セイレーンの嘆き

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 歌う。私はこの瞬間が好きだ。  自分の声がまるで弦楽器や管楽器などのように、人間という楽器から響かせる音色だからだ。  本物の楽器とは異なり、その人間固有と言ってもいい、骨格や喉の筋肉、そして音感など幾つもの身体の器官を最大限に利用して、ときに燃え上がる炎のような情熱を、ときに聖なる川の如き澄んだ清廉さを、歌は自在に表現できる。 『でも、今の私·····壊れた楽器みたいじゃん』 「まーた、そんなこと書いて。しょうがないでしょ。アンタ、お父さんが会社から貰ってきた喉風邪モロに感染したんだから」  まだ、熱の名残りで朦朧とする頭で率直な感想を声が出ないので、筆談代わりにタブレットへと書いて伝えたのに、母は取り合わない。  私は、本来なら明日新入生を代表して学校の先輩たちと地域へのお披露目も兼ねた学内コンサートで、ソロの曲を歌う予定だったのだ。  そんな名誉な場面、この人生でそうあることじゃない。オマケに、ここで成功した先輩たちは、おおよそプロとしての成功が約束されているも同然の実力者だと内外の関係者から注目を浴びる。  それを父のせいで·····と思うと、日頃学費を稼ぐために頑張ってくれている事実を知っていても、苛立ちは隠せない。  何より完全に喉の炎症が治まるまで人と話せない。これも億劫だ。誰かと馴れ合いたいわけじゃないけれど、やはり同じ志を持ったライバルであり、仲間たちと歌の解釈や譜面の読み方を議論するのはとても有意義で楽しいのだと受験のために通っていた教室での日々から実感している。 「壊れた楽器って言うのはね。簡単にメンテナンスできるものから、もう取り返しのつかない内容まで色々あるのよ。アンタは、ちゃんと身体を健康にして、喉の腫れが治まったら練習して今までのように歌えるんだから要らない心配しないでゆっくり休みなさい」  その言葉が母として私の身を案じる優しさから出ている言葉だと痛いほどよく分かる。同時に歌う楽器としての自分を甘くみられている気がする。  人間、スポーツでも他の楽器でも一日でも触れずに入れば勘を取り戻すのは難しい。ましてや、私は今、人として成長期だ。  日々刻刻と身長も体型も、細かなことを言えば細胞も目まぐるしく変わっていってる。そこに、喉風邪なんて喉の筋肉を弱らせて、腹筋も体幹を支える背筋も·····いいや、歌に必要な全身の筋肉が衰えてしまう。  ヴァイオリンやフルート、トランペットなんて楽器なら数日やむを得ず離れていても、ちゃんとメンテナスできれば奏者の腕次第ですぐに素晴らしい音楽を奏でるだろう。  だが、人の身体はもっと時間がかかる。何より人前でソロで歌うなんて大役、滅多に選ばれることでは無いのだ。両親はそのことを軽んじているのではないかと本当は叫びたい。  けれど、やはり大切な喉だそんなムダなことのために使ってやりたくは無い。  悔しい、悲しい、ムカつく、苦しい、シンドい。  ずっとグルグルと脳内で負のスパイラルの如く誰に対しての言葉か段々とよく分からないものになりつつあった、罵詈雑言が眠気と溶け合って脳内で霧散して消えた。 「あなた、あの子が明日の発表会、楽しみにしていたのは知っているでしょう?」 「え?ああ、でも、しょうがないだろ?オレだってなりたくてなった訳じゃないし。ほら、これでプロなんて甘い夢見るなってことが分かったんじゃないか?」  娘が眠った後、まだ少し体調が悪いなどと言ってもう一日有給休暇を使って休んでいる夫に再度の反省を促すよう、話し掛けた。  しかし、彼は弄っていたスマホから一瞬顔を上げた後、自分を正当化する言葉と娘の夢を否定するような言葉しか口にしなかった。  ああ、可哀想にあの子も人魚姫のように夢の時間は終わりのようだ。 「·····そう。分かりました。では、あの子の体調が良くなったらあなたは出て行ってください。私があの子を一人で育てますし、あの子の夢を叶えるサポートもします」 「は?何行ってるんだよ。あいつの学費を出してるのはオレで、一家の大黒柱はオレだろ?」 「あら、じゃあ、あの子に貴女が喉風邪になった原因はパパが風邪を引いた彼女のお見舞いでイチャついていたせいだって言ったら·····どうなるのかしらね?」 「な、な、何言って·····」 「それにあなたが家に居て欲しいって言うから、大人しくしていたけれど、あの子の夢を叶えるには、私の仕事に連れて行った方が役に立つわ」  ね?とわざと今なお歌姫と評価されている声の高さで、問いかけ微笑むと彼の顔は真っ青になった。  全く、若い頃の私は逆上せすぎだわ。でも、私の可愛い娘に会えた点だけこの男に感謝かしら?  私たち母娘は、歌という自分を楽器とすることにこそ、安らぎと世界の美しさを見出す。ああ、なんて因果な血筋だろう。
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