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 いい加減仲直りしろよと、父親の呆れた声で夕食は始まり、静かな食卓を三人で囲んだ。  一守の様子も至って普通だった。表情も、父親との会話もこれまでと変わらない。唯一違うのは、清が見ると視線を逸らされることだけ。それがもう何日も続いている。  噂の渦中にいる一子を目の当たりにしてから、清の心には鬱屈した感情が重苦しく蔓延っている。  こっちを見てよ、俺をちゃんと見てよと心が叫んでも、それを声にする勇気がない。  食事も喉を通らず、箸をおこうとした時、そう言えばと、父親が追い討ちをかける言葉を放った。 「一守、お前千家さんとこの娘さんとお付き合いしてるのか」  唐突な父親の質問に、清の心臓が早鐘のように鳴った。そろりと一守の顔を盗み見ると、黙々と白飯を口に運んでいる。次に、味噌汁を口にし、お茶を一口啜った。 「なんだ、黙ったままで。照れてるのか」  返事をしようとしない一守に、父親が一人で会話を広げようとしているのが分かる。  父親の話しは一子の家柄から始まった。  彼女の家は資産家で、代々続く医者の家系。父親も医者で、子どもは一子しかいないため、将来は婿養子を取るのだと、厳格な父親が言っていたとかなんとか……。  千家の家柄を延々と語ったのは、我が家とは身分違いなんだと、一守に言いたかったのだ。父親の声音で、付き合いを快く思ってないのが分かる。 「向こうとウチでは雲泥の差なんだぞ。嫁に行く前に傷物にでもしたらどうなるか。分かっているのか、一守」  話し終える間にすっかり食事を終えた一守が、「そんなんじゃない」とひと言だけ言い放つと、空になった食器を持って台所へ向かってしまった。  あいつ本当に分かってるのかと、ブツブツ文句を言う父親が、残った白飯に番茶をぶっかけてかっこんでいる。  清は二人のやり取りを黙って聞いていた。  父親に諭されて怒ったのか、照れ隠しなのか、一守の真意が表情からは読めない。  顔を見るだけで分かり合えていたのに、今は嘘のようによそよそしい。それが……悲しくて寂しい。一子を見てからその気持ちは増殖するばかりだった。  その夜も清は、父親のイビキを聞きながら眠った——と言うか、目を閉じていただけだ。  眠ろうとしても一守を見つめる一子の顔が燦々と輝き、瞼の裏に焼きついて離れない。  眠いのに眠れない。このまま枕を抱えて一守の眠る部屋に行こうかと、何度も思っては寝返りを打って凌いだ。  白む朝に刺激されて目が覚めた。寝付けたのが朝方だったお陰で、目はしょぼしょぼする。隣を見ると、父親は豪快な大の字になってまだ寝息をたてていた。  清は静かに布団を畳むと、着替えて台所へと向かった。  まだ一守は起きてないと思い、先に朝ご飯の用意をして驚かせようと考えた。きっと、一守は褒めてくれるはずだ。ありがとうと笑って頭を撫でてくれる。  陰翳な廊下は素足だと冷たすぎて、体だけじゃなく心までも凍らせてくる。それでも僅かな期待を胸に、味噌汁の具は何にしようかと考えて歩いた。けれど清のささやかな企みは、台所の裸電球が灯っていることで一気に消沈してしまう。 「かず……ちゃん、もう起きてたんだ」  声をかけると、背を向けたまま、おはようとだけ返ってきた。  一守の態度に清の体は更に凍え、顔も見てくれないなんて悲し過ぎると腹もたった。  流しの上に目をやると、大きな一守の弁当箱と、少し小さなアルミ製の小判形が見えた。  一守はその二つの箱に、出来たばかりの卵焼きを切って詰めている。  お弁当……。何で二つなんだろう。  小さいのはもしかして自分の分だろうかと、ふと考えたことに滑稽さが込み上がった。なぜなら、小さな弁当箱は清のものではないし、横に置いてある箸箱は女の子が好みそうな赤いチェックの柄だった。  誰の分を作ってるの——。喉まで出かかった言葉を飲み込み、一向に顔を見せてくれない辛さに清は肩を落として、居間へ向かった。  背中合わせの二人の間に、早朝の冷えた空気が彷徨う。隙間風が窓硝子を叩き、カーテンが揺れる。