四月の薔薇

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『あっ…』  恋人が呻いて自分の腕を押さえた。バラに混じって金属の匂いが立ち込めてきて、指の隙間から彼の温かい体液が流れていくのが感じられた。 『いや! やめて。この人を傷つけないで!』  リラの叫びが闇を震わせた。恋人の体には(とげ)のある(つる)が幾重にも巻かれて、ぎりぎりと彼を締め付けている。彼の口から(こら)えきれず苦悶の声が漏れた。 『なぜだ。いずれ君が手にかけるつもりだったんだろう? 同じことじゃないか』 『お願い。帰るわ、あなたと家に帰るから、この人を助けてあげて』  リラの言葉に満足したのか、婚約者は彼を解放した。がっくりとうなだれた恋人は立ち上がれなかった。リラが駆け寄り彼を抱きしめた。彼から流れ出すもので、彼女の白いドレスが深紅に染まっていく。 『ごめんなさい。こんな目に遭わせてしまって…』  泣きながら許しを乞うリラに青年も手を伸ばしたが、抱きしめる力は残っていなかった。やがて彼はリラの腕の中で意識を失くした。  すっかり冷めた紅茶を飲んで、リラは口を湿した。僕も黙って彼女に(なら)った。話の続きも気になったが、彼女がなぜこの話を始めたのか、その真意も測りかねていた。 「…それから、どうしたんですか」  沈黙に耐えきれずに口を開いたのは僕の方だった。彼女は悲しげに僕を見た。 「本当に覚えてないのね」 「え?」  リラは大きなため息をついた。お手伝いの女性が熱いお湯を運んできた。リラは茶の葉を差し替えて新しい紅茶を淹れ始めた。 「私はこの家に戻ったけど、婚約は破棄したの。それからはずっと独りでここに住んでるわ」 「じゃあ、彼の方は…」  リラは何も答えずに黙ったまま、流れ落ちる砂を見つめていた。その横顔は何かを諦めているようにも、成し遂げたかのようにも見えた。 二杯目のお茶が僕の前に差し出された。アールグレイの香りを軽く吸い込んで、自分を落ち着かせようと僕はカップを手に取った。 「あっ、つ…」  舌を焼くような感触に思わずカップを取り落とした。毛足の長い絨毯に零れた紅茶は、湯気を立てながら染みを作った。 「思い出した?」  耳元で囁くリラの声に僕の記憶が呼応する。 『ふふっ。エディったら、本当に猫舌なのね』 『ごめんよ、せっかくのいい香りなのに。もう少し冷めたらいただくよ』 これは…? 彼女と 僕の会話だ  リラは僕を腕の中に引き寄せて愛おしそうに抱きしめてくる。急なことに戸惑っている僕を、バラの香りが包み込む。うっとりと体を委ねていると力が抜けていくようだ。 この感覚 前にもどこかで… 「会いたかったわ、エディ」 「僕に…?」 「あなたを待ってたの。あの夜からずっと」  僕の鼓動が大きく鳴り響いて、目の前で時の流れが一気に巻き戻された。リラがそこにいた。 「やっと会えたわね」  記憶というものは実に曖昧だ。前提となる過去が失われると簡単に塗り替えられて、狭間に取り残されてしまう。こうして呼び起こしてもらわなければ、二人の大切な想い出は永遠に闇を漂うことになるところだった。 そうだ 僕はあの時 一命は取り留めて リラは 彼女は…?
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