ルリ

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 翌朝、彼を叩き起こしたのはルリではなかった。戸を激しく叩く音に思わず飛び起きる。停泊していても船では緊急事態が付き物だ。 「なんだ、嵐か!?」  上半身裸のまま慌ててドアを開けると、キャロルがいた。仕立屋の彼が船の異変を知らせに来るはずがない。リオはほっと息をつく。 「キャロルか……どうした?」 「早くからゴメンなさいね、船長さん。ルリのお洋服ができたから早く着せてあげたくて」  彼の大きな手の中にあるふりふりでふわふわのそれがルリの洋服なのだろう。 「まだ寝てる」  寝乱れた髪をかき上げながらベッドを振り返るとルリは目をムニュムニュとこすっていた。ノックの音と彼が飛び起きた振動で起きてしまったのだろう。 「あら、起こしちゃった。ゴメンなさいね、ルリ」  ルリはぽやんと小首を傾げて、両手の親指を立てる。 「おーけぇ」 「あらやだ、アタシの真似?」 「そうらしい。真似で少しずつ言葉を覚えようとしているようだから気を悪くしないでやってくれ」 「いいわぁ。最高よ。ブラァボ!」 「ぶらあぼ」  彼の大仰なジェスチャーと話し方は真似しやすいらしい。同じように大きく手を振りながらルリが繰り返した。彼はあっという間にルリを着替えさせて満足げに腕を組む。 「やっぱり最高にかわいいわ!」 「ぶらあぼ?」 「ええ、ブラァボ! 船長さん、どう?」  ルリが着せられているのはふんわりとボリュームのある白いズボンにルリが選んだピンクの花柄の布で作られたチュニックだった。どこか中東の国を思わせるデザインがルリのエキゾチックな風貌とよく調和している。ルリも満足げだ。 「いいな。すごくかわいい」 「カワイ?」 「そうかわいい」  意味も併せて教えてやるとルリは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねて翼をパタパタと動かした。 「さすがはキャロル」 「アタシ、女の子の服を作るのが一等好きなのよ。あと何着か作ってあげていいのよね?」 「ああ、頼む」 「でも、今日はとりあえず寝るわ」  彼は一つ大きなあくびをした。夜通し縫っていたのだろう。いつも鮮やかなアイシャドウは精彩を欠き、彼の黒い肌にも疲れからかしわが浮いている。 「急がせて悪かったな」 「いいのよ。好きで勝手にやったんだもの。お代は船長さんに付けとくわね」 「ああ」  彼はあくびをしながら部屋を出て行った。彼は仕立ての腕もセンスも確かだが、その分値が張る。それは当然のことで彼は気にしていない。だが、相応の枚数を作ってくれたら止めなければならないだろう。  一枚一枚の値が彼にとっては大したことがなくても、枚数がかさめばそれなりになる。金が水漏れのように出続けるのは商人として看過するべきではない。対価と物は等価でなければならない。だが、金に糸目をつけず使い続けるのは貴族の仕事であって、商人である彼の仕事ではない。それに記憶はないが大きな出費もしている。旅程はまだ半ば、無駄遣いはできない。  リオはシャツを着ようとして彼が置いて行った青いストライプのシャツを手に取り、愕然とする。数日前、カギ裂きを作ってしまったから直してもらおうと彼に預けたもので、直してくれたのだとばかり思ったが、シャツは原形をとどめていなかった。妙にたくさんフリルが付き、小さくなっている。どうやらルリのエプロンに作り替えられてしまったらしい。直せないほど破けていなかったはずだが、そのシャツは彼には異様に不評だった。そのせいだろうか。 「落ちたの」  ルリが小さなメモを拾ってくれた。 「ああ、ありがとう」  メモには彼のかわいらしい丸文字でルリに似合いそうだからエプロンにしたと書かれていた。サービスとも書かれていたが、そうでなければあんまりだ。リオはため息を吐いて、別のシャツを出す。気に入っていたのだが仕方がない。エプロンにされた哀れなシャツはルリに着せてやる。確かに青い翼と相まってルリにはよく似合った。 「朝食に行こう。きっとシモンがまたおいしいご飯を作ってくれている」 「ぶらぁぼ!」  使うタイミングが合っているような、間違っているような返答に彼はくすりと笑う。まったくかわいらしくて仕方がない。色褪せたリボンで髪を結んでから部屋を出る。  出港を控えた船内には人がほとんど戻ってきている。