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「丞一ぃ、オレお痒いところがありますぅ」 「どこだ」 「ワハハ、嘘ぴょん」 「……」  ユニットバスの浴槽の中、マナトのおかしそうな笑い声があちこちに反響する。丞一は黙ってゴム手袋を着けた手でマナトの髪に泡立てた染髪剤を塗っていく。  普段から使っていた市販のブリーチの方がよほど痛いのもあり、ホイップタイプのカラー剤で頭を撫でられるとマナトはすっかり美容室気分で丞一にいろいろちょっかいを出していた。  ――安いビジネスホテルの一室は、それでも二人にとっては露骨で安い装飾がなされた『ヘドニズム』の接客ルームよりも随分立派に思えた。  昼少し前、丞一が想定していた時間よりも早かったが、久しぶりに外を出歩くマナトの体力のこともあり、服屋やコンビニで必要なものを買ったあと、駅から少し離れたところにあるホテルへ入ることにした。  マナトは衣類量販店でさらに高揚し、丞一が会計を済ませたあともいろいろな店へ入りたがっていたが、その割には人混みに揉まれた早朝よりも顔色が悪いことに丞一は気がついた。不服そうに唇を突き出す彼を宥める気持ちで、丞一はこう告げた。 『また今度な』  マナトは悔しそうではありつつも納得し今に至るが、その「次」につなげるのは自分の行動次第でもある。今日は準備に留めて、本格的に行動するのは明日になるだろう。丞一は改めて気を引き締める。  ホテルという公共の場で髪を染めるなどご法度なのを丞一は百も承知だったが、規律よりも今の状況打破の思いの方がずっと勝っていた。  なるべく浴槽や壁に跳ねないように気をつけつつ、首輪も汚さないようにしているが、マナトがしょっちゅう身じろぎをするのでなかなか思うように進まない。 「あともう少しで塗り終わるからじっとしてろ」 「別にちょっとくらいムラあったって誰も気にしねぇよ」 「あからさまにムラがある方が変だろ」  そう言い返しつつ、本音では丞一も早く終わらせたかった。今のマナトは上半身裸で、室内とはいえ肌寒い状態のままでいさせたくない。マナトと長いこといたため我慢と何度も同じことを言うのに慣れた丞一は決して怒らず、丁寧に塗っていく。  やっとの思いでホイップされたカラー剤を全体に行き渡らせ、丞一はゴム手袋を外してゴミ袋代わりのビニールに突っ込む。 「ここから十五分くらい待つぞ。寒いだろ? 先に身体洗うなり風呂入るなりしとけ」  スマートフォンでタイマーをセットし、近くの洗面台に置く。気をつけた甲斐もあって汚れはどこにも跳ねてなかった。そこを確認し安堵したところで、丞一は出て行こうとした。  しかしマナトに服の裾をガシッと掴まれ、丞一は危うく転倒しかけた。なんとか姿勢を戻すと思わず少し大きな声を出す。 「なんだよ、あぶねぇだろ!」 「丞一、一緒に入ろーぜ」 「はぁ!?」 「いいじゃん、オレのハダカなんて見慣れたもんだろ」  ケロッと言ってのけるマナトだが、あくまで店で見ていたときは「ボーイ」の立場で手当てなどを行っていた。今は状況が違うのを彼は分かって言っているのだろうか。丞一は気恥ずかしくて顔を逸らす。 「違っ……二人で入るには狭いだろ、あとお前髪染めてる最中――」 「だいじょーぶ、汚れないように気をつけるから! それに二人で入った方がジタン? じゃん、アハ」  どこで「時短」なんて言葉を覚えてきたのか。口調は調子に乗っているときのものだが、裾を握る手は意外なほど力が籠っている。  先ほどいろいろな店に入りたいという要求を却下されたからだろうか、恐らくマナトが簡単には食い下がらない気配を丞一は感じた。  帽子を買ってくれた恩もある。ここはひとつマナトの望みを叶えてやるつもりで、丞一は溜め息をついて、ただ居心地の悪さは拭えなくてこめかみを掻く。 「分かったけど、汚れにはマジで気をつけろよ? 罰金とかは払いたくねぇし」 「やったー!」  マナトは両手をあげて大喜びすると、まず自分の履いているズボンではなく、迷いもなく丞一のシャツに手をかける。何をしでかすのかとうろたえて、丞一は反射でマナトの手を押さえた。 「な、何すんだよ!」 「いやぁ、丞一のハダカは見たことねぇなと思って楽しみなんだよね」 「だからってなんでマナトが脱がすんだよ」 「そこは……男の楽しみってやつさ」 「ワケが分からん……てか早速動き回るな、じっとしてろ」  カラー剤が跳ねてないか今一度ハラハラして確認した丞一がマナトに釘を刺す。頭は気軽に触れないし動けないし、ふざけた調子で言ったもののじつは本気で脱がしたかった丞一からはまたしても却下が出されてしまい、マナトは拗ねて暇を持て余す。  脱がせなかった代わりに、なんだかばつの悪そうな顔で服を脱ぎ始めた丞一をじっと見ることにした。同じ男から見ても魅力的な丞一の肉体。それを間近で見られるのだ、マナトの胸には不純な欲望が湧いて心臓を叩く。  まずは上半身からだった。スウェット、肌着、そして待ちに待った裸が露わになる。しっかりとした肩周りに、厚みのある胸板、少し割れた腹筋は自分にはないデコボコが浮いている。とにかく薄く白い自分の腹を思わずさすりながら、マナトは純粋に感心して凝視した。 「ほーほー、これほどのモノをお持ちとは」 「あんまジロジロ見るなよ……」 「いつ鍛えてんの? ジムとか通ってたの?」 「別に。風呂入る前に筋トレしてたらこうなっただけ」  そっけなく言い切るが、その努力の積み重ねができるのも彼らしい。酒と煙草が大好きな駒井はマナトとはまた違った不健康さを身体中から滲ませていたのを思い出す。  この努力をキャストのために続けられるのが丞一なのだ。改めて敬意を覚えるのと同時に、過去の傷跡や、つい最近も客に強く握られて痣のできた手首と丞一の身体を見比べて、マナトは少しおかしくなる。 「はは、ヤバいよね」 「何が?」 「オレの身体。マジでこんなんじゃ商売にならんわな」  仕事中に部屋で客の裸を見るのと、今こうして丞一の身体を目の当たりにするのとではマナトにとって全く異なる感覚を呼び起こす。「これ」を好んで抱く客の神経も理解できないし、丞一もよく気にせず触れてくれたものだ。  彼が丁寧にケアをし続けてくれたおかげで、『ヘドニズム』に来てからつけられて残った傷跡は少ない。しかし過去に何かがあってついたものは消えないし、極めつけはやはり左目だ。触ると傷の部分だけがわずかに隆起している。  経緯は一生思い出せない方が間違いなく幸せだが、そしてこうして丞一の、意志の強い二つの瞳に見つめられると、両目で見つめ返したらどう見えるのかがやはり気になった。
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