くっついて、離れて、また

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 晴れた砂場、僕は盛大に水を浴びて、笑われながら濡れた。  水の入ったバケツをぐるぐる回し、頭から足元まで何度も何度も往復させる。その度、友達は歓声を上げた。僕はどんどん気持ちが昂って更に回す。気持ちとは裏腹に腕は疲れ、頭上に来たバケツは勢いが緩まり、赤白帽の上からバシャッと水がかかる。友達はからかうように笑う。僕も一緒になって笑った。先生もやってきて、幼稚園に置いてある着替えを持ってきてくれた。友達は部屋に戻り、先生は着替えを取りに行った、この瞬間。僕は一人で、泣いた。帽子から垂れる水に混じったものを涙だとわかるのは、僕しかいない。  先日、遠心力について説明していたテレビを、父の膝の上で見ていた。幼稚園でやったら人気者になるんじゃないか? という父の言葉を真に受けた。人気者になりたかった。そんな必要なんてどこにも無いのに。  幼稚園での出来事はもはや誰も覚えていないだろう。それでも僕は、二十歳になった今でも思い出してしまう。「強がりに隠した臆病」、そんな言葉が浮かんだ。僕の記憶は小学生に戻る。記憶の袋は穴が空いているようで、どんどん漏れ出している。  隣の組のあの子は、僕の初恋の人だった。  校庭のジャングルジムの、白い吊り橋が怖く、渡れなかった時。鬼ごっこの時だって吊り橋を渡らないように、追い、逃げてきた。それが上手くいかない時が来た。友達は向こう側を走って、追い付きたくて、でも足は震えて、バレたくなくて。 「ねぇ、一緒に行こ!」彼女はそう言って、有無を言わさず、僕の手を取り、吊り橋を渡った。 「ほら、行けたでしょ」吊り橋はこんなに短かったんだ、と思う間もなく、僕は彼女を見る。握っていた手を離して、じゃあね、と去る彼女の三つ編みを、僕はしばらく覚えていた。  彼女にとって意気地無しへの手助けなんて、覚えておくほどの価値はないだろう。しかし僕にとっては、大事なものだった。隠せない弱さと、そのおかげで出会えた人。  そんな人と再会した成人式。彼女が参加するから行った飲み会。中学以来の彼女は、当時の面影を残しつつも、一段と綺麗になっていた。睫毛から指先まで、香りと色を纏う彼女は、不慣れな僕をより一層、耽美な迷宮へと誘った。僕は偶然を装い、故意に彼女の隣に並ぶ。カシスオレンジのジョッキを持つ、その長く細く、絡め取るような指は、頭も心も酔わせた。お酒を飲んでいないのに。  各々、思い出話を肴にする。彼女の過去が気になる僕は、他の人が話している時もさりげなく彼女に話を振った。高校で恋人が出来たが半年で別れ、それ以降恋人はいない、と彼女は言う。寂しく、悔しいが、それと同時に嬉しくもある。素性の知らない相手を羨ましくも思い、独り身の現在を知ることができ、自分にもまだ可能性があるのではないか、と叶わぬ期待をしてしまう。 「え」と声を上げたのは彼女だった。どうしたの? と僕らは聞く。 「親がちょっと用事出来ちゃったみたいで、迎えに来れないらしい」彼女は眉を下げ、焦る。 「僕が送ろっか?」咄嗟にそんな言葉が出たことに、我ながら驚いた。彼女も一瞬、時間が止まったように固まった。言ってはいけないことだったか、と冷や汗が噴き出る。 「良いの? ありがと!」冷や汗を吹き飛ばすように、彼女は顔をころりと変え、僕に笑いかけてくれる。小さな一声で、大きな報酬を得た。 「ありがとね、わざわざ送ってもらっちゃって」ライトが流れる国道、僕らは二人で駆けていく。車内は昔話で満たされる。 「あの信号を、左ね」彼女は助手席から案内する。学生時代は行ったことのない、憧れの人の家。当時の夢を代わりに叶えた。 ハンドルを左に切る。速度を落としたが、体は右へ少し傾く。彼女も傾き、運転席に近づく。良い香りが、ふっと鼻を撫でた。 「もうすぐで着くよ」聞きたくなかった言葉。 「今日は楽しかったよ」気持ちは彼女の方を向いている。 「また、会いたいね」噛み締めるように、彼女は言う。 「そうだね」 「来週の土曜なんてどう? 忙しい?」思わず速度を早めてしまいそうになる。彼女の方から誘ってくれた。予定を一切確認していないが、恐らくその日は空いている。いや、空けてみせる。 「空いてると思うよ」興奮を押し殺す。 「そういえば連絡先って交換してないよね? 後でしよっか」こんな会話をもう一度続けられるなんて。心臓が熱を上げる。  また会えた。また会える。彼とのさっきの会話を思い出す。多少強引な誘いをしてしまったが、相手のスケジュールが空いていて良かった。そして夜ご飯に行って良かった。そのうえ席も隣で、帰りも送ってもらえて僥倖だ。彼が反応してくれるか一か八かだったが、嘘をついて良かった。親に用事なんて無い。  高校でも恋愛をしてきたが、彼の面影を探してしまう自分がいた。もっとも初恋の相手なのだから、仕方がない。だからこそ、ジャングルジムの吊り橋で、今日よりも思い切った行動をしたのだ。彼が覚えてくれているかはわからないが。  幼稚園の時、泣く姿を見て、私は彼を好きになった。理由はわからない。隠された素顔が見えたからかも知れない。それに水に濡れていただけで、涙が出ていたかどうかもわからない。それでもずっと好きだった。話すほど彼の優しさに触れ、それをもっと感じたかった。成人式で会ってその思いは再燃した。  来週が楽しみだ。早速メッセージを送ろう。
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