食堂の喧騒は留まるところを知らない。リオはルリがぶつかられないように抱き上げて席に向かう。すると厨房でシモンが手を振っていた。 「なんだ?」 「ルリに作っといたんで、これをあげてくだせぇ」  彼が慌てて持ってきたのは子供が喜びそうな料理が乗った皿だった。普段の朝食をアレンジしてくれたのだろう。 「ありがとう、シモン」 「あいがと」 「言葉覚えたのか。えれぇぞ、ルリ」  彼はルリの頭を軽く撫でてすぐに奥へと引っ込んでいった。この時間帯の料理番は誰も忙しくてゆっくり話している暇などない。食事時の厨房は戦場といったのは誰だったか。  空いていた席に座り、ルリにスプーンとフォークの持ち方をもう一度教えてから、彼も適当に食事をする。硬いパンに数種類のおかずがムーンライト号の定番だ。今は停泊中だから食材が新鮮でありがたい。  どんな身分のものも同じ食事をするというのがガーネット商会の船の決まりだ。大皿に盛られた料理を必要な分だけ食べる。乗ったばかりで出自が貧しいものだと食べ過ぎて倒れることもあるが、慣れればそんなことはなくなり、イライラしているものも減る。空腹と寝不足は人の性格を悪くするからと彼は基本的に禁止している。  ガーネット商会の船に乗れば一生安泰。そんな風に言われるガーネット商会の船の船長であることは彼の誇りでもある。高祖父が礎を築き、祖父が大きくし、父が守り、兄が受け継いだ会社だ。そんな会社の面汚しになるかと思うと気が滅入るが、今は考えるだけ無駄だ。 「リオ」  不意に袖を引っ張られて視線を落とすとルリはほとんど食べ終わっていた。量が多かったのに早すぎる。同い年の姪はもっと時間がかかっていたはずだ。飢えた環境にいたものは急いで食べる癖がついていることも多い。改善されるよう気を付けなければとリオは心に止める。急いで食べると喉に詰める可能性もある。 「どうした?」 「おいしい、シモンに言う」  シモンはよくしてくれるから伝わる言葉を覚えたいらしい。リオはふと笑って少女の小さな口の周りについた汚れを拭ってやる。 「おいしいはヤミィだ。ヤミィ」 「やみぃ!」 「そうだ。上手だぞ」  簡単な言葉から少しずつ覚えて行けばいずれほとんどの会話を共通語でできるようになるだろう。ルリは話したいという意欲が強いから、それほど時間は必要なさそうだ。まだ片言だから、ともすれば今話している言葉を忘れてしまうかもしれない。  食事を再開したルリを横目にリオはくだものを口に運ぶ。新鮮な果物が食べられるのは寄港時と出港直後のわずかな期間だ。壊血病を防ぐには果物が有効であることは知られているが、船では確保し続けるのは難しい。長くても一か月程度で次の港に着く航路ではあるからそこまで心配いらないとも聞くが、船での病気は命取りになることもある。用心するに越したことはない。ルリは幸い果物が好きらしい。ほとんど食べ物がなくなった皿にオレンジを剥いて乗せるとルリは嬉しそうに口に運んだ。 「お腹いっぱい」  ルリは満足そうにため息を吐いた。少し多いように見えたが、ちょうどだったらしい。席を立とうとした時、一人の男が二人の前に座った。 「ああ、ルドヴィク、帰ったのか」 「昨夜な。で、その子が噂のお嬢さんかい? リオ」  そう言って男は口ひげを撫でつける。ルドヴィクは民俗学の学者だ。前回の航海から行動を共にしている。いつも船への帰還がぎりぎりだ。今回は比較的早く帰ってきてくれたらしい。 「噂になってるのか?」 「そうだね。リオが青い翼の美しい少女を連れ帰ったって大騒ぎ。ライリーもご機嫌斜めときたら直接ご機嫌伺をせずにはいられないだろう?」  リオは苦笑いを浮かべる。ライリーはあれからずっとむっつりしている。怒っているのとは違うが、どうするべきか考えてくれているのだろう。 「そうか。名前はルリ・メイリー、五歳。東方の言葉を話す。ライリーはチィヤンだっていうけど、本人はわからないって言ってる」 「ふぅん」  ルドヴィクはルリの目をじっと見つめる。ルリは怯えたようにリオの陰に隠れた。 「まだ小さいんだ。威圧するようなことはやめてくれ」 「ああ、いや、チィヤンなら虹彩に五芒星に似た模様があるはずなんだ。それが見たくて」 「そうなのか。ルリ、ちょっとお目目を見せてくれないか?」  リオが頼むとルリは目を見せてくれた。じっと見つめると確かに虹彩に五芒星に似た模様があった。 「右目にはあるけど、左目にはないな」 「ああ、片目にあるものらしい。