ルリ

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ルリ

 雲一つない快晴、海は紺碧に輝き、帆は満々と風を孕む。船足は軽い。大型のガレオン船ムーンライト号は間もなく温暖で豊かな港ウェンレアに到達する。ムーンライト号は大貿易商ガーネット商会の所有する商船だ。おおよそ半年を掛けて五つの港を巡り、交易を行う。  ウェンレアでは綿花の栽培が盛んで綿布や糸の仕入れを行う。ムーンライト号の積み荷は主に毛織物と宝飾品だ。どの港でも高く売れるが、最終的には交渉次第になる。そんな交渉を担うのはムーンライト号の船長であり、ガーネット商会社長ジョージ・ガーネットの末弟リオ・ガーネットだ。  若くして船長の座にある彼だが、身内びいきばかりでなく、実力でその座を勝ち取っている。船乗りにしては珍しく大学を出ており、実に八か国語も操る。頭の回転も速く、通訳を介さずに交渉が可能であるという点はかなりの強みだ。  船乗りとしても恵まれた体躯とよく通る声は船長として申し分ない。だが若いから頼りないと思う船員がいるのは否定できない。海の上では方角を失うことのない彼だが、陸に降りると彼はとんでもない方向音痴だ。初めての航海の際に訪れた港で迷子になり、船員総出で捜索されるという事件も起こしている。そんな面も頼りないと思われる原因の一つだ。  船が港に着岸すると彼はすぐさま手続きに移る。そうした手続きや売買の交渉で一日から二日潰れるが、船の停泊は常に余裕をもって一週間程する。本来なら、三、四日で十分に事足りるのだが、ムーンライト号には数人の学者や文化人を乗せており、彼らの研究のために長めに停泊するのだ。商船にしては少々優雅な性質を持つのは彼の性格と兄である社長に溺愛されるがゆえのものだ。  兄弟といっても十五も年が離れているがゆえの溺愛を彼は少々うっとうしいと思いつつも、うまく利用していた。彼の海への渇望を満たすためには兄や父の存在は都合がよかった。  そんな自由を失う運命がこの港で待つことを彼は知らない。  ウェンレアは豊かな港ではあるのだが、数本奥へと入るだけでいかがわしい店が立ち並び、違法な物品が取引されている。無法地帯ともいうべきエリアは野放しにされ、表の市よりも広く、入り組んでいた。  本来であれば、彼のような男が迷い込む場所ではない。いつも兄に付けられた目付け役であり、副船長のライリーと行動を共にしていたが、人込みではぐれてしまった。元より方向音痴である彼はその場に留まってライリーが見つけてくれるのを待つべきだったのだろう。だが、彼は気の向くまま歩き続けた。  たまには好きに歩き回ってみたい。そんな願望もあったのかもしれない。並の男には負けない腕っぷしとひときわ高い身長を持つ彼は若さゆえに少しばかり向こう見ずだった。これまで航海をそつなくこなしてきたことで慢心もあったのだろうか。彼の長い足は無法地帯へと真っ直ぐに進んで行った。  不意と耳にした澄んだ歌声に導かれるように狭い路地を奥へ奥へと止まることなく歩き続ける。これ以上はいけない。理性がそう囁きかけたが、好奇心と衝動とが彼をさらに奥へと導いて行った。きれいに塗られていた白壁はいつしか薄汚れ、崩れ落ちているところもある。  ――壁が崩れているってこたぁ、それだけ貧しくて危険なエリアだ。絶対に近づくな。  ライリーの警告が頭をよぎったが、彼の足は止まらない。路地はさらに狭くなり、道にはゴミが散らばっている。壁についている赤茶けたものが何なのか彼にはわからなかった。だが、不気味に思うには十分だ。鼻を突く異臭は徐々に強くなっている。何のかんのいっても育ちのいい彼にはひどく不潔で危険な場所だとわかっていたが、それよりも歌声が気になった。  そうして歩き続け、やっと開けた場所に出た。そこには大小様々な檻が立ち並び、中には人間が入っている。彼はすぐにそこが違法な奴隷市だと理解したが、歩みは止まらなかった。麗しい歌声の主に会わずにどうして帰れるだろうか。  どんよりと曇った視線がいくつも注がれたが、彼は見向きもしなかった。明らかに身形のいい彼はその場で異様なほど浮き上がっていたが、気に留めることさえない。彼は熱に浮かされるようにその声の元へと急ぐ。 「ここへ来て  わたしと歌って  わたしを連れて行って  ねぇ、わたしの……」  途切れ途切れに聞こえてくるのは恋歌だろうか。外国語ではあったが、彼の知る言語の歌だ。近づくにつれ、その歌声の呼ぶ力は強くなる。彼は歩く速度を上げた。そうしてついにたどり着いたのは鳥かごによく似た背の高い檻の前だった。無骨な檻の止まり木でラピスラズリによく似た色の翼をした少女が高らかに歌っていた。その小さな体から出ているとは思えないほど大きな声は彼の心を強くやさしく揺らす。  少女は彼に気付くと目の前に降り立ち、ふわりとほほ笑んだ。ブルネットに青い目が印象的だった。そのあとのことを彼は何も覚えていない。
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