ルリ

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 その夜、夕食の途中でうとうとし始めたルリは彼が抱き上げて部屋に連れ帰る前に眠ってしまった。まだまだ小さく昼寝が必要だったのかもしれない。幸せそうなほほえみを浮かべて眠る少女の顔を見て彼はふと笑う。  甥や姪もかわいいと思っているが、ルリはまた別だ。彼だけを拠り所にし、愛らしい笑顔をくれる。我が子がいたらこんな感じなのだろうかと柄にもないことを思った。  彼は船長室の大きなベッドにルリを横たえて甲板に出る。昼はうるさいほど乗組員がいるが、今は誰もいない。港にいるからなおさらだ。見張りも必要最小限しか置いていない。彼はふとため息を吐いて手摺にもたれる。  幻惑され正気ではなかった可能性が高いといってもルリを買ってしまったことを彼は後悔していた。まったく記憶がないからほかの可能性はないかと確認したが、檻の鍵に刻まれた金額と財布からごっそり減った金額はぴったり一致していた。盗まれたのであれば財布ごとないか、少額もしくはすべてなくなっているはずでそんな偶然があるはずもない。  人身売買は犯罪だ。買うものがいるから売るものがいて、ルリのような子供がさらわれてくる。その連鎖は断ち切らなければならない。大貿易商であるガーネット商会は法や人を変えることはできなくとも決して手を出さないことで姿勢を示すというのが信条だ。なのに、リオは買う側に回ってしまった。記憶がなくとも罪は罪だ。  奴隷市はひどく不潔で陰惨な場所だった。そんな場所でルリのような幼い子が売買されていたという事実が彼をより動揺させた。汚いものは見ないように育てられ、大人になってさえも守られ、隠されていた陰惨な世界。そこは歩いて行けるほど近く、背中合わせだったのに、見向きもしなかった。それも彼の罪であるのかもしれない。  ルリによくよく話を聞けば、四歳になるやならずのころ、見知らぬ男にさらわれ、流れ流れてあそこにいたのだという。怖くて誰かに助けてほしいと必死に歌っていたらリオが現れたとルリは言った。まだ五歳という幼さで人間の汚い姿ばかり見てきたのだろうと思うと胸が痛んだ。  五つのころ、彼は母を病気で亡くしたが、父や姉兄たちがやさしくなぐさめ大切に守ってくれた。本来幼子はそうあるべきだ。さらわれ、売り買いされるべきではない。  彼が買わなければルリはどうなっていたのだろう。金貨十枚というのは奴隷にしてはかなりの高額なのだという。鍵も複雑で簡単に開けられるものではなかった。買い手が付かない限り、彼ら奴隷は檻から出ることもかなわず、飢えや病で死んでいくのだろう。世間知らずの彼にもそう感じられた。  哀れみで買うのは罪。見殺しにすれば罪悪感がずっとついて回るだろう。だが、彼は彼を見るどんよりとした視線の主たちを誰も振り返って見はしなかった。ルリの歌声に惹かれただけで、理性が勝っていれば振り捨てて自己満足な罪悪感の中に身を置いただろう。  なにが正しく、間違っているのかさえもわからない。国に帰ったら自首し処罰を受けようと思うが、それですべてが償えるとは思えなかった。彼も幼いころに誘拐されかけたことがある。ジョージの獅子奮迅の活躍で事なきを得たが、一歩間違えば彼もああして檻の中にいたかもしれない。檻の中でルリはなにを思ったのだろう。  ふとため息を吐くと、足音が聞こえた。潮騒に紛れていてもよく響く足音はグレースのものだ。彼女はいつも靴の踵に鉄板を入れている。護身用らしい。一度、彼女の気に障ることを言ってしまい、足を思い切り踏まれたことがあるが、骨が折れたかと思った。護身用でなくとも男所帯の船で彼女が自由に生きていくのに必要なものなのだろう。 「なぁに黄昏れてんだい? リオ」 「考えてたんだ。色々」 「あの子のことかい?」  リオは曖昧に笑って、髪を結んでいたリボンを解く。長く癖の強い金の髪が彼の横顔を隠した。 「そうやって言いたいことをなんでも飲み込むのはあんたの悪い癖だ。その癖っ毛で顔を隠せば本心も隠せるってわけじゃないんだよ」  リオはため息を吐いて、その場にしゃがみ込む。 「お見通しだな、グレースは」 「アンタが坊ちゃんの時どころか、会長が生まれたばかりのあんたを見せびらかしに来た時から知ってるからね」 「それ、いつまで言われるんだ?」 「あたしが死ぬまでさ」  グレースは軽く肩をすくめて隣に座った。リオは六人兄弟の末っ子というだけでなく、父が船乗りを引退してからできた子で、すぐ上の兄とも六つ年が離れていた。初めて妊娠中から妻に寄り添っていたからか、年が行ってからの子は格別だったのか、リオには親バカを思い切り発揮していた。グレースはその頃、まだ家の手伝いをしてくれていたからよく覚えているらしい。  彼女は父がガーネット商会の船の沈没で他界し孤児になってから、船医になるまでガーネット家で厄介になっていた。学費もリオの父が出しているから恩義に感じている。その関係かリオのことはいつも気にかけてくれていた。 「それで、後悔してるのかい?」 「記憶はないけど、買ったことは後悔してる。父さんをがっかりさせるだろうし、兄さんが怒るのは目に見えてる。でも、ルリと出会ったことは後悔してない」 「そうかい。まったくあんたはいい男だよ」  リオは軽く肩をすくめる。馬鹿正直で騙されやすくて都合のいい男だから心配だと言われたのはいつのことだったか。 「あの後、もう一度ルリの歌を聞いてみたんだ。最初聞いたときは引き寄せられるような意識がぼんやりするような感覚があったんだけど、船で聞いたときはなかった。ルリはそれだけ必死に助けを求めていて、俺が選ばれたってことなんだと思う。だから、あの子はちゃんと守ってやりたい」  不意に頭を撫でられて思わず顔を赤くする。 「なんだよ」 「あのチビもいつの間にかでかくなったもんだと思ってね。あたしはあんたのこと信じてるよ」  何と答えたらいいかわからず沈黙するとグレースはふと笑って立ち上がる。 「あたしもできるだけ手伝うから子育て、がんばんなよ。答えはおのずとついてくるもんさ」 「そう、だな……船には幸いにもいい先生も多いからな」 「あの頭でっかちの連中はアンタが連れて来たんじゃないか。人望があるのは買ってるんだよ、リオ」 「ああ、ありがとう」  ムーンライト号に乗っている学者や文化人は彼の人柄を信頼して集まってきた者たちだ。航行中は船の仕事を手伝い、停泊すれば調査や情報収集のために散っていく。彼らのために長い停泊期間を設けているがゆえに彼がこんな厄介ごとを拾ってきたわけなのだが。 「ちゃんと寝ろよ。子供は早起きと相場が決まってる」 「そうだな」  ガーネット家の大邸宅は両親や姉兄の家族どころか親戚まで一緒に住んでいるから朝は子供たちに叩き起こされることが多い。十七人いる甥姪のうち、寝坊してくるのは十歳より上の子たちと二人だけだ。日の出とともに起きてきては走り回るのが子供というものだ。  グレースはもう一度リオの頭を撫でて去って行った。子ども扱いはそろそろやめてほしいと思いつつも嫌いではない彼だった。
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