番は鏡写しになるように反対の目にあるんだそうだ。チィヤンで間違いないだろう。翼も小さいし、東方の言葉を話すのもそうだ。それにその美貌。将来は恐ろしいほどの美女に育つだろうな」 「不純な目でルリを見るな」  ぎりと睨むとルドヴィクは慌てて顔の前で手を振った。 「あ、いや、すまん。そうやって見るものがチィヤンを売り買いしている。もはや百前後しかいない種族なんだ。だから珍しくてつい」 「そうなのか。大変な運命を背負ってるんだな……」 「お前に拾われたのはある意味幸運だろうさ。大事にしてやれよ。基本は普通の子供と同じでいいんだから」 「ああ、当然だ。基本はってことは何か違うことがあるのか?」 「満月の夜に花の蜜を飲ませるなんて話があるが、眉唾だ。はっきりわかるのは翼の手入れが必要なくらいか」 「そうか、ありがとう。わかることがあったらまた教えてくれ」 「ああ、帰国すれば文献があるから届ける」 「助かる」  もう少し調べたそうにしていたがルドヴィクは去って行った。ルリが怯えた態度を崩さなかったからだろう。彼は好奇心が先走りすぎるきらいがあるが、引き際はわきまえている。 「驚かせてごめんな。ルドヴィクはいい奴なんだけど、とっつきにくくて」 「平気」  ルリはぎゅっとしがみついて来た。抱き上げて皿を片付けるついでにシモンに声を掛けさせる。シモンは出てくる暇がないようだが、笑顔で手を振ってもらったことでルリは少し元気が出たようだった。 「さて、今日は出港の日なんだ」 「しゅっこう?」 「ああ」  リオはルリを甲板に連れ出す。 「マストに帆……白い布が結んであるだろう?」 「うん」 「あれを広げて風を受け、海を進むんだ」 「すごい!」  目をキラキラと輝かせたルリの頭をやさしく撫でる。元気を取り戻してくれたらしい。 「今日は少し忙しくなってかまってやれないが、できるだけそばにいてくれ」 「うん。ルリ、リオと一緒」  出港準備が始まると彼は忙しく指示を出していたが、ルリはちゃんとそばにいた。帆がいっぱいに風を孕み、順調に進み始めたのを確認して彼はふと息をつく。港を出てしまえばある程度は任せられる。 「ルリ、いい子で待てたな」  ルリは得意げに笑う。 「リオ、これなに?」  彼がずっと回していた大きな舵輪が気になったらしい。 「舵輪だ。船の進む方向を調整する大切なものだ。絶対にいじるなよ」 「うん。ぐるぐる」  ルリは彼の真似をして舵を回すような仕草をした。彼はくすりと笑って少女の頭を撫でる。 「外海に出ると波や風が高くなる。覚悟しとけよ」 「あいやいきゃぷてん!」  ルリは元気よく答えた。ルリはどんどん言葉を吸収していく。彼のそばに座っている間にも船員たちの言葉をよく聞いていたのだろう。ここに連れてきてまだ二日目だというのに共通語をずいぶんと覚えていた。リオにわからない言葉をよく聞いてくるが、同じ言葉を聞くことがない。聡い子なのだろう。 「次に陸に上がるのはおおよそ十日後だ」 「とおか?」 「海の上で朝を手の指の数だけ迎えるんだ」  ルリは小さな両手を広げて見せてきた。 「そうそう、それが十だ」  ルリはそうして興味があることを次々吸収していく。船に戻ってきた学者や文化人たちもルリの教育に協力的だ。ルドヴィクのように嫌われるものもいるが、彼がそばにいればおおむね問題なかった。  ルリの存在は意外なほど船員たちの士気を上げてもいる。故郷に妻子を置いてきているものも多いから子供の姿に心が慰められるのかもしれない。 「リオ、あれは?」  ルリが不意と海面を指さした。銀色の身体に大きな胸鰭がきらりと光る。 「ああ、あれはトビウオだ。翼のような胸鰭を広げて飛んでいるんだ」 「すごい!」  ルリは翼を広げて飛び跳ねる。真似をしているらしい。本来チィヤンはその翼でもって大空を舞い飛ぶものらしい。飛ぶには翼が小さいようにも見えるが、彼らにはそれが標準だという。だが、ルリは飛ぶことができない。ルリも飛びたいのか一生懸命羽ばたくこともあるが、身体が浮くことさえなかった。親元から早くに引き離されてしまったから飛び方を知らないのだろうと思うと哀れで、可能なら親元に返してやりたいと彼は思っている。だが、今回の航路では通らないエリアで連れて行くことはできない。  問題は山積しているが、船は快調に波間を進む。
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