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埃が積もった机や椅子。掠れた黒板の落書きもあの時のままで変わらない。
破けてボロボロのカーテンが風で舞うと、窓際の席に座る背中がそこにいる気がした。
内緒なと言って煙草に火を着け、紫煙の中で笑う顔が好きだった。
光の残像に手を伸ばしてみても、触れることなど出来ず、幻だと思い知らされる。
旧校舎の教室はあまりにも寂し過ぎて、寂寥感に押し潰されそうになった鵜木千春は、たまらず両手で顔を覆った。
好きで、好きで、大好きで、でも、その言葉を伝える相手はもうここにはいない。
煙草を咥える横顔は大人びていたけど、笑うと片方だけにできるえくぼが可愛かった。
煙の匂いが苦手でも、彼から漂う匂いは不快など感じず逆に癒しにさえ思えた。
千春が本を読んでいると、自分では読もうとせず、結末だけ聞かせろとせがんでくる。
初めは煩わしく思っていたけれど、その我儘が次第に嬉しくなっていた。
——ハーフみたいで可愛いな。それに、なんか甘いいい匂いがする。
こそばゆい言葉を何度も連呼され、距離をどんどん縮められた。男が可愛いだの、いい匂いがするなんて言われても嬉しくないのに、このフレーズを聴き慣れた頃には、もう彼を好きになっていた。
誕生日を尋ねられた時、先輩は? と反対に聞き返したら、消臭スプレーが欲しいとねだられた。とっぴな回答に、思わず何でと叫ぶと、煙草の匂い消しと、香りでお前のこと思い出すじゃんって、笑って言っていた。
プレゼントが所帯染み過ぎると、頬を膨らませたけど、結局、リクエストと一緒にお気に入りの本を贈った。
この旧校舎へ来るには、雑草が生い茂る裏庭を通らないといけない。欝蒼としたその場所は薄暗くちょっと不気味で、千春が知る限り、ここへ足を運ぶ生徒を見たことがない。
だからと言って、手を繋いで歩くなんてもってのほかだ。
少し高い肩と並んで歩くと、彼は決まって指を絡めてくる。予鈴に焦っているのもあったけど、それよりも誰かに見られることに怯えた。
見られたら困る——。つい、キツい口調で手を振り払っても、だよね、と言って微笑みを返してくれる優しい人。
ネクタイを緩ませ、制服はいつもシワだらけでだらしない。見兼ねてヨレたシャツの背中を手のひらで整えてあげると、肩越しに笑って、優しいなぁと言ってくれた人。
優しいのはあなたの方だったのに……。
贈った本を読んだのか聞いてみると、
——自分で読むより、ちはに読んで欲しい。
そんな甘い言葉を囁いて、懲りずに手を繋ごうとしてくる。それを、千春はまた拒んだ。
本当は触れたかったくせに、ゲイだとバレるのがとても怖かったから。
肩を並べて歩くのも、旧校舎で過ごせるのも、彼が卒業するまでの半年しかない。
なのに遠くの大学へ進学すると言われ、話の途中で耳を塞ぐと、怒りにまかせて酷いことを言ってしまった。
——俺のことなんてどうでもいいんだっ。先輩なんて、どこへでも言ってしまえっ。
古い教室に罵倒が響き、ぶつけた言葉は大好きな笑顔を歪めさせた。
秋風ではためくカーテンが、悲しげに微笑む人を隠した隙に、逃げるように教室を飛びだそうとした。
——あの本、面白かったよ。
背中にかけられた言葉が嬉しくて、振り返りたかった。頭の中では謝らないと——、そう思っていても、ちっぽけな意地がそれを邪魔した。
悲しそうに笑った顔が、彼の最後の姿になるとは思ってもみなかったから。
一年と三年。同じ部活に入ってもなければ、共通の知り合いもいない。通学路も違う二人の接点はこの旧校舎だけだった……。
入学して間もなく、ひっそりと建つ校舎を見つけた千春は、立ち入り禁止の看板を潜り、こっそり中へと忍び込んだ。
築五十年以上にもなる朽ちた建物でも、積もった埃以外は読書に最適な場所だった。
友達と騒ぐのが嫌いなわけではない。でも、一人で静かに本を読む時間も大切にしたい。
千春は旧校舎の二階にある、一番日当たりのいい教室を選んで昼休みを過ごすようになった。
いつものように階段を軋ませ、教室の前まで行くと、煙草の臭いが漂っているのに気付く。
自分だけの秘密の場所は、見知らぬ背の高い後ろ姿が空に溶け込むよう、窓際で佇んでいる。彼は景色を眺めながら煙草を燻らせていた。
少し長い茶色の髪が、肩と首の間で風になびき、同じようにネクタイも揺れ、垣間見えた色で三年生なんだと分かった。
気配を悟られ、振り返った彼の顔を見た瞬間、ギョッとしたのを今でも覚えている。
口の端は切れて赤紫に変色し、反対の頬には打撲痕のような青痣もあった。
傷だらけの顔は、誰だコイツ——みたいな表情を一瞬見せたが、すぐ柔和に解け、ふわりと微笑まれると、たじろぐ千春へ手のひらをはためかせてきた。
よく見ると彼の開襟シャツのボタンは取れかけ、隙間から見える鎖骨にも痛々しい傷痕が見え隠れしていた。
本能的に関わってはいけない——そう思い、小脇に挟んでいた本を手に持ち変え、千春は踵を返して教室を出ようとした。
——なあ、その本って面白い?
