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耳障りな音は何一つない。私の好きな彼の声だけが、部屋に響いている。
「……違います、私ではないんです! そもそも、そのプロジェクトは……課長! お願いします! 私の話を聞いてください!!」
通話が切られてしまい、彼は頭を抱えていた。
推測通り、仕事ができる人だった。30歳で掴んだ、大きなプロジェクトのリーダー。さらなる出世も期待されていた。過去形なのは、どうやら不手際があったようで、プロジェクトはおろか、責任を取って退職しろとまで言われている最中だから。
綺麗に整頓されていた部屋も荒れ果てて、ローテーブルの上には、ビールの空き缶やコンビニ弁当の空箱。彼女がいたらしいが、別れを切り出され音信不通。おまけに、先日亡くなった父親が残した借金850万円。そのため、部屋も心も荒れている。出会った頃は、爽やかでカッコよくて優しかった。
「……濡れ衣だ。俺じゃない。情報漏洩は、俺じゃない」
私は知っている。同期が情報漏洩して、彼を貶めたこと。全て完璧に見える彼に、長年嫉妬していたらしい。
「なんで、こんなことになるんだよ。俺の人生、もう終わりだ…………」
彼は静かに泣いた。身だしなみも気を遣っていて、清潔感に溢れていた彼。今となっては毛玉だらけのスウェット姿。それもまたギャップとなり、私は好みだけど。
そんな弱々しい彼を、背後から優しく包み込むように抱きしめた。お風呂に何日も入っていないため、少々汗臭い。
ねぇ、仕事なんてしなくてもいいじゃない。
ぼーっと過ごす毎日でもいいじゃない。
私が側にいるからね。
人生を終わりにしても、私は側にいるからね。
前の同居人は、なかなかしぶとかった。好みの爽やか系イケメンなのは良かったが、すぐにパトカーを呼ぶ。
女の声がした、物音がした、不審者がいるかもしれない。
誰もいないのに出動する警察の方々が、可哀想だった。男は薬物中毒を疑われたりもした。挙げ句の果てに、偽物霊媒師女まで部屋に招く始末。
――白髪の老婆がいます。戦争で息子を亡くしているようですね。だから、あなたのことを息子だと思ってしまい、住み着いているのでしょう……。
じゃねーんだよ!! 適当なこと言いやがって。私は28歳、ババァじゃないから。戦争とか意味不明。婚活パーティーの帰りに車が突っ込んできて死んだの!! それも2年前の話!!
そんなこんなで、前の同居人は偽物霊媒師に無駄金を支払った。気が狂い、幻覚幻聴。パトカーも救急車も消防車もやってきて、もう大騒ぎ。そんな部屋で、この先も暮らしていけるわけないじゃない。本当、しぶとい男だった。苦しめても、苦しめても、こっちの世界に来ないんだもの。
私はただ、好みの男性と静かに暮らしたいだけ。相手を私の世界に徐々に引きずり込んで、ずっとずーっと幸せに暮らしたいだけ。
「……外の空気、吸って来ようかな」
玄関へ向かう彼の足取りが重い。リュック背負っていないのに、猫背のまま。そして財布もスマホも持っていない、手ぶら。
またウォーキング始めるのかな?
それとも…………。
――了――
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