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 一度口にした言葉をなかったことに出来れば、違う今を生きていたのかもしれない。  放たれた言葉は凶器となって相手を攻撃し、幸せな笑顔を簡単に切り裂いてしまう。  心と連動する欲望をぶつけたのは紛れもなく自分だし、手にしていた愛を疑って手放したのも自分だ。  考えてもどうしようもない事を繰り返し、千春は自分だけが時を刻んで行く虚しさに唇を噛んだ。  見上げた空に浮かぶのはいつも同じ景色。  埃まみれの古い教室。ボロボロのカーテン。窓際に佇み、煙草を吸う横顔。  父親からの暴力を受けても、いつだって笑顔で怒った顔を見たことはない。  与えられた眼差しや優しさを疑う要素などどこにもなかったと、今になってまざまざと思い知らされる。  後悔しても大好きな人は二度と戻ってこない。煙草の残り香だけを記憶に植え付けたまま、遠くへ逝ってしまった。  目を閉じると、サラサラと風が鳴き、その音でさえ愛しい声に聞こえてくる。  重症だな——と思った。あれから三年は経ってると言うのに。  キャンパスの中庭にあるベンチで喧騒に埋もれながら、千春は消えずに増すばかりの憂苦と後悔に押し潰されそうになっていた。  言葉の意味も考えず、感情のまま相手にぶつけると、それは魂を持って獣のように相手を襲ってしまった。なのに自分だけがのうのうと生きている。  読みかけのページに溜息と視線を落とした時、名前を呼ばれて顔を上げると、荒げた息を吐きながら駆けてくる親友の姿が見えた。 「仙太郎(せんたろう)。間に合ったんだ」 「ああ、ギリセーフ。ったく、あの先生厳しすぎるわ」  ツンツンに尖らせたソフトモヒカンの崩れを気にしながら、豊浦(とようら)仙太郎(せんたろう)が苛立ちを込めて隣に腰を下ろしてきた。 「ページ数が足りてたのに、まさかの文字数不足だったとはなー」  暦の上では秋でも日差しはまだ夏の余韻が残り、額に汗を浮かべる仙太郎を不憫に思った千春は、下敷きで風を起こしてやった。 「でも八尋(やひろ)先生は怒らないだろ? いつも涼しい顔で、淡々と語るって感じだし」  「そう。淡々と、ニコリともせず、無精髭を撫でながら、最後のページが二行しか書いてないって言われたんだぜ。でも一枚は一枚だろ? これって揚げ足取りだと思わん?」  吊り目を更に引き上げ、怒っては見せているけど、本気でイラついているわけではない。  前向きでさっぱりとした性格の仙太郎には、高校の時から千春は何度も救われていた。本当に、何度も……。  彼がいなかったら千春は高校を留年——いや、もしかしたら中退していたかもしれない。  初めて好きになった人を突然失った。その原因は自分じゃないかと責め、自暴自棄になった千春を励まし続けたのが仙太郎だった。  ゲイだと知っても、仙太郎は変わらず親友のままで、それがどれだけ嬉しかったことか。 「でも、あの無精髭オヤジと違って、六人部(むとべ)先生は紳士でカッコいいよな」 「無精髭オヤジって——。うん、まあ六人部先生と八尋先生はタイプ違うしな」 「あのやる気のなさで准教授なんだもんな。しかも六人部先生と並んで次期教授候補? らしいしな」 「へえ、そうなんだ。でも両先生とも教授とかには興味がなさそう。六人部先生なんて、ご自身の研究に執心だし」 「ああ。あの、何だっけ。思想とか、宗教? とか小難しい講義ばっかしてる——っと、失言、失言。千春は先生を尊敬してんだもんな。ゼミも取ってるしさ」 「確かに先生の講義は難しくて、俺もまだ全然理解できないけどね」 「ほら、噂をすれば六人部っちだ。もうすぐ四十だっけ? 独身であの若々しさに綺麗な顔がくっついてりゃ女子達も騒ぐよな」 仙太郎が顎で示した先を辿ると、女生徒に囲まれている六人部を見つけた。  清潔な黒髪にアップバングと三揃いのベスト姿が凛々しく、周りで吹く風からは高貴な香りが漂ってる気さえする。 「カッコいいよな、先生。あんな兄貴とかいたら自慢するな」 「兄貴? 彼氏じゃなくて?」  飲み干したペットボトルのラベルを、ペリペリと剥がす仙太郎がニヤつく。 「彼氏——は当分いらないな。今は勉強にバイト。あと、読書とゼミだな」 「お手本のような学生だな。でもお前自身はそうでも、童顔で可愛い顔してっから、周りがほっとかないと思うけどな。大学でもカムアウトしてる奴最近は結構いるし」  俺は彼女欲しいけどなと、秋空に向かって仙太郎が雄叫びを上げた。そんな嘆きが聞こえたのか、女生徒に囲まれていた六人部が千春達に気付き、ベンチの側までやって来た。 「やあ、日向ぼっこかい。鵜木君」  立ち上がって会釈した千春は、彼を待っていただけですと、仙太郎を見下ろした。 「豊浦君か。そう言えば君、さっき全速力で八尋先生の部屋に駆け込んでたね」  見てたんですねと、仙太郎が言い、ここぞとばかりに八尋への愚痴をぶちまけている。 「あ、先生。そう言えば冬休みにゼミの研修会があるんですよね」  尽きない仙太郎との応酬で、困惑気味になっている六人部に千春は問いかけた。 「ああ、あるよ。二年生から参加のね」 「よかった。俺、楽しみだったんです。先生から普段と違う授業を聞けるんですから」  頬を高揚させた千春が、両手をこぶしに変えて力説した。 「鵜木君は真面目で可愛いな。その調子で小論文もクリアしてくれよ」 「あー、小論文。それがあった」  六人部の飴と鞭な言葉に、渋い顔で反応したものの、じゃあねと(たお)やかに微笑まれると、絆された千春は慌てて凛とした後ろ姿に会釈した。 「六人部先生って、ほんと千春がお気に入りだよな。今も真っ先に千春に声かけてたし」  雑巾を絞るようにペットボトルを凹ませ、仙太郎が揶揄する様に言ってきた。 「そんなことないって。褒めるのだって鼓舞してるだけで、他の生徒にもそうだし」  そうかなーと言う仙太郎に、そうそうと返事をし、千春は空を仰いで秋の風を浴びた。
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