唐突にかけられたこの言葉が、千春にとって、忘れられない恋の始まりになった。
少しハスキーな声が千春を反射的に立ち止まらせ、恐る恐る振り返ると、煙を吐き出しながらまた微笑まれた。
不信感だらけの千春などお構いなしに、傷だらけの顔で、なあ、なあと話しかけてくる。
痛々しさを感じさせない口ぶりに怯みながらも、千春は表紙を彼に見せた。
——読んで聞かせてよ、あらすじだけでいいからさ。
初対面の相手にかける言葉とは思えない。
呆気に取られていると、頼むよと、しつこく食い下がられた。
暫く考えた末、千春が教室へ戻ると、彼は、どうぞと言いながら、椅子を差し出し、座面の埃を手で払ってくれた。
千春は遠慮がちに腰掛けると、ゴホン、と咳払いをしてから表紙を開いた。
物語は、主人公が夢を見る間だけ本の世界に入り、主役と同化して共に心が育っていく、人間形成物語だった。
話し終えると、すっげ面白かったと白い歯を見せて礼を言われ、頭を撫でられた。
微笑みとは逆に生々しい傷が見てられなかったけど、触れられたことに怖さはなかった。
遠くから予鈴が聞こえ、それじゃあと、教室を出ようとした千春に、
——また明日も、待ってっから。
一方的な約束を告げられ、振り返ると、真っ直ぐな瞳で千春は見つめられた。
線を引いたような鼻筋に、一重瞼で明瞭な瞳は目尻がほんの少し下がっている。
かなりのイケメンなのに、顔の傷が残念だ——なんて、つい思ってしまった。
翌日の昼休み、半信半疑で旧校舎にやって来ると、階段の中程で煙草の匂いに気付き、昨日の彼が来ていることが分かった。
千春に気付いたのか、窓際に立つ後ろ姿が振り返ると、少しだけ痣が薄くなった顔で、待ってたよと微笑まれた。
人懐っこい相好を前にすると、湯船に浸かったように耳朶がじわっと熱くなる。その熱が全身に回るのを防ぐよう、「未成年ですよ」と、乱暴に言ってひと睨みしてしまった。
——これ、可愛い箱だし、味も低タールのメンソールなんだけど。だめ?
