2人が本棚に入れています
本棚に追加
/23ページ
出港から一週間ほどが過ぎ、航海は順調すぎるほど順調だ。予定よりも早く次の港に着けるだろう。
ルリはすっかり共通語で話すようになり、元々この船の一員だったかのように馴染んでいる。幻惑の可能性が高いことから警戒していたライリーも徐々に打ち解け始めた。無邪気で愛らしい幼子をそう邪険にし続けられるものでもないらしい。
「入港の歌をルリに歌わせるのも悪くないかもしれないな」
リオとライリー、それに数名の航海士で海路の確認をしている時にライリーが不意と言った。入港の歌は港に入るときに必ず歌われるもので、敵意がないことを示し、港ごとに違った歌がある。これまではリオが歌っていたが、船に乗る以上ルリにも役割が必要だと彼は言いたいのだろう。
船に役割のないものは置いておけないという側面もある。ルリは幼く、リオが面倒を見ているから大目に見られているが、先はまだ長い。入港の歌であれば幼いルリにも難しいことではない。ルリは身体の小ささからは想像もできないほど遠くまで声を飛ばせるから適任だろう。
「そうだな。覚えさせてみよう」
チィヤンの幻惑の力は特定のメロディを歌わない限り発動しないことはルドヴィクが教えてくれた。ルリが時折ぼんやり歌っているのがそのメロディらしいが、誰も幻惑されていない。あの日はそれだけ必死に助けを求めていたのだろう。
「ルリの歌声を聞いたら港の奴らもうっとりしちまいますよ」
新人の航海士がくと笑った。
「そうだな。じゃあ、航路は確認した通りに。次は異変がない限り、いつもの時間に」
航海士たちは散って行ったが、ライリーだけが残った。
「何か問題でも?」
「いや、お前も立派になったもんだと思ってな。昔はぴーぴー泣いてやがったのに」
リオの長兄ジョージの親友でもある彼も当然のようにリオのことは赤ん坊のころから知っている。リオはよく泣く子供だった。やさしい子だから仕方がないと姉たちに庇われるのも気まずかったのをよく覚えている。
「昔の話じゃないか。ライリー、君が雑談のためだけに残るとは思ってないんだが?」
ライリーは軽く肩をすくめて口を開いた。
「ルリのことだ」
「ルリの? 何か問題でもあったか?」
ルリはすっかりなじみ、こうした会議の時は預けているが、手に負えないと連れて来られることもない。ライリーの口ぶりは少しでなく不思議だった。処遇や今後のことはとりあえず保留にし、話題にしないと決めたのは彼だ。
「近頃、お前さんがそばにいない時に大きな声で歌うようになったんだ。気付いてないか?」
「いや……そばにいるときは囀るみたいに歌っているが、頼まない限り大きな声は出さないように話したぞ?」
ルリは聞き分けがよく、彼が一度話したことは必ず守ってくれる。幼い子供にしては聞き分けが良すぎて気持ち悪いとグレースに言われた。だからルリが言いつけを破って大声で歌っているというのは信じがたかった。
「そうか。あれは歌っているというより、泣いているのかもしれない。なんと言ったらいいか必死に親を呼んでいるようなそんな歌なんだ。聞くだけでこっちまで泣きたくなる」
「そうか」
リオはふとため息を吐く。そう言われれば心当たりがないわけではない。預ける時間が短くても迎えに行くとぶつかるように抱きついてきて、しばらく抱っこしていないと機嫌が悪い。まだまだ幼いから親代わりと認識しているリオがそばにいないのが耐えられないのかもしれない。
「近頃、預ける時間が長いと拗ねたり、泣いたりするからそのせいかもしれない。話をしてみるよ」
「そうしてくれ。あの歌声を聞くとかわいそうで泣き出す奴までいるらしいんだ」
「すぐに対処する」
リオは急いで階段を降り、キャロルの部屋に向かう。ルリの歌声が船員に影響を与えているなら大問題だ。キャロルの部屋からは楽しそうな笑い声が漏れている。彼はよく笑うから、ルリもつられてよく笑う。彼のそばなら大丈夫なのだろうか。
