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本当のことをいえばいいんだよ
「嘘、ついてもいいんだよ」
頼んだアイスコーヒーの氷が、カランとなった。暑い季節であろうと、寒い季節であろうと、みずえは冷えた飲み物をこのんだ。小さい氷をカリッと噛み砕いたみずえは、おれにむかっていたずらっ子のようにほほえんだ。
「だって今日はエイプリルフールなんだし」
「あのなあ。お前、何がいいたいんだよ。急にそんなこといいだして」
みずえはストローを使わずに、グラスからちょくせつ、アイスコーヒーを飲みだした。小さな氷がみずえの口に入っていく。トン、とグラスをコースターの上に置けば、みずえの口からシャクシャクと氷が砕かれていく音がする。
カランカラン、と喫茶店の来店ベルがなった。周りの客は、楽しそうに談笑している。おれは、もうほとんどないホットココアの最後の一口をごくりと飲み干した。
「あたしは、提案してるだけだよ。たまには、嘘をついたっていいんじゃないって」
みずえが何をいいたいのかは、わかりきっていた。みずえにまっすぐ見つめられ、おれの心臓がじくじくと痺れていく。
そうだ。こいつは、おれが浮気したことをわかっているんだ。だから、こんなことをいう。遠回しに、今のうちにいいわけをいっておけば、まだ見逃してやるといっているのだ。うまい嘘をつくことができたら、許してやらなくもない、と。
主導権は、みずえにあった。おれは、みずえに捨てられたくない。みずえは、おれよりもいい給料をもらっているし、実家も裕福だ。蓄えもたんまりとある。おれが浮気したのが、マッチングアプリの女だとわかっているのだ。あいつは顔はかわいかったが、中身のない薄っぺらな女だった。やはり、おれには、みずえしかいない。
「エイプリルフールなんだもん。嘘をついたって、許してもらえるよ」
「そ、そっか」
嘘をついて許してもらえるんなら、どんな嘘だってついてやる。
だが、どんな嘘をつけばいいんだ。
みずえは、おれが浮気したことを怒っている。つまり、なぜ浮気したのかという理由をいえばいいんだ。海よりも深い、いかんともしがたい理由により、どうしても浮気しなければならなかったということをいえば、うまい嘘になるはずだ。
「……実は最近、おれの父親が……霊に取り憑かれたんだ。藤原兼家という昔の人間の霊なんだけどさ。知ってる?」
「さあ。歴史の授業で出てきたっけ、その人。覚えてないわ」
「そうか。藤原兼家ってさ、自分に子どもができたら、とにかく浮気するようなひどいやつだったんだよ」
「えっ、最悪じゃん」
みずえに最悪といわれ、一瞬ひるむ。おれにいわれたような気がしたからだ。それでも、おじけずくわけにはいかない。おれの嘘ははじまってしまったのだ。このまま、いくしかない。
「そうそう。だからさ、おれの父親はやばいと思ったらしいんだよ。こんなやつに取り憑かれたら、自分は何をしてしまうかわからない。もしかしたら、母親を傷つけるようなことをしてしまうかもしれないって考えたんだ。そうなったらいてもたってもいられなくなってさ、近所の寺にお祓いにいったらしいよ。そこは除霊では有名な寺だったらしくて、ていねいなお祓いで見事、そいつの霊は父親からいなくなったらしい。だけど……その後、やばいことが起きたんだ」
「どうなったの?」
「そいつ、おれに取り憑いてたらしいんだよ。もうお寺で祓ってもらったから、問題はないんだけど、めちゃくちゃビビった。なんだか最近、記憶があやふやなときがあったんだよな。おれが何かしてしまっていたら、もしかしたらそいつのせいかも。ごめんな」
「ふうん」
頬杖をついて、ストローで氷をかきまわしている、みずえ。
どうだろう。なかなか、リアリティのある嘘がつけたんじゃないか? 自己採点としては、満点の嘘なんだが。
