0人が本棚に入れています
本棚に追加
突然歌が聞こえてきて、私はハッと顔をあげた。しばらく放心してから、まただ、と思う。最近こんなふうに歌が聞こえてくることが多いのだ。そして、そのたびになんだか不安な気持ちになる。
というのは、聞こえてくるその歌に、不可思議な点が2つもあるからだ。一つは、知らない歌なのに、何故か知っている気持ちがすること。子どもの頃にどこかで聞いた事がある歌なのかもしれないけれど、はっきりとは思いだせない。私の知らない私がその歌を知っている、というような感覚が、私を不安にさせるのだ。
そしてもう一つは、私は耳が聞こえない、という事だ。耳が聞こえないのに、その歌は聞こえてくる。正確には、頭の中に響いてくる、という感覚だ。中途失聴だから、歌や音楽自体がどんなものかというのは知っている。知っている歌なら、今でも歌うことはできるし、頭の中で歌を再生することもある。けれど、知らない歌が、その歌詞を伴いながら、頭の中に流れてくるというのは、すごく不自然でこれまでにもあり得ないことで、だからとても気味が悪くて不安なのだ。そしてその歌詞というのがまた不気味で、それがより不安を大きくさせている。
一度だけなら、気のせいで済ませることだってできるのだけれど、最近それが何度か続いている。最初は気にしないようにしていたけれど、それにも限度があった。そこで私は、その歌の事を知るために、歌詞をネットで検索してみることにした。
ところが検索しようとして、なぜか私はその歌詞が思い出せないのに気付いた。その歌が頭の中で流れているときははっきりと分かるのに、いざ思い出そうとすると、思い出せない。何度か聞いて、嫌な気持ちになって、記憶には残っているはずなのに、思い出せないのだ。まるで、脳がそれを記憶することを拒んでいるかのように。
でも実際確かに、それは記憶するのが嫌になるほど、不気味な歌だった。まるでそれを記憶することで、自分の中の何かが汚染されてしまうというか、そんなふうにも思える。無意識なそういう感覚が、あえてその歌を記憶させないようにしているのかもしれない。
結局私はその歌を調べることを諦め、代わりに何がきっかけで聞こえるようになったのかを考えてみることにした。聞こえるようになってきたのには何かきっかけがある筈だ。考えているうちに、あることを思い出した。少し前、ちょうどこの歌が聞こえるようになり始めた頃に、私はネットである動画を見たのだ。といっても意図して見たわけではなく、それは、見たい映像の視聴開始時に流れるCMだった。
誰かが暗い場所で、歌を歌っている映像だ。暗くて風景は分からない。ただ、足元が明るくて、周りに木が立っているようで、そこだけを見ると、暗い森のような場所だと感じた。歌っている人は髪が長く、顔は隠れていてほとんど見えない。ただ衣装だけは白くて、そこが目立っている。歌っているのだと思ったのは、わずかに見える口元が動いていたからだ。音声は聞こえないけれど、その口の動き方から、話しているのではなく、歌を歌っているように感じたのだ。
きっとその映像を見た時からなのだろう。だとすると、無意識に、その歌をイメージして、私の脳が勝手に音楽を作ったのかもしれない。歌詞も、その時の口の動きから、勝手にイメージし、そしてそれが不気味なものになっているのは、その映像の雰囲気から、なのかもしれない。というふうに考えてみたけれど、結局何も断定できず、あやふやな結論しか出せなかった。
そしてその後もたびたび、私の頭の中にその歌が流れてきた。その頻度自体はそれほど変わらないけれど、何度も流れてくるうちに、それは頭にこびりつき、自らその歌を頭の中で流してしまうことも増えるようになった。その歌詞は分からないままなのだけれど。そしてその、歌詞が分からないというのが、気持ち悪かった。聞きたいわけではないけれど、霞がかったような感覚がもどかしくて、気持ち悪い。そうして、私は、その歌に取り憑かれていったのだ。
家でくつろいでいるときも、職場で仕事をしている時も、その歌は頭の中を流れ続ける。勝手に流れてくるのか、自ら再生しているのか、それさえも分からない。次第にその歌は、私の頭だけではなく、身体も支配するようになっていった。流れてくる歌に合わせて勝手に指が動いたり、動くリズムがその歌に合わせたものになってしまったり。そこまでになってもやはり歌詞は分からず、その歌詞を知りたいという執着が、益々その歌を私にこびりつけるのだ。何とかその歌詞を知りたいと思い、もう一度あの映像を見ようと動画を探したりもしたけれど、その動画が見つかることはなかった。
ところが。
最初のコメントを投稿しよう!