だが、ドアをノックしようとしたその時、笑い声が途切れ、ルリの悲しそうな歌声が響き始めた。ライリーが言っていたように泣きたくなるほど悲痛な歌声だ。リオは驚いてドアを開ける。
「リオ!」
ルリは歌うのをやめて彼にしがみついた。キャロルは明らかにほっとした顔をした。これが初めてではないのだろう。
「ああ、来てくれてよかった。ルリがそれを歌い出しちゃうと止められないのよ」
「そうだったのか。すまないな」
「仕方ないわ。ルリはまだちっちゃいんだもの。ある程度歌えば落ち着くみたいなんだけど、それまではなにをしてあげてもダメで、アタシまで悲しくなっちゃう」
彼は涙を現すように頬をつうとなぞる。
「ライリーに言われて様子を見に来てよかった」
リオはしがみついているルリを抱き上げて、やさしく背を撫でる。
「ルリは寂しいのか?」
少女はリオの首にしがみついてこくりと頷いた。
「俺がそばにいれば寂しくないか?」
ルリはもう一度頷く。
「そうか。他に誰かいても俺がいないと寂しいのか?」
「リオだけ。特別」
「そうか」
リオはルリの額と頬に口づけを落とす。
「俺も仕事があって忙しいから我慢してほしいってお願いしたな?」
「うん」
ルリはしょんぼりと頷いた。
「みんなルリのその歌を聞くと悲しくなってしまうんだ。歌うのを我慢できないか?」
「できない。ここ痛い。歌わないと苦しい」
「そうなのか。困ったな」
彼がふうとため息を吐くとルリが不意と髪を結っていたリボンを引っ張った。すっかり色の褪せ切ったそれは擦り切れていないだけだ。
「これ、ちょうだい」
「こんな色褪せたのじゃなくてきれいなのをキャロルにもらった方がいいだろ?」
到底ルリが欲しがるようなものには見えない。だが、ルリはリボンを離そうとしなかった。
「これがいい。これがあったら我慢できる」
ルリが強情なのは初めてでリオは戸惑ったが、解いて渡してやる。ルリは満足そうにそのリボンを黒髪に結んだ。まだ不器用だから傾いてひしゃげている。
「リオ、そばにいる」
彼の代わりにすると言いたいらしい。キャロルが軽く息をついて、歪んでいた結び目を整えてくれた。
「まったく船長さんがきれいなリボンをしててくれたらよかったのに」
その言葉にリオは曖昧に笑う。船の上だとリボンは強い日差しですぐに色褪せてしまうから、彼は色の褪せたリボンばかりを使っていた。たいていの船乗りがそうで故郷から船出するときは色があっても航海も半ばを過ぎればほとんど元の色がわからなくなる。
「何本かリボンを譲ってくれ。何日か使えばルリも納得して交換してくれるだろ」
「そうね」
キャロルはルリが好みそうなかわいらしいピンクのリボンで彼の髪を結ぶ。彼に似合う必要はないと判断されたらしい。最終的にルリのものになるのだからそれで構わないとは思うが、少しばかり恥ずかしい。ついでにポケットに押し込んでくれたのもかわいらしい色のものばかりだ。
「それにしてもルリは船長さんが大好きね」
「大好きなの」
「俺も大好きだぞ、ルリ」
ルリは嬉しそうに笑ってリオの頬にキスをした。キャロルはくすくす笑ってルリの頭を撫でる。
「ますますかわいくなっちゃって」
「まったくな。ところでルリ、お前に一つ頼みたい仕事があるんだが、引き受けてくれるか?」
「おしごと!」
ルリは嬉しそうに叫んだ。自分だけ役割がないのが少し寂しかったのかもしれない。何かと手伝いたがる年頃でもある。
「港に入るときに歌をうたうお仕事だ。できるか?」
「できる!」
ルリは自信満々に胸を張った。
「あら、入港の歌をうたわせるの?」
「ああ。適任だろ?」
「そうね。船長さんのテナーもよかったけど、ルリのソプラノもきっと素敵ね」
ルリは得意げに笑った。
「特別かわいいドレスを作ってあげるから頑張ってね」
