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つい、と彼女が近づいてきて僕の手を取った。
その左肩にかかった髪が、一房ほど短くなっているのに違和感を覚えたが、上目遣いで僕の指を口に含む彼女から目を離せなくなった。二十歳の僕と見た目はそう変わらないのに、ひどく妖艶な仕草だった。
「あの…、もう、大丈夫ですから」
やっとのことで僕がおずおずと申し出ると、彼女は唇を離して微笑んだ。血はもう出ていなかった。
「すみません、とんだ粗相を。こちらがご注文のバラです」
「ありがとう」
彼女は少しだけ頬を染めて、僕からバラの花束を受け取った。それから、口づけるように目を瞑って顔を寄せた。長い睫毛を伏せた色白の肌に、赤のグラデーションで束ねた花がとてもよく映えている。愛おしそうに香りを慈しむ姿に、僕は言葉も忘れて見惚れていた。
やがて彼女が目を開けた。
「新しい配達の方ね」
「ええ。先月来たばかりです」
「私のこと、何か聞いてる?」
街の噂やオーナーの言葉がよみがえったが、それを口にするのはためらわれた。
「いいえ。ただ、あなたにバラを届けるのは大切なことだと言われました」
僕の言葉に彼女が顔を綻ばせた。
「いい匂い。アリッサのマフィンね」
「はい。今日はレモンを使ってますって」
「お茶を淹れるわ。こちらへどうぞ」
ソファの背もたれには、見事な薔薇の刺繍が施されていた。彼女は予め用意した花器に花を活けると、僕の向かい側に座って紅茶の準備を始めた。
茶器の擦れる音や、茶の葉を掬うさらさらという音さえも響きそうなくらい、静謐な時間だった。ポットにお湯を注いだあとにカバーを掛けて、彼女は砂時計の上下を返した。ガラスの中で真砂が流れていくと、悠久の時が刻まれていくようだ。
やがてベルガモットの香りが、僕のところまで辿り着いた。
「誰かとこうして話すのは久しぶりなの」
湯気の立つ栗色の液体を二つのカップに注ぎながら、彼女は口火を切った。僕の前に片方を置くと、自分のものにそっと口をつける。
「熱いのは苦手かしら」
「いえ。それほどでも」
僕もカップを持ち上げてひとくち啜った。春の空気よりも冷えた室内では、淹れたての紅茶の熱さがちょうどいいように感じた。
「アールグレイですね。何だか懐かしい香りだ」
「あなた、名前は」
「エディです。リラ様」
「リラでいいわ。私の昔の話を聞いてくださる?」
「ええ」
「ありがとう。まず初めにね、私は人間ではないの」
「えっ」
突然の告白に僕はたじろいだが、リラが口元に微笑を浮かべているのを見て、すぐに思い出した。
「待って。今日はエイプリルフールですよね」
「信じるかどうかはあなたの自由よ」
彼女はふふっと笑った。その唇の陰に尖った小さな牙が見えて、僕は魅入られたようにそれ以上何も聞けなくなってしまった。
「私ね、好きな人がいたの。将来を共に生きて添い遂げようと約束した人が」
そう言ってリラは話し始めた。
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