ちょっとホラーチックになってしまったけれも、みずえが怪談とか都市伝説系の動画をたまに見ているのを知っている。だから、この嘘だってイケるはずだ。
すると案の定、みずえは「ふふっ」とふきだした。
「あはは。おもしろい。それがあなたの、エイプリルフールの嘘?」
「う、うん。まあ」
「へーえ。そんな嘘、ぱっと思いつくなんて、すごいじゃん」
感心したようにいう、みずえ。おれは久しぶりにみずえに褒められたことに、ドキッとしてしまう。やっぱり、みずえは俺に嘘をついてほしいんだ。浮気したことを帳消しにしてしまうほどの、気持ちのいい嘘を。
だったら、いくらだってついてやる。
おれは、カラになったココアのカップの代わりに水のグラスで口を湿らせ、これからつく嘘を頭でこねくりはじめた。
「みずえ。おれ、今までお前を怒らせてばっかりだったよな。おれ、ぜんぜん子どもだったよ。さっきもさ、みずえを乗せて運転しているのに、アクセルの踏みかたは雑だったし、レストランでの食事中は音を立ててしまってた。食事を運んでくれた店員への気づかいも、みずえみたいにはできないよ。それなのに、おれはお前のそういう部分をずっとわずらわしいだなんて考えてしまってた」
おれは考えた。必死に頭を回転させ、みずえのために、もっと素晴らしい嘘をつかなくてはいけないと思った。
そうすれば、みずえはおれのことを認めてくれる。やっと、かっこいいおとなの男だっていってくれるはずなんだ。
みずえの真っ白な歯が、シャクッと氷を砕いた。みずえは氷を目の前にすると、バリバリと食べはじめてしまう。以前、その理由を聞いたら、鉄分が不足しているからだと答えてくれた。鉄が不足すると自律神経が乱れ、体温を調節する機能がおかしくなる場合があるらしい。すると、体温で熱くなった口の中を冷やすため、氷を食べたくなるのだという。
貧血の原因は、ストレスではないかといっていた。おれよりも、長い時間働いているからだと思う。でも、おれはみずえに頼るしかない。みずえしか、おれを支えてくれる人はいないんだ。
みずえのために、おれは最高の嘘をつく。
「このあいだ、お前にないしょでさ、買ったんだよ! ベンツのゲレンデヴァーゲン! どうだ、すごいだろ。みずえ、あこがれてるっていってたもんな」
「うん、すごい。どうやって買ったの? 中古でも一千万越えだよ」
「そ、そんなの気にするなよ。どうだっていいだろ」
嘘なんだから、そこは追求する必要ないだろ。要は、お前に気持ちのいい嘘をついたと思われればいいんだから。
「あなたも、すきだったんだ。ベンツ」
「う、うん。だけどさ、おれはお前のために買ったんだよ。お前がすきだっていうから」
「そうなんだ」
みずえの長い髪が、さらりと流れ、今どんな表情をしているのか見えなくなってしまう。おれは、なんとか場を繋げようと必死にいいわけをするように、しゃべり続けた。
「そうだよ。だからさ、それに乗ってまたどっか行こう。そのときは、アクセル踏みすぎないようにするし、食事を持って来た店員にはありがとうっていうし、食べてるときは音を立てないようにするからさ」
「そんなに気を使わなくてもいいのに」
「おれが……嘘をつけば、みずえは許してくれるんだろ……?」
くちびるが、ひきつる。今、どういう顔をすればいいのか、わからない。
「嘘、なんだね」
「そ、そうだよ。でも、出かけようっていったのは嘘なんかじゃない。おれの、本心だ。おれには、みずえだけなんだよ。だから、みずえがおれにこうしてほしいっていったことは、気をつけたい。これからもずっといっしょにいてほしいから」
「あはは……ばかだなあ。本当」
泣き笑うようにして、みずえはからだをそらせた。笑っている。
これは、許してくれたのか。
「なっ、なんだよ。おれは、本当にみずえのことを……」
「あなたのそれはね、本心じゃないの。いわされてんの」
突然、みずえが何かをいった。おれは理解ができず、わずかのあいだ固まってしまった。
おれが、いわされている?
