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「ねえ、どこ行くの」  問いかけてくる言葉に振り返ってしまったのは、同じセリフが二度続けて聞こえてきたからだ。  公園を見渡すと、一人の青年が佇んでいた。さっき声を発したのは彼なのだろうかと、一守は確かめるように眼下を見下ろした。  周りには人影はなく、彼は明らかに空を仰いでこちらを向いている。一守は彼と視線が合ったような気がし、もう一度を周りに目を配っていると、青年が徐々に近づくのを目の端で捉えた。  まさか……俺に話しかけていたのか?  辺りを注視しても、薄暮が迫る公園には青年の他に人影はいない。 「あなたに話しかけてるんだけど。ってか、さっきから目が合ってるよね」  やはり彼は自分に話しかけている。魂だけの自分に。  ——俺のこと……見えてんの? 「うん、見えるよ。半袖、寒そうだね」  見えてる? ああ、そうか。いわゆる、霊感体質とやらか。  鉄棒に座ったまま空を見上げ、呆けていたせいか、彼がそこにいたことに気付かなかった。生きている人間に認識されたことは初めてで、一守は涼しげな顔の青年を凝視した。  ——君、霊感あるんだ。 「ううん、ない」  ——でも、俺のこと見えてるじゃん。 「あなただから見えるんだ。他の(ひと)は見えないよ」  ——どう言うこと? 「……この姿じゃわかんないか」  一重瞼から覗く黒い聡明な瞳を瞬かせ、青年は確かめるように一守を捉えてくる。  眉毛を掠める長さの前髪が風で揺れる様が極上の絹糸のようで、同じ男なのに目を奪われた。バンドカラーのシャツにスリムデニムから、くるぶしがチラッと見えるのが粋だなと眺めつつ、秀麗な彼の容姿を注視し続けた。  明瞭な眼差しを覗き込んでも、過去のどの時代にも感じたことがない気配だ。 「今、あなたは記憶があるはずです。だから僕のことも覚えてるはずだ」  魂相手に怪しすぎる青年は、平然とした態度で的を得ない話を続けてくる。  ——君は誰なんだ。さっきから俺の何かを知ってる口ぶりだな。  少し口調が荒くなっても、青年は笑顔のままで、いつの間にか一守の足元にやって来た。 「コマ——。この名前、覚えてますよね」  青年が口にした懐かしい名前に、一守は瞠目した。  ——なぜその名前を知ってる。 「……良かった。やっぱり、僕のこと覚えててくれてたんだ」  ——僕のこと? 君は人間だろ。コマは雑種の犬で、俺の……大切な家族だった。もう何年も前の話しだけどな。 「僕もあなたが大好きだった。だからこそ、苦しんでいるあなたを助けたいんです」  唐突に言われ、一守は一層訝しげに青年を見た。  ——助けたい? お前は一体誰なんだ。 「僕は二度も命を救ってくれたあなたに、どうしても恩返しがしたいんです」  心底から嬉しそうに話す青年が、一守に向かって笑顔で手を差し伸ばしてきた。  男が一人で空に向かって片手を掲げている。そんな姿は側から見れば異様で、頭のイかれたヤツに見えてしまう。一守は思わず辺りに目を配った。 「ようやくあなたを見つけられた、諦めずにいてよかった……」 濁りのない澄んだ目。嘘などつけない眼差しに見えるけど、彼はやっぱり怪しすぎる。  きっと、何かの拍子で一守の素性を知った低級霊が、陥れようと企んでいるのだ。じゃないと、コマの存在をこの青年が知るわけがない。  相手にしない方がいい、そう判断した一守は鉄棒の上に立つと、弾みをつけて空中に浮かんだ。 「待って、行かないでください。僕の話を聞いて、秋衛(あきひろ)さんっ」  呼ばれた名前に一守の動きが止まり、空に浮いたままゆっくりと青年を見下ろした。 「行かないでっ。やっと会えたのに。せめて僕の話を聞いてくださいっ!」  嘆願する声が想像以上に大きく、一守はギョッとしてまた辺りを確認した。  夕冷えする時間帯に、散歩する人間はそういない。一守は肩で安堵の溜息を吐くと、今にも泣きそうな青年の目線までふわりと降り立って言った。  ——場所を移動しよう。  一守は公園の隅にある、銀杏の木のたもとへ青年を誘導した。ここなら陰になっていて人目もつかない。男が一人で何か言っていても、怪しまれないだろう。  ——さっき、俺のこと『秋衛』って呼んだよな。本当に君は『コマ』……なのか?  一守の質問に、コマと名乗る青年は小さく、何度も頷いていた。 