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季節は秋だと言うのに、半袖のTシャツ姿はさすがに寒々しく見える。
いや、見えると言っても誰かの目に触れる訳ではない。あくまで自分がそう思うだけのこと。
若いのに死装束は可哀想だと、有難いことに叔母がデニムとTシャツを着せて納棺してくれた。そのお陰で、お笑いのコントで見るような幽霊の格好にならなくて済んだのには感謝しかない。
死んだ人間にとって服装は関係ない。誰にも見えないし、もし見ることが出来る奴がいても、そんな能力を持ってる人間は限られている。多分……。
人間に生まれかわった瞬間、記憶がリセットされ、死んで魂になると前世の記憶が蘇る仕組み。雪藤一守はこの仕組みが陰険極まりないものだと、流転を経て思い知らされた。
胸の前で組んでいた腕を解くと、空中を泳ぐように、一守は広い敷地にデンと構える建物の上に移動した。
額を覆う前髪に息を吹きかけ、絹糸のような黒髪がふわり揺れると、そこから覗く一重瞼の凛々しい双眸で下を見下ろしてみる。
微かな気配だけを頼りに、何年も彷徨っては見つけてを繰り返し、彼を見守ってきた。
今だってそうだ……。
茜色に染まる雲の下、目的の場所へと空中を移動して近付くと銀杏の木を見つけ、手頃な枝に腰掛けた。
建物からは、二十代かそこらに見える若者がゾロゾロと出てくる。その中から目当ての人間を探そうと、一守は目を皿のようにした。
容姿が違ってもすぐに分かる。ただ、見つけたからと言って、どうすることも出来ない。なんせ、自分は実体がないのだから。
それでも見つめていたいし、見守りたい。
積年の思いは魂になった今でも、性懲りも無く彼の面影を求めている。
枝の上に立ち、ふわりと地上に降り立った。
森ノ宮大学と書かれてある門を横目に、一守はキャンパスの中をゆっくりと進んだ。
前方から来る生徒達の体をすり抜けながら周りへ目を配り、懐かしい気配を探す。
初めて体を失くした時は、前から来る人とぶつかりそうになって咄嗟に目を閉じた。
当然、彼らは何事もなかったように自分の中を通り抜けて行く。透明人間ってこんな感覚なのかと、幽体初心者の自嘲したっけ。
姿を見ることは嬉しい。でもすぐに虚しさが上回って泣きたくなる。
この終わらないループに、両手を上げて降参します——とでも言えば、あの男は満足するのだろうか。
怒りに任せて過ちを犯した。でも後悔はしていない。そうしなければ守れなかった。
回顧に耽っていると、胸の容量いっぱいに、懐かしい空気を感じ、一守は前から歩いてくる二人組の男子学生に釘付けになった。
彼らとの距離が徐々に縮まってくると、ないはずの心臓が高鳴った気がし、瞬きも忘れて視線を送り続けた。
二人は一守の横を通り過ぎ、当然気付くこともなく門の外へと歩いて行く。
彼らの姿を見送りながら、一守は聞こえてきた声に目を閉じて陶酔した。
鈴が転がるような軽やかな音。それは遠い昔に耳にした声とどこか似ている。
何度味わっても、詰め込んだ記憶と温度が一気に溢れ、また泣きそうな感覚に襲われた。
二人の学生は、分かれ道に差し掛かると、手を振ってそれぞれ左右に歩いて行った。
一守は迷わず片方の学生の後を追うと、彼はレトロな雰囲気の店へと入って行った。
茶色の外壁には蔦の葉が絡まり、スチール製のアンティークな看板にも葉が絡まっている。辛うじて『ラポール』と読めた。
一守は扉をすり抜け、店内へと入った。
四、五人で埋まりそうなこじんまりとしたカウンターに、テーブル席が二席。
カウンターの中では、マスターらしき白髪の老人が珈琲の豆を挽いている。
そこへさっきの学生がエプロンをしながらやって来て、老人に挨拶をした。
「千春、早いな。まだ一時間はあるだろ」
「だって今日はマスターがケーキの試作するって言ってたでしょう。俺、それが楽しみで早く来ちゃって」
「ったく、相変わらずだな、千春の甘党は」
「先月のケーキもめっちゃ美味かったなぁ。桃とアールグレイのパウンドケーキ。冷やして食べると最高だった。マスター、また来年の夏も作ってくださいよ」
陶酔しているとマスターが、冷蔵庫に視線をむけ、千春に片目を瞬かせている。
「千春用にワンカット皿に移してある。ちょっと焦げたとこだけどな」
「やった! さすがマスター。早く出勤してよかったぁ」
「ほら、早く食べてしまいなさい。もうすぐ奥様方の来る時間だ」
ウキウキを隠しきれない声で「はいっ」と返事し、千春は冷蔵庫を開けた。
白い皿に輝くそのビジュアルだけで、唾液腺が興奮して口の中が洪水になりそうだ。
「かぼちゃとさつまいものタルトだっ」
ほっくりと焼かれたパイ生地に、キャラメリゼした胡桃をトッピングしてあるのが憎い。
コーティングされて煌めく秋の実りにフォークを刺し、千春は口腔内へと運んだ。
「うまっ。これ、めちゃくちゃ美味いです」
歓喜を口にした後は、フォークが止まらず、マスターが、だろ? と言うセリフさえも聞き逃し、無我夢中で頬張っていた。
——ほんと、甘いもんに目がないのは昔と同じだな……。
嬉しそうに好物を頬張る千春を、空席に座って見ていた一守が頬杖を付いて呟いた。
姿は変わっていても、どこか似ている。それが一守の心を熱くし、安堵もさせた。
月日がどれだけ流れても、忘れられない大切な人。
生まれ変わる度に記憶を失っても、魂だけに戻ると愛しい人との記憶は蘇る。
何度生まれ変わっても、前世で起きたことは全部一守の魂に蓄積されていた。それが何人分の人生であろうと、体が朽ちるごとに愛した人のことも、罪も、苦しみも、何もかもを受け止めなければならない。
呪詛と化した責苦を、永遠に受け続ける。それでも目の前の彼の心が安らかで幸せなら、一向に構わない。それが一守の願いでもあったから。
諦めの笑みを溢した時、ドアベルが鳴り、年配の女性四人組が入ってきた。賑やかな彼女達はマスターに声をかけると、一人の女性が一守の上に重なるように着席した。
慌てて席を立つと、注文を聞きに来た千春に目を奪われてしまった。
間近で数秒見惚れた後、我に返って一守はドアをすり抜け、今度は硝子越しに千春を見つめた。
はつらつとして働く笑顔は輝いている。
幸せそうな様子にホッとし、一守はふわりと空に浮かんで、店の近くにある公園へと移動した。現世で彼を見つけてからの、一守のルーティンだった。
空はすっかり茜色に染まり、連なる家の屋根には夜の兆しが染み込もうとしている。
誰もいない静かな公園の鉄棒に腰掛けると、茫漠たる孤独を感じ、無力さに襲われた。
守ってやると約束したのに、今の自分は彼の目に留まることも、触れることも出来ない。こうやって遠くから見つめることしか出来ない役立たずだ。
欲しいのものは手に入らず、代わりに痛痒を与え続けられるだけの運命。
生まれた瞬間に終わる、そんな人生を永遠に送り続けている。いっそ、他の人間と同じように、転生すれば前世の記憶をリセットしてくれればいいのにと何度も思った。
けれどこれがあの男の復讐だ。この手で命を奪った男の執念なのだ。
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