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俺は思っていたよりも長い間ぼーっとしていたようで、シュウンと小さな音を立てて車体が止まったのはその電車の終着駅だった。
どこかレトロな造りのホームに降り立つと、何だかいつもより柔らかな空気に包まれたような気がした。
今から急いで折り返したとしても完全に遅刻だ。
俺はため息をつきながらポケットからスマホを取り出した。
「連絡してあげる」
そう言って箱崎はシンプルな白いカバーのスマホを自分の鞄から取り出した。
「……だから傷心旅行、付き合って」
その動作はあまりにも自然で、俺はつい言葉を返すのが遅れてしまった。
「おはようございます。2年A組の中谷孝成の母ですが、いつもお世話になっております……」
俺は思わず「えっ!」と声を上げそうになってから、慌てて口を塞く。
「……朝から腹痛を訴えておりまして、ずっとトイレから出てこないものですから……。はい……はい。本日は休ませようと思っております……はい……」
えっ……。トイレって……。
どうせ嘘をつくなら「熱がある」とかにして欲しいんだけど……。
箱崎の言葉は淀みなく、なんだか手慣れた感じがしている。
彼女の低く穏やかな声質も母親らしさを醸し出すのに一役買っているようだった。
箱崎は電話を終えると、しれっとした顔でスマホをしまう。
この流れでいくと、俺が箱崎の父親のふりをして学校へ連絡を入れなくちゃならないんだろうけど……。
はっきり言って俺はあんなに堂々と嘘をつける自信がなかった。
女は怖ええな、って思う。
ふいっと艶のある黒い瞳がこちらに向けられる。
その吸い込まれそうな深い色に、胸の奥がドクリと鳴った。
彼女は俺の反応を楽しむかのように、しばらくの間その視線を送ってみせてから、ピンク色の唇を綻ばせた。
「大丈夫。お父さんのアカウントで休みの連絡は入れてあるから」
「えっ、そんなことできるの?」
そう言えば入学当初、学校との連絡用に親のアカウントを登録させられたような気がするけど……。
「いつもそうだよ。ウチは父子家庭だから自分のことは自分でやらなくちゃならないの。仕事で忙しいお父さんにそんなことまで面倒かけられない」
「そう……なんだ」
だから箱崎は妙に大人びているのか……。
学校サボったら親にバレるかも、なんてビビってる自分が凄くガキな気がしてきて、俺は思わず下を向いた。
「はー、気持ちいい。なんかこっちは空気が違う気がする」
箱崎は俺の様子など気にするふうもなく、深呼吸をしてみせた。
確かに学校の最寄駅より少し西に来ただけなのに、辺りはのんびりとした空気が漂っている。
「ここ、初心者用のハイキングコースがあるんだって。行ってみない?」
能天気なことを言っている箱崎に、細かな泡のような苛立ちが胸の内に湧き起こる。
傷心旅行とか言って、ただ学校をサボりたかっただけじゃないのか?
結局、箱崎も他のヤツらと同じだ……。
「隣駅までの2時間コースがお勧めらしいけど、途中の休憩所まではあまりアップダウンがなくて近隣住民のお散歩コースらしいよ。そこまで行って戻ってくれば丁度いいんじゃない?」
「は? 何言ってんの? 俺ベース背負ってんだけど」
「じゃ、どうする?」
箱崎の言葉に、改札の向こう側に目を向ける。
コンビニや飲食店の看板がいくつか見える程度で、どう考えても高校生が時間潰しができる場所なんてなさそうな雰囲気だ。
小さなデイパックを背負った60代ぐらいの女性が二人、「ハイキング日和になって良かったわねー」なんて言いながら俺達をのんびりとした足取りで追い越してゆく。
「……絶対、休憩所で折り返すからな」
俺が渋々そう言うと、箱崎はニコリと素直な笑顔を返した。
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