「ずっとあなたを探してたんです。あなたを助けたくて」  懐かしそうなに一守を見つめてくるけど、そんな眼差しを受け取っても、見知らぬ彼の話はやっぱり疑わしい。  ——君が『コマ』だと言う証拠は? それになぜ俺が秋衛だと? 顔も違うのに。 「分かりますよ。あなたが秋衛さんの前世で、一守さんだってことも。僕は秋衛さんに命を救われました。しかも二度もです。最初は、大型犬に襲われてる僕を助けてくれた。あなたは怪我をした僕を連れ帰って、そのまま家に置いてくれたんです」  確かに秋衛は子犬を助け、コマと名付けて飼っていた。神社の狛犬から取った安直な名前。あれは確か、小六くらいだったと思う。  一守としての生を終え、数十年後、秋衛として新たに生まれ変わった。  幼い頃から活発な少年の秋衛は、近所の神社で素振りをするのが日課の野球少年だった。コマと出会った日も、いつものようにバットを片手に神社へ行った時だった。  境内への階段の途中、犬の激しい鳴き声が聞こえ、秋衛が駆けつけると、大型犬に襲われ、傷だらけになった子犬が倒れていた。  秋衛は必死でバッドを振り回し、相手の犬を追い払ったのだ。 「小さな秋衛さんは、大きな犬から僕を守ってくれた。バッドを持つ手が震えてたの、今でもはっきりと覚えてます」  コマと名乗る青年は、目を潤ませていた。  その様子に、嘘をついているとは思えず、一守は銀杏の木から身を離し、青年に近づくと話を最後まで聞く姿勢を見せた。 ——けど君はなぜ自分をコマだと言う。君は人間だし、コマは何年も前に死——  言葉にしたと同時に、一守はハッとした顔で青年の顔を見た。 「そうです、僕も生まれ変わったんです。コマの人生を終え、今の姿に。ただ、あなたと違うところは、生まれ変わっても前世の記憶は失ってません」  ——なぜだ。流転すれば普通は前世の記憶は忘れる。なのに、なぜ君は覚えてるんだ。 「……この姿は仮の姿、僕はそう思ってます。その理由を今から話します」  青年が安心したように微笑むと、静かに言葉を紡ぎ出した。 「あなたが僕を救ってくれたのは二度。一度目はさっき話したことです。二度目はあなたが高校生の頃、僕を散歩に連れ出してくれた時でした。その日、僕は過ちを犯した。そのせいであなたが命を落としてしまったんです」  秋衛の命は、高校二年生で終えていた。  短い人生だった意味を、生きていた時の秋衛は当然知らない。死んだ後の魂は一守と融合し、秋衛の記憶を含んだ全てが蘇って事実が身体中に充満した。  ——あの日、コマは急に走り出したよな。  突然道路へ飛び出したコマは、秋衛の握っていたリードごと、強引に飛び出したのだ。 「そうです。そして僕がトラックにひかれそうになったのを、秋衛さんが庇ってくれました。そして代わりに……」  必死で耐えていたのか、言い終えないうちに青年の目から涙が溢れ、頬を濡らしている。  ——泣かなくていい。あれは……呪いだ。 「そんな言い方しないで下さいっ」  ——俺が死ぬことは決まってた。君が悲しむことはないんだ。  一守は手を差し伸ばし、青年の頭を撫でようとした。けれど、昔のように撫でてやることは出来ない。 「そ……れでも、僕のせいであなたは死んでしまった。なのに、僕はあなたの家族に優しくしてもらいました。最後まで……」  息子が死んで悲しんでくれた両親。コマも大好きなご飯を毎回皿に残し、散歩も行かずに庭で蹲っていた。全部知っている、一守の魂となってずっと見ていたから。  ——君は天寿を全うし、『人』として生まれ変わった——。そう言うことか……。 「はい、今この町に住んでいる大学生です」  ——そうか。よかったよ……。君がなぜ、コマの記憶を忘れてないか不思議だけど、俺のことは忘れて、この先の人生を楽しんで幸せになって欲しい……。  そう言い終えると一守は、再び空へ浮き上がろうとした。 「待ってください! まだ、僕の話は終わってません」  藍染の空の下、コマの声が静寂に響く。  ——君が気に病む事はない。俺は何度生まれ変わっても短命なんだ。  小さな子どもに言い聞かせるよう、青年を見つめて言った。 「知ってます。僕はその呪いを断ち切るためにあなたを探してたんです」  漆黒の瞳は雫を拭い去ると、清々しいまでの微笑みを一守に向けた。  ——断ち切る? どう言うことだ。君は俺の——一守の過去を知っているのか。 「はい。