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僕を介抱して家に戻ったリラは、僕と添い遂げられないことを悲観して、婚約破棄を申し出た。頑ななリラの態度に激昂した婚約者は、バルコニーで彼女を縛り上げて身動きを封じた。やがて夜が明け、旭光により彼女の全ては灰塵に帰した。
僕はオーナーから彼女の最期を聞いて、悲しみの底に沈んだ。刺に傷つけられ、止めどなく血を流した僕は、数ヵ月もの間生死の境をさまよっていたが、ようやく目を覚ました時には当時の記憶を失っていた。
リラのことも、あの夜何が起きたのかも。
だけど今、少しずつ記憶に色が戻り始めた。
「エディ、花束をありがとう。バラの数は私への愛の深さよ。ありったけって言ったでしょ」
「そうか。ごめん、気がつかなくて」
「いいの。思い出してくれたから。でも、私がこの日をどれだけ待ちわびていたかわかる?」
そこでリラは初めて本物の笑みを見せた。悲しみにまみれた偽りの笑顔ではなく、心からの晴れ晴れとした表情だった。鈴が転がるような彼女の笑い声が、頭の中に響き渡る。
「お願い。ぎゅって抱きしめて」
リラは緑の目で僕を見つめ、それからそっと薔薇色の唇を重ねてきた。柔らかな優しさに僕は彼女に抱擁を返して、その芳しい香りを胸一杯に吸い込んだ。
「ああ、リラ。待たせてごめん」
僕は全ての記憶を手繰り寄せ、彼女を腕に取り戻した。この邂逅からの想い出は、悲しみの方が強いために普段は僕の中でずっと封印されていた。自分が猫舌であることさえも、忘れてしまっていたほどだ。
「また君を抱きしめることが出来るなんて、夢みたいだ。でも、どうやって」
彼女は骨どころか灰までも風に攫われてしまった。いくら幻だとしても、何もないところからは生み出せない。
「覚えてる? 髪を託したでしょう」
あの時、切り取られた彼女の髪に僕はそっと口づけた。それすらも愛おしかったのだ。リラは嬉しそうにはにかんでいた。
僅かな彼女の欠片が、今日、僕たちを呼び寄せてくれた。そして、この街の人たちが僕に優しかった理由がやっとわかった。
全てはこの日のためだった。
今は実体を持たない者が復活を赦されるのは、偽りが肯定される今日だけだ。幻となっても僕に会うために、彼女はこの家に留まり僕を待っていてくれた。
リラの唇は凶器を隠さずに僕の首筋を撫でた。僕はその時に備えて彼女にいっそう強くしがみついた。鋭い牙が食い込み、僕は彼女に取り込まれていく。
今度こそ このまま君と…
僕らはひとつになり溶け合った。永遠の眠りにつく二人を見守るかのように、バラはいつまでもその香りを残していた。
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