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吸血鬼の彼女が恋をした相手は人間の青年だった。彼は僕と同じように花屋に勤めていたそうだ。
「この家の庭のバラもそれは見事だったわ。だけど、父が亡くなって使用人の数を減らしたら、庭の手入れは私の手に余ってしまって」
庭師がいなければ、この面積のバラを維持するのは難しいだろう。そこで慰みに花が欲しい時は花屋に頼むことにしていた。彼はいつも快く引き受けて、時間を作っては彼女のお茶に付き合った。
「あまり外出の出来ない私に、彼は街の様子を面白おかしく話してくれて、私が笑うととても嬉しそうにしていたの。会うたびに、言葉を交わすたびに私はどんどん彼に惹かれていったわ」
彼の方もリラに好意を寄せているようだった。二人がお互いに想いを打ち明け、恋を成就させるのにそう時間はかからなかった。
彼と初めてキスを交わした日、リラは毛先の一部をリボンで結んでから、銀色に光る大きな鋏で亜麻色の一房を切り取った。
『あなたと私は本来なら共に生きることは叶わない。いつどんな別れが来るかわからないから、これを預けておくわ』
だが、種族の違い以前に、彼女には決められた婚約者がいたのだ。
「家同士の決めごとで、私の一存ではどうにも出来なかった。お互いの血筋を絶やさないことも条件だったから」
リラの表情が曇り始めた。
「だから、あの日私たちは約束したの。二人で遠いところへ行って幸せになろうって」
僕はたまらなくなって立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろした。リラは僕を見上げ、悲しみに染まる眼差しを向けた。僕はそっと手を伸ばして彼女の頬に触れた。陶器のような見た目に反して、その肌は思ったよりも温かく僕の中にじんわりと熱を伝えてきた。
「泣かないで」
僕の手に零れてきた涙を拭って、そう言うのが精一杯だった。
「ありがとう。優しいのね」
彼女は頬を濡らしながらも僕に微笑みかけた。お茶をひとくち飲み、小さく息をつくと言葉を継いだ。
「日が落ちてからのことだったわ」
街の外れの寂れた駅で待ち合わせた。だが、約束の時間になってもリラは家を抜け出せなかった。急な来客があって、人の出入りが多いせいで玄関から出られずにいた。しびれを切らし、バルコニーからどうにか外へ出られないかと窓を開けた時だった。
『リラ』
夜陰に乗じて、愛しい人が小声で彼女を呼んだ。あまり遅いので様子を見にきたのだ。宵闇越しに見つめ合い、リラは二階から彼の腕の中へ飛び込んだ。
荷物は用意してあったが、持ち出せなかった。
「でも、身一つで彼と旅立てることに、何も不安はなかったわ」
二人は暗闇を駅へと急ぐ。
駅舎の灯りが見えてほっとした時だった。
『どこへ行くんだ』
暗がりから背の高い男が現れた。彼女の婚約者だった。
『彼女は俺のものだ。返してもらおう』
『ごめんなさい。私、この人と一緒に生きていきたいの』
『君は人間に騙されてるんだよ。俺と家に戻ろう』
男が彼女に手を差しのべると、辺りにバラの香りが広がった。濃密なその芳香の中に、鋭い刃が隠されていた。
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