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僕が街角の花屋で働き始めてひと月になる。
地図と自転車を頼りに、花を届けるのが主な仕事だ。
『平気さ。狭いところだからすぐに覚えられるよ』
オーナーには笑って励まされた。
この街の人たちはみんな優しい。オーナーは行くところがなくて困っている僕を拾ってくれたし、みんなも道に迷って尋ねると親切に教えてくれる。僕の名前もすぐに覚えてくれて、気さくに声をかけてくる。
「エディ。ほら」
初日に僕を呼び止めたアリッサは、気のいい食堂の女将さんだった。彼女は次の日から時々マフィンを焼いては持ってきてくれた。
「いつもありがとう。いい匂いだね」
「また持ってくるよ」
彼女を見送って、僕は早速ひとつを食べながら今日の配達の準備を始めた。オーナーがコーヒーを淹れてくれた。
「熱いけど大丈夫? 気をつけて」
「ありがとうございます」
熱いコーヒーで体が目覚めていく。残りのマフィンをほおばって、僕はファイルを取り出した。
注文の内容と配達時間を確認して、それから地図とにらめっこして道をなぞる。初めは真っ白だった頭の中の地図は日に日に情報が上書きされ、働き始めてひと月もすると、まるで花が咲くように色がついていった。
四月に入った日のことだった。
朝食を終えてお店に行くと、電話が鳴っている。鍵は開いていたがオーナーの姿はなかった。少しためらって僕は電話を取った。
「もしもし」
『私よ、丘の上のリラ。太陽が空のてっぺんにかかったら、バラをありったけ持ってきて』
「はい?」
『バラだけよ。他は要らないから』
それだけ言って電話は唐突に切れた。受話器を見つめてため息をついていると、奥からオーナーが顔を出した。
「おはよう、エディ。どうした、変な顔して」
「注文の電話があって。ええと、丘の上のリラさんが、バラをあるだけ持ってきてくれって」
「…そうか。今日は四月一日だったな」
「ええ? 悪戯ですか」
「いや。彼女のは半分本当だ」
オーナーは優しく微笑んだ。
たいていの他愛ない嘘は許される日だ。子どもたちはどんな嘘や悪戯を仕掛けようかと考えながら、一方で大人たちはそれにどうやって驚いてやろうかと、朝からお互いにわくわくしている。
「時間は言ってた?」
「太陽が空のてっぺんにかかったらって」
「昼過ぎだな。花は用意しておくよ。お昼を早めに取って届けてくれるか」
「わかりました」
あれだけでオーナーに通じるなら、きっとお得意様なんだろうと思った。失礼のないようにしなきゃ。それにしてもありったけのバラなんて、ずいぶんロマンティックだな。
丘の上と言うと、あの赤い屋根の薔薇屋敷のことだ。お嬢様の気まぐれってとこか。
確か、婚約破棄されてからはずっと一人で暮らしているとか、その美貌は例えようもない美しさであるとか…
街の人たちの噂は耳にしたことがある。
そんなことを思い出して彼女が不憫になり、バラがせめてもの慰めになればいいのにと僕は思った。
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