ふわりとはためくその姿に一子の黒髪を思い出した。細い首筋に触れようとした一守の指先まで一緒に蘇り、途端にカッと全身が熱くなる。湧き上がる焔のような熱を自覚したまま、清の唇は勝手に動き出した。 「……俺とは喋ってくれないのに」  小さな清の声は一守に届いていた。けれど内容までは聞き取れなかったのか、何か言ったかと、また振り向きもせずに声だけ返ってくる。 「何で俺をほっとくのっ」  今度ははっきりと言った——と言うより、叫んだに近い。  清の声に驚いた一守が菜箸を持つ手を止め、ゆっくりと振り返った。  真っ正面から見据えてくる一守の瞳孔が開き、清を捉えている。カタカタと硝子が震える音がする中を、一守の足が静かに動いた。 「清、どうした……」  優しい声だった。でも同じ音で『一子』と呼んでいるのだ。そう思うと悔しくて、悲しくて、一守の一歩分、清は後退りした。 「か……ずちゃんは、もう……俺のことなんて嫌いなんだ。俺を捨てちゃうんだ」  自暴自棄な言葉を吐き捨てた。自分でもこんなことを言いたいわけじゃない。なのに、勝手に口が、心が一守へ八つ当たりする。一度声に出してしまうと道筋は作られ、また叫んでしまった。 「俺なんか、いなくなってもいいんだろっ。俺は邪魔なんだ、何も出来ない俺がいるせいで、かずちゃんは家に早く帰ってたんだろっ。けど、本当はそんなことしたくないんだ。あの、一子って人と、もっと一緒にいる時間が欲しかったんでしょ!」  窓硝子が清の声と共鳴するようにビリビリと鳴いた。 「なに言ってるんだ。清を邪魔なんて思ったことない。それに、一子がなんで出てくる。一緒にいる時間が欲しいってどう言うこと——」 「もういいっ! 俺は捨てられてた子供だもん、俺のことが邪魔だったんでしょ。一子って人と俺のこと笑ってたんだ、青い目の孤児だって」  湖のような青い瞳を潤ませ、一守の言葉を遮るように訴えた。  自分の言葉なのに制御できない。思ってもないことなのに、勝手に罵倒が生まれる。  意固地になっているのが分かっていても、一子と並ぶ一守の幻影が清に怒りを(いだ)かせる。 「何で一子が出てくるんだ、彼女は関係ない。それにお前を邪魔に思うとか、ましてや笑ったりなんて——」 「だってあの人、俺に会いたかったって。青い目の人間が珍しかったんだっ」  もうめちゃくちゃだ。自分で何を言ってるか分からない。意味があるとすれば、一守の関心を自分に向けたい、ただそれだけだった。 「一子はそんなこと思う子じゃない。それに清に会いたかったって言うのは、俺が……」  庇った……。かずちゃんは一子って人が好きだから、大切だから守るんだ……。俺じゃなくて、あの人を守るんだ。  言い淀んでいることが証拠だと思った。そうとしかもう思えず、目の端で踏ん張っていた雫が溢れると、清は頬をしとどに濡らしていった。  一歩、二歩と近付いてくる一守から逃げるよう、清も一歩、二歩と下がって行く。 「いい……、もういい。俺はここを出て行く、もうかずちゃんに迷惑はかけないから」 「出て行くって、何を言ってる。お前の家はここだ、お前の家族は俺と父ちゃんだろ」  一守の言葉を無視し、清は泣きながら玄関へと向かった。三和土に素足のまま降り立ち、まだ明けきれてない外へと飛び出した。 「せいっ! 待て、どこへ行くんだ。清っ」  追いかけようとして一守も玄関へ行こうとした時、朝っぱらから騒がしいなと父親が起きてきた。 「父ちゃん、清が、清が——」  狼狽える一守を見て気付いたのか、「探してくるか」と、父親が靴を履こうとした。 「俺が行く、父ちゃんは家で待ってて」  そう言うと一守は急いで靴を履き、開けっぱなしになった引き戸に手をかけた。 「待て、今上着を取ってくる」  慌てて父親は居間の鴨居にかけてあった上着を二人分、一守に手渡した。 「ありがと、父ちゃん」 「ちゃんと仲直りして来い、朝飯作っとくからな」  背中で父親の声を聞きながら一守は急いで靴を履くと、朝靄のかかる薄闇へと飛び出した。
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