「うん!」
軽く手を振ってキャロルの部屋を出る。彼への支払いがまた増えたとぼんやり思ったが、些細なものだ。
「お歌、リオが教えてくれるの?」
「ああ。港ごとに違うから毎回教える。今回の港の歌は簡単だ」
ルリをピアノの椅子に座らせて埋もれかけていた楽譜を引っ張り出す。彼もかつてその楽譜で歌を覚えた。今も時折確認のために開くからボロボロになってしまっている。ピアノの譜面立てに楽譜を立ててルリの隣に座る。
彼はもともと音楽が好きで、ムーンライト号にピアノを運び込ませたのも彼だ。幼いころから使っているウォルナットのグランドピアノは今も美しい音色を響かせる。指を慣らすために軽く弾く。この数日ピアノに触れていなかった。
「これなに?」
ルリは楽譜を指さしていた。これまでもピアノは弾いていたが楽譜を出すことがなかったから不思議に思われたらしい。
「楽譜だ。音符、あー、この印が音の長さや高さを教えてくれるんだ。これの通りに演奏すれば誰でも同じ曲を奏でられるんだ」
「すごい」
ルリは食い入るように楽譜を見つめた。これまで本能で歌っていたり、聞いたものを覚えたりしていただけなのだろう。それもチィヤンであるがゆえのものらしい。
「ルリ、俺がメロディを弾くから真似して歌ってごらん」
「うん」
リオはピアノを弾きながら歌詞を教えてルリに歌わせる。
「狭き澪を進み
岩礁を越えて
我らは来たり
ガラスと金の輝く港
麗しき港ディアール
懐かしき友よ
我らを迎えよ
我らが友よ」
ルリは最初こそまごついたがすぐに覚えてしまった。物覚えがいいとは思っていたが、歌はそれどころではなさそうだ。何回か練習させるとルリの歌声がキラキラと輝き始めた。まだ五つの幼い子供の歌声とは思えないほど透き通った歌声は天賦のものを感じさせる。それがチィヤンという種族のものであるからか、ルリが特別なのかはわからないが、リオはその歌声が愛おしかった。
ついと声を重ねると互いの歌声が響きあい得も言われぬハーモニーが生まれた。いつまでも歌っていたいと思ってしまうほどに心地いいもので胸が満たされていく。目を見かわすとルリはふわと笑った。リオも思わず笑みを返す。これほど愛しいものが在るだろうか。
「上手に歌えたな」
頭を撫でるとルリは得意げに笑って胸を張った。
「リオ、ルリもこれ弾きたい」
これまでそんなことを言わなかったが、楽譜を見て興味がわいたのだろう。
「いいぞ。教えてやろう」
船乗りにとって音楽は友だ。楽器ができずとも歌うもの、歌が苦手でも手拍子を打つもの。様々な方法で誰もが音楽に乗る。リオが船にピアノを運び込ませたのもごく自然だった。ルリが歌っていると船員たちが集まって大合唱になっていることも少なくない。
リオはルリを膝に座らせて指の位置を教えて行く。
「ここが始め、ド」
ルリは小さな親指で鍵盤を押した。
「ど」
「レ」
「れ」
「ミ」
「み」
「ドレミ」
「ど、れ、み」
まだ力が弱いからあまり音が出ていない。それでもルリは楽しそうでリオはうれしくなった。
「そう、上手だぞ。少しずつ覚えて行けばいいからな」
「うん。どれみ」
「そう、ドレミ」
幼子の真剣な横顔が愛おしい。ルリは興味のあることをどんどん吸収していく。学者たちも目を見張る早さだ。もし、このままルリを育てることが許されるなら大学にも行かせてやりたいと彼は気の早いことを考えている。まだ帰国した後のことさえはっきりしないのだが。
しばらくして飽きてしまったのか、ルリは彼の膝を下りた。まだ幼いのだから仕方がない。勉強も遊びの合間にしているようなものだ。ルリはストームグラスを不思議そうに覗き込んだ。
「葉っぱ!」
その言葉にリオはハッとする。これまでルリがストームグラスにまったく興味を示さなかったのは好天が続き、ただの透き通ったガラス瓶だったからだ。彼が覗きこむと、ストームグラスは水面に至るまでぎっしりとシダの葉状の模様で埋め尽くされていた。これは少々の悪天候では済まないだろう。
