺、栗大好き。こんなにたくさん、ありがとうおばさん」 「弟がたくさん採れたからって持ってきてくれたんだ。栗ご飯にしても美味しいからね」  栗ご飯……食欲をそそられる響きに、清の腹はもう叫びそうになっている。 「俺、栗ご飯が一番好き。かずちゃん帰ってきたら——」  作ってもらう——と言いかけ、その言葉を飲み込んだ。別にそれくらい口にしたってどうってことないのに、清は変に意識してしまった。 「そうそう、かず君って言えばさ、最近お付き合いしてる人でも出来たのかねぇ」 「えっ? お付き……合い?」  言われた意味が分からず、首を傾げていると、やぇね、恋人のことだよと、手首の関節が壊れたのかと思うほど中田が手で空気を切って、弾き返すように笑った。 「かずちゃんが……、恋人——」 「そうよぉ、セーラー服の女の子と手を繋いでるの、この間見たんだよ。美男美女で凄く似合ってたよ」  娯楽の少ない小さな村での、女性陣の楽しみはもっぱら井戸端会議だった。特に中田のような中年女性は噂話が大好物で、暇を見つければ誰それがどうしたとか、何をしていたとか円陣を組んで話しに花を咲かしている。 「……俺、知らない……。かずちゃん、何も言わないし……」  首を左右に数回振りながら、かず君も年頃だもんねと言う、彼女の言葉を遠いところで聞いていた。その後もちゃんと会話が出来たかどうか分からない。清の頭の中では顔のない女の人が、一守の隣で寄り添っている姿を占めていたから。  心が彷徨っているままの清をよそに、会話に満足したのか、中田がじゃあ帰るわねと、割烹着を翻して玄関の引き戸が閉ざされた。  家の中は急に静まり返り、清が力なく佇んでいると、隙間風で引き戸がカタカタと震え、冷えてきた夕方の空気から守るよう清は自身の手で両肩を抱き締めた。  かずちゃんが、女の人と。手を……。  一守の大きな手のひらを思い浮かべ、ずっとその手に触れてないなと思った。  そう言えば、学校から帰って来る時間も最近は遅い。帰ってきても清との会話をそぞろに済ませ、すぐ台所へと行ってしまう。  書けるようになった字が増える度、逞しい腕が伸びて頭を撫でてくれた。その手が自分以外の、女の人の手を握っている。そんな想像をして、胸が苦しい程に締め付けられた。  台所で包丁を持つ手がかっこいい。その手で生み出される料理はどれも美味しくて、感想を言うと、ありがとなと笑ってくれる。  嵐の夜、風の音が怖くて眠れなくなると、背中を撫でて慰めてくれる温かな手。  一守の優しくて強い手は、いつだって清だけのものだった。これからもそれは変わらない。そう、これっぽっちも疑わずにいた。  なのに、今は一守の手は清の知らない女の人と繋がれている……。  あの夜以来、口にする言葉は挨拶くらいだった。でも、そうさせてしまったのは自分が原因だったのかと、じわじわ実感してくる。  無意識に三和土に足を下ろし、清は草履をひっかけて外に飛び出した。  考えても分からない。それに、一守の顔を見ると怖くて後退りするかもしれない。でも、他の人があの腕を、自分だけのものだった頼り甲斐のある腕に触れるのは嫌だ。  それだけは絶対に嫌だった。  家の前の小道は通りに出るまで、なだらかな下り坂になっている。  以前は一守が帰って来る時間になると、玄関の前で坂の下から姿が見えるのを待っていた。頭のてっぺんが見えると、清は待ちきれず迎えに走って、おかえりと言っていた。  もう何日も、一守を出迎えてない。  指の間に食い込んだ鼻緒が痛くても、清は坂道を一気に駆け下りた。素足に容赦なく秋風が吹きつけても、清の足は止まらなかった。  坂を降り切ると人影はなく、一守が帰ってくる気配はない。  清は学校までの道へ自然と足を向け、地面を踏み締めるように進んだ。  ざりざりと草履の裏が砂利に擦れる音が耳障りで、気持ちを焦らせてくる。  