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 疎開先は小さな田舎町で、山や緑に囲まれた空気のいい場所だった。  家の側には町を守り続ける天瑠(あまる)神社が、青々したオガタマノキに包まれ、山の中腹にそびえ立っている。  境内を抜けると山肌が一望できる高さから見下ろすと、石段を下った先にある大きな鳥居は神社のシンボルで、湖のほとりに今日も神々しく輝いていた。  瑠璃紺の水面には、岸に寄せるさざ波が朱色を移しては揺らし、新月を見送った空からは、もうすぐ暁が姿を現そうとしている。  空が白んでくる時間は息を呑むほどの美しさで、神秘的な空気を吸い込むと、身体の隅々まで浄化されたように感じた。  暁光が徐々に姿を表し、鳥居の影を咲かせると、樹々の緑も濃く光を惜しみなく放つ。  生まれたての朝に行う、いつもの勤めをするため、雪藤(ゆきふじ)一守(かずもり)は手拭いとほうきを手に、天瑠神社にやって来た。  戦中に母の里に疎開して来たものの、本人は病気で呆気なく他界し、今は漆塗り職人の父親と神社の麓で一守はひっそりと暮らしている。  一守が十一歳を迎えてすぐ戦争は終わり、親子二人は母の親戚の好意と、神社の宮司の勧めでそのまま疎開先で暮らしていた。  ——一守を守ってくれたのは、母さんが天瑠の神様に頼んでくれたおかげだ。  父の口癖はいつしか、一守の足を自然と神社へ運ばせていた。  起きると顔を洗い、その足で掃除をするために神社へ行く。それが一守の日課だった。  いつものように神社へやって来た一守は、境内を突っ切り、百段ほどある石段の頂上から眼下に見える鳥居と湖を見下ろしていた。  顔を出しかけた太陽に照らされ、湖面がキラキラと輝いている。早朝の澄んだ空気が作る湖は、天空のように神秘的だった。  朝だけではなく、夕方にも別の美しさを見せてくれる。空一面に広がる橙色が湖全体を染め、初めて見た時は、山も樹々も燃えてるんじゃないかと言って、父親を笑わせた。  夜は漆黒の闇に包まれ、幼い一守を震え上がらせた。  月明かりがあれば山や神社の輪郭は見えても、新月の夜だと、深い瑠璃色が足元と水際の境を掻き消し、深潭へと引きずられそうな恐怖を知らしめてくる。  天に住む人が湖から人間界を見下ろし、悪いことをしてないか見張っているのだと、父親によく脅されたものだ。  一守は神の国にでも踏み入れるかのよう、湖へ降りる階段の手前で立ち止まると、東の空に手を合わせて静かに目を閉じた。 「神様、今日もいい子で過ごします」  艶やかな黒髪が日輪を浴び、黄金が一守の体全体を縁取っていく。ご利益を全身で受け取ると、一守はゆっくりと眸を開けた。  境内に戻ろうとした時、小脇に挟んでいた手拭いがはらりと落ちてしまい、山から吹く風に攫われると、そのまま鳥居の傍らまで舞い落ちてしまった。 「あ、せっかく洗ってあるのに」  慌てて石段を駆け下りると、一守は鳥居の手前で急ブレーキをかけた。  普段はここまで降りてくることがないため、間近で見る鳥居の壮大さに畏怖を感じる。 「神様、ちょっとだけごめんなさい」  手拭いを拾うには、湖に面して立つ鳥居に尻を向けることになる。一守はそのことを先に謝罪して手拭いを拾うと、湖畔のところで何かが倒れているのを遠目に捉えた。  アレなんだ、動物? あっ、猪だったらどうしよう……。  山深くに行くとデカい動物に出くわすぞと、父親に言われていたことを思い出し、一守の心に一瞬緊張が走る。けれど好奇心には抗えず、一守は恐る恐るそれに近寄った。  土の上を慎重に進むと、布のようなものを纏っているのが分かり、湖面から吹く風が髪の毛らしきものをなびかせているのが見えた。 「ひ、ひと! 人だっ」  横たわっていたモノが人間だとわかり、一守は急いで側まで駆け寄った。  閉じられたままの双眸は開く気配がなく、生きてるのか死んでいるのかも分からない。  警戒しながら見下ろすと、体は規則正しく上下に動いていた。一守はゆっくりと近付き、背を向けた格好で横たわる、自分より小さな体にそっと触れてみる。  息してる。あ、あたた……かい。 「そうだ、ケガ。どっかケガしてないかっ」  半ズボンの膝を地面につけ、今度は両手で触れてみる。  揺さぶった体はほっそりと頼りなげで、半円を描く毛先が揺れる様子は、絵本で見た外国の天使のようだった。  一守は大丈夫かと呼びかけ、瞼が開かれるよう刺激を与えてみる。すると、微かな声が漏れ、ゴロンと仰向けに姿勢を変えた。そのせいで着物の袖が下敷きになり、布が引っ張られて小さな体の胸元がはだけてしまった。露わになった白い肩が寒そうに見え、一守は着物を戻そうと体を持ち上げてみる。うつ伏せに向きを変えようとした時、小さな右の肩甲骨に傷のような赤いものを見つけた。  怪我でもしているのではと焦り、そこに触れてみると、それは傷ではなく、痣のようなものだと分かり一守はホッとした。  着物を元に戻し、仰向けにすると、閉じられている瞼がピクリと反応を見せる。  くるんと丸まった前髪を指でかき分けると、丸い額が現れ、愛くるしい顔が寝息をたてていた。