可愛く言い訳してくる彼——波戸葵留を、ひと言で形容するならイケメンの不良だった。
何度喫煙を注意しても、小さな抵抗なんだと、訳の分からない言い訳をしてやめないし、授業も平気でサボる。特に体育の時間は大抵この旧校舎にいるらしい。そのくせ、頭は良いから担任も厳しく咎めない——らしい。
何より千春が一番気になったのは、いつもどこかしらに怪我をしていることだった。
本人曰く、すぐ喧嘩を売られるとのこと。
そんな状況そうそうあるものかと半ばバカにしながら思ったが、後に葵留の家庭環境を知った千春は、この時の自分を殴り飛ばしたくなった。
葵留からの朗読の催促は続き、そんなに興味があるなら、自分で読めばと言うと、
——ちはの声で聞きたいんだ。
意味深な返事と一緒に、変なあだ名で呼ばれた。あと、『る』を付けるだけで完成する名前を省略する意味がわからない。
掴みどころのない葵留のペースに流されつつも、その人懐っこさに絆され、千春は彼と過ごすことが次第と楽しみになっていた。
同性しか好きになれない千春は、性的指向がバレるのを恐れ、中学の頃から読書を口実に昼休みを一人で過ごす習慣があった。
明らかな自己防衛は高校になってからも続いていたけど、旧校舎で葵留と出会い、そんな自衛は気付かないうちに消えていしまった。いつからか旧校舎へ来ることは、葵留に会いたいと言う気持ちに上書きされ、夏休み中は苦手な煙草の匂いさえ恋しく思ったほどだった。
ようやく二学期が始まり、待ち兼ねた昼休みに新刊を手に旧校舎へと向かった。
教室に飛び込み、窓辺に立つ葵留の背中を見つけると、逸る気持ちのまま名前を呼んだ。
だが、振り返った姿に千春は瞠目した。
鮮血の滲む真新しい傷。それが、口元やこめかみに刻まれ、半袖のシャツから伸びる腕にも数箇所の打撲痕があった。
千春は嫌な予感がし、無言で葵留のシャツを捲った。
いやん、ちはのエッチと、ふざけて肌を隠そうとする葵留の手を払いのけ、素肌を確認した千春は思わず眉をひそめてしまった。
上半身には数カ所の傷があり、中にはどう見ても喧嘩で出来た傷ではない、火傷のように引き攣った痕もある。
短い間だけど葵留を見て分かっていた、彼が喧嘩をするような人間じゃないことを。
葵留の傷は故意につけられたものだ。
本を読んでくれと言う言葉を無視し、誰にやられたと、問い詰めた。
——ちはって弱っちそうなのに、意外と気が強いよな。でもそのギャップが可愛い。
丸い瞳も苺みたいな唇も、意地っ張りなとこも可愛いなと、頭を撫でながら言ってくる。
そんなこと今は関係ないっ——。ついタメ口になり、葵留の体を揺さぶった。
問い詰めても葵留は、平気、平気とか、俺、弱いからなーとか惚けてくる。千春は年下だと言うことも忘れ、無遠慮に胸ぐらを掴んで詰め寄い彼の言葉を待った。
——これやったの父親。
千春の腕をそっと取り除きながら葵留が告げた言葉は、千春が想像していたものに近かった。
情けないよなと言う葵留の哀感な顔を見つめ、千春は頭の中で浮かんだ、虐待と言う二文字に怒りを覚えた。
——俺が逆らったら、いない時に母ちゃんが殴られっからさ。
貼り付けたような笑顔が胸に刺さった。
足りない説明でも、葵留の環境が伝わる。
千春はかける言葉の代わりに、葵留の体を引き寄せて抱き締めた。背の高い背中を包むよう、背伸びをして思いっきり強く。
身長が百八十も超えた高校生なら、父親に立ち向かうことができそうなもの。なのに抵抗せず、黙って殴られ続けるのは母親を守るためなのか。
自然と手に力がこもる千春は、お返しだと言って倍の力で葵留に抱き竦められた。
耳に唇が触れた瞬間、ちはが好きだよと、ちはしかいらないと、囁かれた。
熱を帯びた告白が耳に注がれ、嬉しくて、でも、葵留の現実に涙が止まらなかった……。
二人の体が自然に離れると、瞼に唇を落とされた。次に頬、鼻と移動し、最後に唇同士が優しく触れ合う。
短い口づけを繰り返され、嬉しさを噛み締めながら、葵留を守りたい、それが出来るのは自分だけだと思っていた。
予鈴を聞きながら二人で裏庭を歩いた。
いつもは早足で歩くのに、この日は時間をかけてゆっくりと歩いた。
手を繋ぎたかったけど、差し出された手をまた拒んでしまった。
葵留の手に触れる、最後の機会だったのも知らずに……。
葵留に早く会いたくて、翌日急いで旧校舎に行ったが彼の匂いはなく、次の日も、その次の日も葵留は旧校舎に現れなかった。
一週間、二週間経っても葵留と会えない。その理由を彼の手を振り払ったからと結びつけた千春は不安に襲われた。
嫌われてしまった——そんな考えが過ぎって怖くなった。それでも意を決して三年生の校舎へ行ったのは、最後に会ってから一ヶ月近くも経っていた。
連絡先も知らず、クラスも聞いてなかったことに今更気付き、千春は片っ端から三年生の教室を覗いた。ようやく大好きな背中を見つけたのに、目が合った瞬間、よそ行きの声で、『千春君」と呼ばれ、愕然とした。
葵留の態度に違和感を感じ、千春は理由を知りたくて、旧校舎へと強引に連れ出した。
もう、自分のことを嫌いになったならそう言って欲しい。乱暴な口調で問い詰めても、葵留はただ、何でもないと言い淀んでいる。
悲しくて堪らなくなり、千春は更に激しく追求した。そしてようやく聞き出せたのは、推薦入学で東京の大学に葵留が行ってしまうことだった。
母親が半月前に病死し、やっと父親から離れて独り暮らしが出来るんだと、ホッとしたような表情で言われ、その言葉、表情に泣きそうになった……。
葵留の話しは理解できる。自分も同じ環境なら絶対にそうしている。
相談してとまでは言わない、けれど決めた時点で教えて欲しかった。そう思うのは自分のわがままなのだろうか。
知らないことが悔しくて、悲しくて、それでも期待をしてしまう。千春も来てくれと、待っていると言うそのひと言を……。
その言葉があれば、遠くて会えなくても絶えられる。なのに、葵留はずっと目を伏せたままで何も言ってはくれない。
もう自分は必要ない、そう言われてる気がした。
——あのな、千春……
聞きたくないっ!