日はどんどん翳り、薄いシャツの隙間に潜ってくる空気が肌に突き刺さって寒い。  家から一キロほど歩いた頃、前から歩いてくる人影に気付き、清の胸は高鳴った。でも視界に捉えたのは、一守ともう一人、見たこのとのない女の人だった。  清の好きな腕に細い腕を絡ませ、小鳥が囀るような仕草で一守を見上げている。  ほっそりとした輪郭に、背中の中ほどで揺れる艶やかな黒髪が弾んで見えた。  セーラー服の襟元から覗く白い首に、一守の指が触れようとした瞬間、「あっ」と声を漏らしてしまい、清は二人と目が合ってしまった。 「せいっ」  驚いたような声で名前を呼ばれた。久しぶりに一守の声で呼ばれて泣きそうになる。  どうしていいか分からず、目を逸らそうとした時、横にいる女生徒が一守に何か耳打ちしている。息が掛かるほど近い距離と、二人が作りだす甘い空気に当てられ、清は激しい怒りを覚えた。  いたたまれず踵を返そうとした時、華やかな声で、「清君だよね」と声をかけられた。  反射的に振り返ると、女生徒は嬉しそうに駆け出し、一守が引き留める声も無視して、清の目の前までやって来た。 「君、一守の弟さんでしょ、名前は清君よね。私は千家(せんげ)一子(いちこ)、一守君のクラスメイトだよ、よろしくね」  屈託のない笑顔で自己紹介され、清は言葉なく、ただその顔をジッと眺めていた。  一子の丸くて大きな焦茶の瞳は、さっき貰った栗のように艶々して輝いている。  誇らしげで、自身に満ち溢れた美しい顔だった。 「一子、勝手に自己紹介するな」  一子……。呼び捨てだ、そう言えばこの人も、一守って……。 「だって、早く会いたかったんですもの。一守自慢の可愛い弟さんに」  セーラー服の赤いスカーフと、長い黒髪が風にたなびき、そこから石鹸のようないい匂いがした。初めて間近で見る『女性』と、肩を並べる一守の顔は別人のようだ。  朝からずっと教室で一緒に過ごし、帰り道も一緒——。仲睦まじい二人を想像すると、清はギュッとズボンの生地を掴んでいた。  これまでの一守は学校が終わると、寄り道もせず家に帰って来てくれた。もちろん、夕食の支度をするためだけど、それだけじゃないのを清は、今初めて気付かされた。  清が寂しくないよう、側にいてくれようとした一守の優しさだ。それは何年も欠かさず継続され、そんな当たり前の日常を疎かにし、一守の言葉も聞かずに避け続けていた。  一守が愛想を尽かしても仕方ない。他の人を側においても文句は言えない。 「清、お前上着も着ないで寒くないのか。しかも裸足に草履って……唇も青いぞ」  心配そうに清を見る一守の手は、学ランを脱いでシャツ一枚の肩にかけようとしていた。 「へ、平気! 寒くなんかないっ」  学ランごと一守の手を跳ね除け、清は再び踵を返して家までの坂道を駆け上った。  砂利道を全速力で走っても、草履だと思うように進めず、一守にすぐ追い付かれ、背後からすっぽりと胸に包まれてしまった。 「清っ、どうしたんだ急に走り出して」  吐く息と声が耳に流れ込み、清の体は一気に熱を含んだ。冷え切った腕や背中を優しく撫でられ、一守の腕の中で蕩けそうになる。体温が伝わる距離に、心が喜んでいるのがわかる。ずっと一守の視線を無視していたくせに、構ってくれることがこんなにも嬉しい。  肩越しに振り返ると、濃紺のプリーツスカートが風ではためいているのが目に入った。  手のひらを口元に当て、一守の背中をジッと見つめている。 「……先に家に帰る、かずちゃんはあの人、送ってあげないと」  腕を突っぱね、温もりを突き放すと、学ランを一守の手に押し戻し、清は背中を向けた。  走らず、砂利を踏み締めるよう今度はゆっくり歩く。背中に二人分の視線を感じながら。
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