「違う。嘘じゃない。霊だとか、ベンツなんてのは、たしかに作り話の嘘だよ。でも、みずえに向けた気持ちだけは、おれの本心だ」
「それは、あなたの本心じゃないんだってば」
「どうしてそんなことをいうんだよ。おれは、たしかに浮気をしたよ! マッチングアプリで知り合った子だ。でも、会って気づいたよ。やっぱり、おれにはみずえしかいないんだって。みずえだけが、おれのことを考えてくれるし、おれのことを褒めてくれるし、おれのために行動してくれる。だから、みずえといっしょに生きていこうって思ったんだ。後悔したよ、浮気なんてしたことを。みずえに、申し訳ないことをしたよ。おれが、悪かったよ。こんなおれ、お前は許してくれないと思った。でも、みずえはチャンスをくれたんだよな。おれが、このエイプリルフールに、お前が気持ちよくなるような嘘をつければ、浮気したことを許してくれるんだよな」
するとみずえは、がっくりと肩を落とした。目を遠くに向け、心ここにあらずといった感じに脱力している。
いったい、どうしたんだ。
おれは何か、間違ったことをいったのか。
「この世界はね、作り物なの」
「……は?」
「ここはね、偽りの世界なの。あたしたちはね、作り物なんだよ。創作されたお話の登場人物なんだよ」
こんなふうに、しゃべるみずえを初めてみた。おれの鼓膜に、さっぱり声が届いてくれない。みずえの声は、いつだってきれいで、優しくて、透明で、かわいくて。
なのに、この一瞬で、目の前にいるみずえが、まったく知らない人のように思える。それほどに、みずえのいったことは、おれを混乱させた。
「……みずえ? お前、頭でもおかしくなったのか」
「ほら、こうしてあたしたちが会話してるのもさ、物語の神さまが考えたセリフをいわされてるだけなんだよ。だから、これはあたしの本心じゃないの。そして、あなたの言葉も、ただのセリフ。あなたの本心じゃないの」
「みずえ……本当にどうしたんだよ。気持ち悪いよ、お前」
こんなこと、ふだんのおれならいわない。なぜ、いってしまったのだろう。
そうだ。みずえがおかしなことをいうから、仕方がないんだ。おれは、悪くない。
「そうだよね。この物語の登場人物でこのことに気づいたのは、あたしだけ。気づかないキャラクターには、どうやったって理解のできないことだもん。そりゃ、気持ち悪いこといってるって思うよね」
みずえのほうが、おかしなことをいっているに決まっているのに、なぜだかおれは、ばかにされたような気分になった。何とかいってやりたくなって、一歩前に進み出る。
おびえさせてしまうだろうか、と思ったが、みずえはひるまなかった。
みずえがまっすぐに、おれのほうを見てあげていった。
「それでも……あたしのいっていることが、偽りのない事実だってことを、あたしだけがわかってる」
溶けはじめた氷が、グラスのなかで、カランと鳴った。
それからおれは、みずえに会うことはなくなった。今、みずえがどこで何をしているのかはわからない。
だが、おれはみずえと別れて、よかったと思う。
あんな笑えない嘘をいうやつとは、付きあっていけないだろう。あいつはちょっと、おかしくなっていたのかもしれないな。
みずえと別れてから、バイト先で新しい女の子と付きあいはじめた。明後日、初めてのデートだ。通販アプリで、着ていく服でもチェックするか。
おれは、スマホを取り出し、タップした。
「さて。次はどの子とマッチングしようかな」
待て。
おれはこんなこと、思ってない。
口が勝手に動く。手が、勝手にマッチングアプリを開いてしまう。
嘘だ。なんなんだ、これは。誰が、おれにこんなことをいわせているんだ。
まさか……!
おわり
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