嫌いな僕と一日

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 エイプリルフールは嫌いだ。  小学校に通うよりも前、母親に嘘をつかれた。母にとってはお遊びのつもりだった嘘。  当時の僕は”エイプリルフール”なんて知らず、母の言葉を真っすぐに信じ切っていた。そんな様子の僕を、母は「可愛い」と言って笑っていた。僕を傷つけようとしていたわけではないと、今なら分かる。しかし、信頼していた人物に嘘をつかれた事実は、僕を酷く悲しくさせた。  大きくなってからは、自分も嘘をついた。自分を守るための嘘だ。  幼少より内向的な性格であったが、それは年を重ねるごとにより顕著になっていった。他者との衝突、自分の意見を言うこと、これらは僕にとって怖いことだった。そんな僕は四月の最初の日にだけ、望んでいることを口にするようになっていた。誰かに僕の言葉を否定されそうになったとき、それを嘘にして逃げることができたからだ。  気づけば僕は、人が悪意なく嘘をつくエイプリルフールと、この日を利用してしかものを言えない僕自身のことを嫌いになっていた。  一番自分が嫌になるのは、夢について嘘をつくときだと思う。  スポーツ選手、宇宙飛行士、アイドルにパティシエ、お金持ち。子供の頃は、どんな夢を語っても応援された。それがいつからか、 「現実を見ろ」 「才能がないと」 「あなたを想って」 なんて、僕という入れ物と夢のサイズを比較されるようになった。そんな言葉に抵抗したい心とは裏腹に、僕も入れ物に見合ったとされる将来を口にするようになっていった。  新しい年を迎え、三月も末になった。肌を切り裂くような寒さも和らぎ、時折ぬるりとした暖かさが引きつっていた頬を撫でていく。この街は、どこを歩いても人の海の中にいるみたいだ。僕はいつも、窒息しそうになりながらその中を歩いている。家への帰路、スクランブル交差点で赤になった信号機に足を止めると、長く長く息を吐く。足を止めている間は、少しだけ呼吸に集中できる。ゆっくりと深呼吸を繰り返すと酸素が体中を駆けていき、鈍くなっていた視覚や聴覚などの感覚器官が働きを再開させる。そして余裕ができると、いつもやってくるのは後悔と反省だ。  今日もまた、何も言えなかった。  午後から開かれた会議では、先週のうちに解決しなかった問題について話し合われた。一向に突破口が見つけられない状況に、会議室は始まる前から重い空気に包まれていた。ああでもない、こうでもないとアイデアが出ては消えていく。同じ所を回り続ける話し合いに、参加メンバーの誰も疲労の色を隠さなくなっていた。僕も参加メンバーとして何かしら発言をしなければと思ってはいても、発言しようとするたび喉の奥が締まるのを感じた。僕ができたことといえば、他の人のアイデアに対しての同調、問題をオウムのように繰り返すことだけ。僕が何もできないまま時間は過ぎ、解散時間を目前にようやくアイデアがまとまったことで、張り詰めていた空気が緩んだ。皆はお互いを労うように談笑していたが、僕はその中に入る資格がないように感じた。先輩が皆とは対照的に暗い様子の僕に声を掛けてくれたが、それにすら僕は曖昧に笑って返すことしかできなかった。  言葉は飲み込み続けると、輪郭が溶けて、飲み込まれた言葉同士は混ざり合う。ぐちゃぐちゃな泥となったそれらは、鳩尾のあたりに沈殿する。その泥に足を取られると、もがくほどに沈んでいく。どれだけ手を伸ばしても掴める場所はなく、引き上げてくれる手も現れない。そして、沈み続ける僕の足には劣等感が重くまとわりつき、より深くへと沈んでいく。  止まっているのに、また呼吸ができなくなる。呼吸の仕方を忘れた僕は、信号機が青になっても足を動かせない。 ──沈むままにもがくことを諦めかけた手が、誰かに掴まれたようだった。  音楽だ。 それはカーテンの隙間から鋭く差し込む陽光のごとく、耳から入ると脳を刺した。ぱっと顔をあげ、音の出所を探す。それは交差点に面した大型ビジョンから流れていた。とあるアーティストが新しい曲をリリースするようで、そのプロモーションだった。  叶えたい夢。  肩を並べ歩く仲間。  つらい道程。  目を逸らさない覚悟。  下ではなく前を向くこと。  そして、夢を追う事への肯定。  それは、あまりにも真っすぐで、あまりにも眩しい心だった。僕が息を呑んだその一拍で、彼は僕の心臓を鷲掴んだ。心を叩き付けるようだった。僕ができなかったことを、彼はやってのけていた。  信号機は、また赤になっていた。  僕は今まで自分を守ることに必死で、誰かが差し出した心を見落としていたのではないだろうか。  僕はいつからか、誰かの本気を受け止めることを止めてはいなかっただろうか。  交差点に面した書店が目に入る。一番目立つ棚には、有名な作家の新刊が並べられている。「芸術は、作者の内面の切り売りである」と、誰かが言っていたようなことを思い出す。書店の隣の店は、出入り口に花が飾られている。その花からは、入ってくるお客さんをもてなそうという心が見えた。  ポスターに、車に、洋服に。人の心を揺さぶるそれら、僕を取り囲む全てのものが人の心から生み出されたものだ。人の数だけ心がある。同じものではないのだから、衝突することがあるのは当たり前だ。それでも、生まれるのは衝突だけではない。心をさらけ出すことでしか、人の心は動かせない。それは自分の心ですらも。  エイプリルフールは嫌いだ。  四月一日の今日、人が悪意なく嘘をつき、僕が僕に嘘をつく日。そして、勇気がなかった僕を今まで守ってくれていた日。  僕の中、泥の底。どんなに埋もれても溶けなかった夢がある。あの時、あの歌が僕を引き上げてくれたように、今度は僕が僕自身を引き上げる。それは、本当の気持ちを口にするだけでできる。  残り数分で、今年のエイプリルフールが終わる。  時計の秒針が、僕の胸を叩く。  三、二、一…。  長針が、天を突いた。 「僕の夢は──」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!