コマの体が消滅した後、僕はあなたの運命を知りました」  ——死んだ後に俺の過去を知った? そんなことありえない。神様でもあるまいし。  馬鹿げた話しだと苦笑し、一守は青年を射るように見た。  夜の風が青年——コマの前髪を駆け抜け、反射的に両目を固く閉じたコマがゆっくり瞼を開けると、再び唇を動かした。 「……僕は、元々神使だったんです」  ——神使? それってえっと、神様に使える動物だったっけ。え、じゃあ君は普通の犬じゃなかったのか?   瞳に翳を宿し、コマが静かに頷いている。 「僕は狛犬として、天人様達を守護するのが仕事でした。その中には稚児の天人もいて。神使の中でも未熟だった僕は、ついその子供との遊びに夢中になり、彼は人間界に落ちてしまったんです。僕は天人様から許しを貰い、人間界に来ました。あの子が人間になってしまう前に探して、天界に戻すために」  ——人間になってしまう? 「……はい。天界に住む者は、人間界の食べ物を一度でも口にすると、天界には戻れません。けれどあの子を探すうち、僕はお腹が空いて我慢出来ず、ゴミ箱を……漁ってしまった」  口惜しそうに言うコマは、一瞬、噛み締めた唇を解いて続きを話した。 「神使じゃなくなっても彷徨い続け、何年も何年もあの子の匂いを探しました。でも匂いは辿れず、小さな子供はもう生きていないのかもと考えました。もし生きていたとしても、人間界の食べ物を口にしていたら、彼は『人』になって、僕の知る匂いは薄れていく。途方に暮れていた時、犬に襲われ秋衛さんに救われたんです。なのに、僕は——」  流涙が言葉を遮り、公園の片隅でコマはしとどに頬を濡らしていた。  天界人や神使など言われても信じ難い……。とはいえ、自分もこうやって生き死にを繰り返し、俗に言う幽霊でこの世に留まっている。それでも、自分と彼の話しは次元が違い過ぎるように思える。 「秋衛さんからあの子の匂いがしたのに気づいた時、僕は運命だと思いました。あなたの側にいればあの子を見つけられる。僕はあなたの家で過ごしながら、彼の匂いを探してました。そして僕はとうとう見つけたんです、あの子を。嬉しくて走り出していました。あなたのことも忘れ、道路に飛び出した……」  木の幹に縋り付き、コマは再び泣き出した。 「生まれ変わってぼ……くは、夢の中であなたの過去を知り、あなたを苦しめている呪いのことも理解しました。だから僕は天界へ祈ったんです、秋衛さん——いえ、一守さんを見つけて欲しいと。そうすれば、あの子も必ず見つかる。人間になっていてもいい、あの子が幸せに生きていればと。その祈りはようやく聞き入れてもらえ、僕はあなたが留まっているこの街の大学に進学したんです」  目頭を手の甲で拭いながら、コマが泣きなが微笑んでくる。  ——本当に、君はコマなんだな……。  語られた内容はまだ半信半疑でも、彼の涙と笑顔は本物だと思えた。 「僕が人として生まれ変わったのは、あなたへ恩を返すことと、あの子を探すためです。だから僕の体を使って——」  ——ちょ、ちょっと待て。コマが探してるのは天界の子供だろ? なんで俺からその子の匂いがするんだ。  一守が言葉を遮った。 「分かりません……。でも確かにあなたからあの子の匂いがします。秋衛さんからも同じ匂いがしてた。きっと僕と出会う前に、あなたはあの子とどこかで会ってるんです」  コマの話を聞き終え、一守は遠い昔の話を思い出した。天界……稚児、そんな言葉を言っていた男の話を。思い出して、すぐその考えを払拭した。  あれはあの男の自分勝手な言い訳だ。自分の欲望を満たすための、デッチあげた話だ。  一守は呻吟の溜息を吐いた。  ——俺は実体がないし、次の流転もいつやってくるかわからない。どうすることもできないよ……。 「いえ、出来ます。呪詛はあなたが生まれ変わって器を持つと発露する。だから、もう既に存在している、別の器と——運命とすり替えればいいんです」  コマの言ってる意味が分からない。  眉間にシワを刻んでいると、 「すいません、僕の説明が分かりづらくて。でも呪いは僕が絶対に止めて見せます」  信じ難い話に一縷の望みを持ちたい。けれど、どう考えても不可能だ……。   この世界のどこかに、コマの言う天界なるものがあったとしても、自分の犯した罪が消え、呪縛が解かれる事は絶対にないのだ。
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