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すぐ右手に庭が見える。
ふと、どこからかバラの香りがしてきた。
だけど、庭先には茫々に草が伸びて、名もなき可憐な花たちが蔓延っているだけだ。お屋敷の名前の由来となったバラは一本も見当たらず、取り残されたように静まり返った敷地には、寂寥よりも悲哀の色を濃く感じた。
そんな感傷に囚われたせいだろうか。
初めは気のせいだと思っていたバラの香りが、だんだん濃くなってきた。香水のようになだれ込む強い刺激は一瞬、僕の思考力を奪った。波間に揺蕩うように体の力を抜くと、ふわっと誰かに抱きしめられた感触が伝わってきた。金縛りとは違って心地よく自由を奪われるような感じだ。
『あなたを待ってたわ』
耳元で誰かの声が囁いた。
はっとして辺りを見回したが、誰もいない。そよぐ風に乗って、雲雀の囀りが遠くから聞こえてくるだけだ。
『エイプリルフールって久しぶりに会った人と、心のうちを話し合う日でもあるらしいよ』
出がけにオーナーが言っていたことを思い出した。
『そうなんですか』
『たとえ行き違いや言葉に出来なかった想いがあったとしても、今日なら許されそうな気がするね』
でも この街に
僕を待ってる人はいないはずだ
気を取り直して少しドキドキしながら玄関の前に立った。呼び鈴を鳴らすと遠くの方でこだまが応え、ややあって扉がゆっくり開かれた。お手伝いさんらしいひっつめ髪の女性が頭を下げた。
「花屋です。バラをお届けに参りました」
「お待ちしておりました。どうぞ」
促されて家の中へ踏み込んだ。静かに時を止めたような玄関ホールを過ぎて長い廊下を曲がり、大広間に出た。窓際に薔薇色のドレスを纏った女性が、こちらを背にして佇んでいた。射し込んだ光の加減で、亜麻色の髪が透き通るようだった。
「リラお嬢様。花屋さんが見えましたよ」
彼女がゆっくり振り向いた。色白の肌とエメラルドの瞳にドレスと同じ色の唇。鼻筋の通った美貌に僕は息をのみ、花束を握る手に思わず力を込めた。
「っ…」
鋭い痛みが指を刺して、自分の迂闊さに呆れた。指先を舐めると、口の中に血の味が広がった。間抜けな姿を晒してしまって顔から火が出る思いだった。
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