眠っていただけかと安堵した一守は、誘われるよう頬に触れ、柔肌を突いてみる。 「なあ、おい。おーい」  中々目を覚まさないので、今度はピタピタと両手で頬を包むと、眉をキュッと寄せる仕草をした幼い寝顔は、瞼をゆっくりと開いた。  とろんと覚醒した瞳は湖のように青く、新雪のような白い肌と相まって、子供ながらに美しいと思った。焦茶の髪は朝日を浴びて、ふわふわした綿飴のようだ。  息を呑むような美しい幼児は、頭をもたげると、朦朧とした表情で辺りを見渡している。  青い硝子玉が上下左右にくるくる動き、瞳に映るものを珍しそうに眺めていた。  彷徨っていた視線と一守の目が合った。  向けられた眼差しに心臓が跳ねた一守は、慌てて声をかけようとしたが、幼い顔は徐々に崩れだし、膨れた瞳から雫が溢れ出した。 「お、おい。どうした、どっか痛いのか。それとも腹減ってんのか」  湖面が揺れる程泣きじゃくる声にオロオロしながら、一守は持っていた手拭いでそっと涙を拭ってやった。 「泣くなよ。どっか痛いなら俺がみてやる。腹減ってるなら家に帰って芋を焼いてやる。だから泣きやむんだ。な」  雫を拭き取りながら、一守はもう一方の手で頭を撫でてやった。すると次第に涙は消え、安堵した一守は、今度は小さな子供が一人で、こんな場所で倒れていたのが気になった。 「お前、どっから来たんだ。父ちゃんや母ちゃんはどこだ。名前は何て言うんだ」  尋ねてみても、子供は手拭いを握りしめたまま泣きじゃくっている。困り果てた一守がふと石段の方を見上げると、父親の姿を見つけ、状況を伝えようと大きく手を振った。  父親は一守の姿を見つけると、石段を駆け下り足早に側までやって来た。 「一守、遅いから心配したぞ。鳥居まで降りてるなんて珍しい——誰だ、その子」  父親が半べそをかく子供を見て言った。 「父ちゃん、この子迷子みたい」 「迷子? こんな場所で……しかもこんな早朝にか」 「でね、でね、この子自分の名前も言わないんだ。目の色が俺と違うから言葉が分かんないのかなぁ。外国の……そうだ。アメリカ人の子供じゃない?」 「そうだな。目ん玉がこんなに青けりゃ混血児かもしれんな。髪の毛も茶色っぽいし」 「こんけつじ?」  幼い背中を撫でてやりながら、一守が父親の顔を不思議そうに見上げた。 「混血児ってのはな、進駐軍の兵士と日本の女との間に生まれた子供ってことだ」 「え、じゃ、じゃあこの子のお父さんって兵隊さん?」  一際声高になった一守の声で青い目が瞠目すると、体を萎縮させ、ピクンと震えた。 「ごめん、ごめん、驚かせて。よしよし、大丈夫だからな、俺と父ちゃんはお前に怖いことなんかしないから」  また泣き出さないよう笑いかけ、意識して静かに言うと、一守の言葉を理解したのか、青い目が瞬き、儚げな微笑みを返してくれた。その表情に目を奪われた一守は目を輝かせ、父親のズボンを掴んだ。 「父ちゃん、この子家に連れて帰っていいか」 「え、家にか」 「うん。お腹も空いてると思うし、このままほっとけないよ。親が迎えに来るまで家に置いてやってもいいでしょ」 「いや、しかし。ウチは——」  口籠る父親の心理を察した一守は、その場にスクッと立ち上がると、手のひらをこぶしに変え、自身の胸をドンっと叩いて見せた。 「大丈夫だ、父ちゃん。俺がこいつの食べる分は働くし、足りなかったら俺の分も分けてやる。肥料の草も刈るし、道に落ちている馬や牛の糞も拾う仕事だってやる。だから父ちゃん頼むよ、俺が絶対面倒見るから」  必死に懇願する一守を、困惑した顔の父親が見下ろしていた。  自分の家は裕福ではない。だから父親を困らせているのは重々わかっている。それでも庇護欲を掻き立てられた一守は、膝を折り曲げると、額を地面に擦り付けようとした。 「一守っ! 男がそんなこと簡単にするんじゃない」  土下座しようとした体を、父親に持ち上げられ、腕を掴まれた。それでも一守は願いを聞き届けてもらおうと、必死で懇願した。 「父ちゃん、お願いだよ。この子が可哀想だ……ひとりぼっちなんだよ」  口にした自分の言葉に泣きそうになる。泣き落としなんて男がするもんじゃないのに。  瞬きもせず父親を見続けていると、大きな溜息が父親から溢れた。 「わかった。でも、ちゃんと面倒見ろよ。手伝いもして貰うし、学校の勉強もサボるな。全部手抜きはなしだ。できるか?」  鼓舞するような父親の顔に一守は満面の笑顔を返し、「約束するっ」と、力強く言った。  父親が二人の視線に合わせるよう屈むと、小さな二つの頭に手をやり、そっと撫でた。 「一個だけ約束だ。この子の家族が分かったら、ちゃんと親元へ帰してやる。いくら離れたくなくってもだぞ」 「うんっ! 分かってる」  自信満々に返事をすると、一守は青い目を覗き込み、自分より小さな手を握り締めた。 「今日からお前は俺の家族だ。どんな時でも俺が守ってやるし、助けてやる。だから安心して俺の側にいろ。なっ」  力強く言う一守を、泣き腫らした青い目がジッと見返してくる。かけられた言葉の意味が分からなくても、伝わるものはあったのか、潤んだ目は緩やかな弧を描いた。
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