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(1)
俺が一体何をした…………。
目の前に迫った究極の選択を前に、自分は顔を引きつらせるしかなかった。
「ねえ、ルーク。どうしますか? 私はどちらでもよいのですよ? ただし、選びようによっては、あなたは今の地位を永遠に失うでしょうし、お祖父様……いえ、あなたの敬愛するリュカ老師も、養い子のそんな様を見たら、ひどく嘆き悲しむでしょう」
呆然とする耳に届いたのは、優しく柔らかな、慈悲深い声。
いつも苛ただしく思うゆっくりとした馬鹿丁寧な話し方が、今はひどく不気味に聞こえる。
まあ、自分達の職業を考えると、柔らかい丁寧な話し方は一種の職業病のようなもので、相手が例え親兄弟だったとしても、丁寧語を忘れないものだ。粗野な話し方しかできない自分の方が、ここでは異端なのである。
いや、他の相手には、丁寧とまではいかないが、きちんと礼儀正しく接してきた……つもりだ。自分が我を忘れて神官にあるまじき汚い言葉で罵倒する相手は、たった一人。
目の前で、いつものように優しい微笑を浮かべている白髪の神官。
天敵である。
天敵=ある生物に対して寄生者や捕食者となる他の生物。昆虫に対する鳥、カエルに対する蛇など。
つまり、自分が昆虫なら奴は鳥。自分がカエルなら奴は蛇。
(……ん? これでは俺の方が弱いようではないか)
そんな事を考えながら、弱りかけた意志の力を掻き集めて目の前の青年を睨みつける。
「ん? どうしました?」
ギリギリと奥歯を鳴らし、その優しげな面ざしを睨み続けていると、青年は小さく首を傾げた。そんな仕草は、血をひいているだけあって、自分の敬愛するあの小柄な老人にそっくりだ。
しかし、あの老師はこんな事は絶対に言わない。
「さあ、答えを聞かせて下さい」
「ッ!」
そっと手を取られそうになって、咄嗟に身を引いて後ずさる。
「ふふ、怖いのですか?」
「こんな事、神はお許しにはならない! 戒律を守らねばならぬ立場に在るお前が、それを破る気か!? セリクス!」
「そんな古臭い事を言っている神官はあなたぐらいですよ、ルーク。一体何百年前の人間ですか、あなたは?」
途端に呆れたような声が突き刺さる。
「五つの”守護戒律”の一つ、姦淫の戒を破っている神官は、多くもないですが少なくもないのですよ。この閉鎖された中でですので、男同士で……という訳ですがね。あなたも見た事あるでしょう?」
ある……。
つい最近、兄弟で入殿した新人達が、口にするのも憚れるような行為を堂々と、しかも祈りの間で行っていたのだ。夜だったといえ、あんな事を創世の女神への敬愛の念を捧げる祈りの間にて行うとは……。
「汚らわしい」
吐き出すようにそう告げた自分の言葉を聞くと、奴は言った。
「ばらしてもいいのですね?」
「やめろ!」
それだけは絶対嫌だ。
「では、ルーク……」
伸ばされる腕。
見上げてくる優しい聖者の瞳。
「そのまま、私を受け入れて下さい」
何も言えずにその顔を凝視していると、顔を引き寄せられる。そうしてゆっくりと重なった天敵の唇は、とても柔らかかった。
最悪だ…………!
*****
目の前には、常に彼の姿が在った。
上司であり先輩であり、共に過ごした年月を思えば幼なじみにも、お互いの境遇を思えば兄弟にも等しい間柄であった彼。
しかし自分は、彼が昔から嫌いだった。
ルーク・ウインター 二十五歳
セイントクロス神殿アシェイラ支部所属。身分は神官長補佐。聖職者のエリート養成学校とも言える”レイデ神学校”卒業。
孤児であった過去を抜かせば、人も羨むような順調な出世コースを歩くエリート神官の一人である。
あの時……
セイントクロス神殿本部の大神官にして気高き老師、リュカ・セリクスに差し伸べられた手。
雪のちらつく北方の国、サンジェイラの道端に、気づけばゴミのように捨てられていた自分に手を差し伸べたのがリュカ老師だった。
あの手の暖かさは、どんなに時が経とうとも忘れない。
リュカ老師に拾われて、彼の養い子となり、ルークの世界は変わった。
毎日の糧となる食事を与えてくれた。暖かい寝床を与えてくれた。柔らかな服を与えてくれた。
いつもサンジェイラ王都の道の片隅で、ボロ布のみを身に纏い、寒さに震えながら転がっていたルークからすれば、リュカ老師と暮らす小さな家は天国にも等しかったのだ。
いや、それ以上にリュカ老師が与えてくれたのは、溢れんばかりの温かい愛情である。
親の顔さえわからぬ孤児のルークからすれば、初めて与えられるそれは、最初は戸惑いを覚えるものだった。だが、リュカ老師の暖かな眼差しと温もりを受ける内に、それもなくなった。
あれは、小柄なリュカ老師をまだ見上げていたような頃。八歳になったばかりの頃だった。
突然、彼がやって来たのだ……。
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