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「マテオ様。さっきまでの綺羅びやかな世界が嘘みたいだ。ご覧なさい。汚らしい家に汚れた衣がぶら下がってる」
「カルロ。私は目が見えないから分からないよ」
人気オペラ歌手のマテオは宮廷の演奏会に招かれ、その帰路にあった。
沈む赤日を追い、馬車も闇へと進む。御者のカルロと同じ方角を見据える青い瞳には俗世の汚れは映らない。
「ああ、その代わりに天使の声を与えられていなさる。御婦人方はマテオ様に夢中だ」
カルロが失言を取りなすべく声を高めたが、マテオに気にする素振りはない。
黄昏の中から光を掬うように、様々な音に耳を傾けている。凸凹道で馬車が大きく揺れた。
「歩くよりはマシだな」
悪臭と揺れで吐き気を催す。左に折れる時、更に速度が落ちた。
「──うあっぐ。何をする! 離せ!」
絶叫はカルロのものだった。馬が嘶き馬車が跳ね、マテオは座席に突っ伏した。口中に苦い唾がわいてくる。
男達の争う声。
カルロの叫びは呻きとなって尾を引き、馬の嘶きにかき消された。
マテオにとっては全てが闇の中でなされることだ。
高鳴る鼓動が頭痛を引き起こす。馬車の内部に手を這わせ、必死に逃げ道を探る。
いきなり外から扉が開かれた。冷気が肌を刺すや細い手首は捕われ引きずり出された。
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