1章 18年後の"彼ら"

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1章 18年後の"彼ら"

1話 少年たちの「日常」 其の一  自己とは何か、じっと考える。 蝉の声、蒸し暑い朝、刺すような日差し。 思考を邪魔するものが多い中、哲学的にぼんやりと考える。 僕はずっと、この問いかけへの答えを模索している。 "自身という存在"へのぼんやりとした不安。 小さい頃から常に抱えて離れない。 それが抱えきれなくなり、ある日頭から離れなくなった。 自分と他人の境界とは? 人々の間での"自分"という存在とは? 己を己は肯定できるのか? "自身を観測する自身"という意識とは? そんな遅咲きの厨二病のような考えと不安だ。  勿論「自分ってなんだっけ」とは、他人の意見に流されやすいとか、自分の一本通った意思がないとか、そういう類の話ではない。 むしろ自分の意見はちゃんとあるし、不必要なほど他人に同調はしない。 むしろ、自分の中で『きちんと自分の意見を持っていないといけない状況』が、どちらかと言えば多かった。  それもそのはずで、物心つく前に孤児院へ捨てられ、3歳まで過ごした。 今でこそ養父のもとで普通に生活しているが、小さい頃は養父の親戚や、クラスのいじめっ子に「いらなかった子」とか「捨て子」と散々言われた。 『自分を自分として保ち続ける』 これが出来ないと、もっと自分に自信もなかっただろう。 神経質で不安の多い人間に育ってしまっていただろう。  ごく普通の子が育つ過程で、降り注がれる愛は人並以下の享受。 片やあってはいけない言葉の暴力は山ほど。 そう思えば、人並みよりは辛い幼少期を過ごしたのかもしれない。 無論最初は傷ついたが、歳を重ねるにつれ思考が変化した。 "他人の言葉は、ただ他者が人を表面的に観測した結果だ" "聞き流すべき雑音でしかない" この考えが育った果てに 『』 という考えに至った。  その積み重ねから精製された性質というのは 1. 時に当然のことにすら疑念を抱く 2. 自分が正しいと思うなら曲げない 3. 納得がいくなら、素直に受け入れる。 実にひねくれている、と自分でも思う。 それでもこの3点にて集約されてしまった。 僕、桐村(きりむら)壱馬(かずま)はそういう青年へと、この府中の土地で17年かけて育った。  薄平たい布団からずるずる這い出て、朝食を食べた。 サクサクとしたトーストに、風味が嗅覚を優しく撫でるダージリンティー。 うだる暑さから、最低限胃が拒否しないものを選んだ。 こんな暑い日は家に一人でいてもしょうがない。 ……ここは有意義に夏の課題を翔作とこなすか。 今は夏休み、高校生が友人と課題をこなす名目で結局殆どの時間を遊びに費やす。 よくある話だ。生産的行為を目的としながら、非生産的行為に比重が偏っていく。 女子高生がよく友人を一緒に宿題をやろう、と誘っては 「隣クラスにいるNさんの彼氏は云々」 「あの先生の授業がどう」 とか、カフェの真ん中で始まるのもこれと同じだと僕は思う。  だが、ある一定以上の非生産行為がなければ、効率的な生産行為は生まれないんじゃなかろうか。 生産行為のみを繰り返すだけでは、人の心は疲れる。 集中力低下からミスも起きやすくなり、最後に効率は下がる。 ヒトの脳は、そんなに連続して稼働可能なほど高性能ではない。 非生産行為の餌があってこそ、それを目標にして獲得しようと奮起する。 宿題終わったしいくらゲームしたっていいじゃない。  だから僕は、誘うときは「余暇」という成功報酬を釣り針にぶら下げて、課題を行うことに誘う。 すると、水底の魚は針にかかる。  ポケットからするりと携帯を取り出し、友人である寿々木(すずき)翔作(しょうさく)へと電話をかける。  「もしもし、壱馬か。どうした、カラオケでも行く?」 カラッとした、明朗で爽やかな声が電話に応じた。 「いや?夏の課題をさっさと済ませないか。 まだ夏休みも始まって10日、さっさと終わらせて残りを遊びたいしさ」 結論を述べつつ、その成果もサラリと伝える。 「おー、正論。んじゃ、図書館へ10時に集合でどうだい。 帰りにいつもの菓子屋寄って行けるじゃん? あいつに分からない課題とか簡単にやってもらおうぜ」 「分かった、じゃあ市民図書館集合で!先に行ってグループ学習室確保するよ」 餌に、かかった。  電話を切り、出掛ける支度をする。 自転車に乗ると、西洋の邸宅風の広い家を飛び出した。 府中も駅から遠ざかるとそれなりに田舎に見える。 急行電車で都市部へ簡単に出られるイメージとは一転、地方都市のような閑散とした空気と穏やかな雰囲気が、人と街に漂う。 そんな風景が好きだし、のどかな空気の中で自転車を走らせることも好きだ。  この畑を埋めて家が建つのか。 あちらのコンビニは潰れたのか。 川が前より蛇行してるな。 自転車を走らせながら、通り過ぎていく風景に逡巡と思いを馳せる。 街が変わっていく。 生き物のように鼓動しながら変化し、自分の記憶として内在する場所では無くなっていく。 時間が経つほど、"自己の中にある街"と"現実に存在する街"。 2つは同じ対象を指しながら、全く別の意味へと乖離していくのだろう。
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