9人が本棚に入れています
本棚に追加
1.お仕事紹介します
『まお、分かったかい?』
「はい、大丈夫です。終わったら連絡しますね」
『ああ、気をつけて』
「はい。では、また」
会話が終わり、柔らかな声音の男性から『まお』と呼ばれていた青年は、スマホ画面の『終了』を指で軽く叩いた。すると、ちょうどよいタイミングで「電車がまいります」というアナウンスが聞こえてくる。まおは顔を上げて電光掲示板に視線をやり、各停電車であることを確認した。
各停とはいえ、春先の通勤ラッシュ時間帯は駅構内の人の数がすごい。既に乗車位置のラインの後ろには何人もの人が並んでおり、まおもその列に加わろうとベンチから立ち上がった。その間に尻ポケットへスマホを入れようとしたが、なぜかスルリと手からすり抜けて固い地面に落ちてしまった。
カシャンっと音がする。
(ヤバっ!?)
まおは慌てて落ちたスマホを拾った。
これでスマホが使えなくなったら、先程の通話相手に連絡が取れなくなる。そんなことになったらかなり恥ずかしい思いをこの後まお自身がしなければいけないが、そんな思いしたくないと画面を見た。とりあえずヒビは入っておらず、スマホも動いてほっと息を吐く。
しかし、落ちた時の無機質な音に数人がまおを見ており、気まずさと恥ずかしさが襲う。顔を隠すように度の入っていない眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
こういう時、やはり眼鏡は優秀だなと思いながらトートバッグ型のビジネスバッグにスマホを押し込み、入らなかった尻ポケットを指で触って確認するとなんと指ですら入らない。よくよく触ってみれば、仕立て糸がついたままであった。
再びまおの目元が赤くなる。
(仕方ない仕方ない。普段着ないから…っ。こっちの方が初々しい新社会人、みたいな感じに見てもらえるかもだし)
皺ひとつない下ろし立ての黒のビジネススーツに身を纏い、同色のビジネスバッグを持ち、前髪は長いもののこめかみ辺りからワックスで整えた、いかにもな姿は、春の季節にぴったりだ。誰もまおが、既に新社会人を2年過ぎてるとは思わないだろう。しかも、18才から仕事を本格的にしているので6年も経っており、到底『新社会人』というカテゴリーには入らない。
今日の仕事も別にスーツが必須なわけではなかったが、スーツ姿の方がまおの年齢的に怪しまれない。この時間帯に電車に長く、もしくは何度も乗らなくてはいけない身としては、会社員に見られた方が都合が良かった。
電車が停止線で停まるとアナウンスを待って扉が開く。人がぞろぞろと狭い空間から排出され、その後にまた新しい人がそこに吸収されていく。まおもその流れに合わせ、密室の中に乗り込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!