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第十四章:オワリノハジマリ(やっぱりカタカナ)
たった一つ。
妻が欲しがるもので、たった一つ。私が与える事の出来ないものがある。
「ごめん……ごめんなさい…」
寝室で私は彼女に何度も謝罪する。これが初めてではない。
妻は笑顔であるが、少し悲しそうに沈黙したままである。
私達はこうした夜を繰り返していた。
私は、彼女をどうしても、母親にしてやれないのである。
不能な訳ではなかった、少なくとも最初は。
父親というものへの嫌悪が、彼女に精を注ぐ事を拒否させるのである。
避妊具をつけていないと、出来ないのだ。
気付いたのは、結婚してしばらく経ってから。それまで私達はとにかく全てを清算する事に必死で、子供を作ろうなどとは全く考えもしなかった。
働いて、働いて、二人の幸福だけを、とにかく追い求めて。
そうして漸く、互いの薬指に指輪を着けるに至り、充たされて、幸福で。
「ねぇ、ひとつお願いがあるの…」
夕食を摂りながら、ふいに妻が、
「子供が欲しいの」
はにかみながら、そう言った、途端。
私は、吐瀉した。
訳が分からなかった。出し抜けにそんな事を言われ、米が変なところにでも入ったのかと思った。
彼女もそう思ったらしく「ごめんごめん食事中にいう事じゃなかったね」とトイレでぜいぜいと呼吸を荒くしている私の背中を擦ってくれた。
しかしその晩、改めて子供が欲しい事を妻に告げられた時、私の身体は強ばり、悪寒で震えがとまらなくなってしまったのだ。
吐き気を催しながら、耐え難い程の寒気を感じるに至り、自覚する。
子供がイヤなのではない。
父親などというものになる事を、身体が拒否しているのだ。
私の父親というものは、私が息子でなくなる事に、ほっと胸を撫で下ろしたゴミ。
彼女の父親というものは、彼女が理想的でないからと、結局見放したクズ。
彼女が妊娠してしまったら、私は彼等と同じものになってしまう。
ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ。
クズ、クズ、クズ、クズ。
そんなものから産まれた私と彼女が、よくもまあ親になるなどと。
自分達なら上手くいくだなんて、何故?何故?一体どうして、何を根拠に?
私達は、アレから産まれたのだ。
あんなものから、産まれた私達が、一体何を、まるで全て、うまく、何?子供?
私はあんなものと、おなじものに、なれ?なれなんて。それが幸福なんて何で、そんな残酷な事をいうのだろう?
こんな酷い遺伝子を、どうして。
混乱し、彼女の事が急に理解らなくなった。
望まなければ、最大人数が幸福であったはずじゃないか。
子供が欲しいなどと言い出さなければ幸福を選べていたのだ。
夫婦で、二人きりで満足している限り、世界は交換されないのだ。
違う。違う、違う。
彼女は代替卿にいるつもりなのだ。『幸福の選び』が崩壊した時に、では彼女の精神がどうなってしまうか分からない。
彼女の中で、あちらの世界と入れ替わり直した彼女が、どういう状況にあるのか分からない。
なぜ彼女は、わざわざこの幸福を壊すような事を言うのか。
違う、違う違う。
彼女は、代替卿に住まう私ならと、信じているだけなのだ。
こっちの、あちらの世界よりも、少しだけ優良な私ならば、善き父親になれるなどと、思い違いをしているだけなのだ。
彼女が今、代替卿に居るからこそ願っているのだ。
そしてだからこそ、彼女があちらの世界へ帰ってしまわないように『幸福の選び』は果たされなければならない。
妻に与えてやればならないど、どうにか幸福を贈らねばいけないと、私は、憎悪すら孕む心情のまま、頑なに努めた。
心療内科も通った、体外受精も検討した。
しかし、しかし、しかし私の男性器は、受精の可能性を意識した途端、全く萎えてしまうのだ。
避妊具に、こっそり穴を空けられた事があった。後にその告白をされ再び嘔吐する程に酷く怯えたが、それでも彼女を母親にしてやれる、その可能性を得た事に胸を撫で下ろした。
しかし、残念ながら受精しなかったし、彼女に『裏切られた』事を以て、私の男性器は、まるっきり要を足さなくなってしまった。
妊娠する可能性のある性行為そのものに、まるっきり、興奮しなくなってしまったのだ。
その一度きりの企みが、彼女を母親にせしめ足らしむ事の、無かったという事実を以て、私の男性器の機能は、完全に沈黙した。
故に、謝罪する。
もう勃たなくなってしまった事実を、切々と詫びる。
妻の顔はそれでも、張り付いたような笑顔のまま。仕方がないねと、笑顔のまま。
諦めてくれ。
どうか子供は諦めてくれ。
もう君を失いたくないんだ。
嘆き、悲しみ。子供を欲しがる妻のために、苦慮する。
欲しくもない子供を、仕方ないから作る。
その姿は、多分私が最も嫌悪する父親像にそっくりだろう。
そうして、どうやって精液を収集するのかという、腹の底から下らない悩みを抱える日々の中。
「ねぇ、生理がこないの」
妻が、頬を蒸気させて私にそう告げた。
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