千春は言葉を遮った。同時に頭の中で余計なことも考えた。
好きだと言ったのは嘘だった? 父親からの鬱憤を晴らすため? それとも退屈凌ぎに男が好きな千春をからかっていたのか。
その証拠に、母親のことも東京へ行くことの欠片も……話してはくれなかった。
特別を感じる『ちは』と言う響きに、くすぐったくて、でも嬉しくて。自分の名前が生まれて初めて愛しいと思えた。なのに……葵留にとっては特別でも何でもなかった。
再び名前を呼ばれても言い訳されると思い、千春は耳を塞いで叫んだ、俺のことなんてどうでもいいんだっ。先輩なんて、どこへでも言ってしまえっ、と。
——大っ嫌いだっ! 顔も見たくないっ!
酷い言葉を怒りに任せて叩きつけた。
暴力のような捨て台詞を残し、旧校舎を飛び出して裏庭を突っ切った。
背中に『ちは』と呼ぶ声が聞こえた気がする。でも振り返ることもせず、自分の教室に戻って頭痛を理由に早退した。
家では具合が悪いと言い続け、三日間学校をサボった。行けば楽しかった出来事も、悲しい現実も思い出して耐えられそうにない。
さすがにもう嘘を突き通すことが出来ず、週明け千春が学校へ行くと、教室では学校付近で起こった事故の話しで持ちきりだった。どうやら事故に遭ったのは、学校の生徒だったらしい。
体調を気遣う言葉をかけてくれた友人が、事故のことを知ってるかと聞いてきた。
寝てたから知らなかったと答えると、千春の家の近所なのに? と怪訝な顔をされた。
そう言えばベッドの中で救急車の音を聞いたような気がしたけど、葵留のことばかり考えていて気にも留めていなかった。
事故の話を聞くことよりも、早く葵留に会いたい。会って、言い過ぎたことを謝りたい。話しもろくすっぽ聞かず、子供じみた態度を取ってごめんと。
葵留が遊びでも、千春が彼を好きなことは変わりない。それをもう一度伝えたい。
虐待のことを、誰よりも理解していたのに、自分の気持ちを優先して酷いことを言ってしまった。
嫌われててもいい、せめて最後は笑顔で見送りたい。それを、それだけでも伝えよう。
決意を固めると、昼休みまでの時間はとてつもなく長く感じた。
四限目が終わり、昼食もそっちのけで旧校舎に行ってみた。けれどそこに葵留の姿はなく、やっぱりなと肩を落とした時、いつも座っていた机の上に白い小さな箱を見つけた。
開封しかけた煙草の箱が、千春を待っていたかのように、太陽に照らされて光っている。
千春は箱を握りしめると、三年生の校舎へと向かった。
葵留の教室を覗き、大好きな背中を探した。けれど彼の姿はなく、ドアの側で途方に暮れていると、千春に気付いた女生徒が声をかけてくれた。
——あの、葵留先輩は……。
言下しないうちに女生徒の顔は曇り、言いにくそうに放った彼女の言葉に耳を疑った。
——二日前、亡くなったのよ。事故で……。
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