航海中の天候予測はかなり重要だ。熟練の航海士でさえ天気を読み間違うことはある。ストームグラスでの天候予測もそれほど当てにならないとはいわれているが、リスクは少しでも回避したい。リオは見張り台に上る。見張り台には中堅の航海が立っていた。
「嵐が来るかもしれない。雲は見えるか?」
「今のところ見えません」
リオは双眼鏡を取って周囲を見回す。かなり遠いが船の後方に黒い雲が見えた。風向きの関係上進行方向が同じらしい。横に逸れようにも規模がわからない以上無駄足になる可能性もある。逃げ切りたいところではあるが、状況次第になるだろう。リオはすぐに見張り台を下り、専用の鐘を鳴らして、副船長のライリー以下航海士をすべて呼び集める。
「嵐が後方から迫っている。逃げ切れるかどうかは賭けだ。気を引き締めてかかれ」
彼らの力強い返答に矢継ぎ早に指示を出す。嵐の進路がそれることを期待しながら可能な限り逃げる作戦だ。だが、ストームグラスの様子から難しい規模であることはわかっている。風が変わり、嵐の中に入ってしまったら錨を下ろしてやり過ごすほかはない。
操舵台に上るとルリが抱きついてきた。置いてきてしまったから困って操舵台で待っていたようだ。忙しい時、彼は大体操舵台にいるから覚えていたのだろう。
「置いてってごめんな、ルリ。これから嵐が来るかもしれないけど、みんな慣れているから大丈夫だぞ」
リオは少女を抱き上げて片手で舵輪を握る。
「晴れてるのに、嵐来るの?」
「ああ、さっき葉っぱの模様を見ただろう?」
「うん」
「あれは嵐が来ることを教えてくれる印なんだ」
ルリはわからないというように小首を傾げた。ストームグラスの説明は少しでなく難しい。
「とにかく嵐が来るってことだけわかってくれればいい」
「わかった」
時間の経過とともに風が強くなり、風向きが変わった。一気に船足が落ち、黒い雲がすぐそこまで迫ってきた。やはり逃げ切るのは難しいようだ。夕方になるとぽつぽつと雨が降り始めた。夜には本格的な降りになるだろう。風もかなり強くなってきた。リオは海図を確認し、錨を下ろさせる。ここからは嵐との根競べだ。
ルリには部屋で大人しくしているように伝えて嵐の備えをさせる。あまり怖い思いをさせたくないが、航海に嵐は付き物だ。飛ぶものは片付けられ、帆はしっかりと結ばれた。彼は最終点検を終え、一度中に入る。今夜は長い夜になるだろう。ルリは色褪せたリボンを握り締め、彼の毛布にくるまって震えていた。
「怖かったな」
抱き上げて背中をやさしく撫でてやるとルリはきゅっと抱きついてきた。
「ルリ、ちゃんと我慢した」
「我慢できたな。ルリ、特別に嵐をやり過ごすとっておきの方法を教えてやろう」
「とっておき?」
リオはにっと笑って見せる。彼が船長である限り転覆や沈没などありえない。
「準備が全部できたら」
「できたら?」
ルリは期待に目を輝かせる。
「嵐の音に負けないくらい騒ぐんだ!」
「騒ぐ!」
高く持ち上げるとルリは悲鳴のような笑い声をあげた。
「まず飯だがな」
もうすべての指示や手配は終わっている。だが、本格的に嵐に入ったら彼は操舵台から動けない。だから今のうちにルリを思い切り騒がせて眠らせてしまうつもりだった。眠っていれば嵐の時の激しい揺れや轟音を知らずに済むだろう。すでに船の軋む音や風の音は大きくなってきている。
食堂にはすでにかなりの人数が集まっていた。明日のために待機を命じたものや、持ち場についているものはすでに食事を終えていていない。リオ同様、長い夜に備えるものや手持無沙汰なものがここにいる。
こういう夜は厨房の火が早く落とされるから皆心得ている部分もある。嵐の夜を大騒ぎしてやり過ごすのはもはや恒例だ。食事を済ませ、彼が歌い始めると、誰も彼もが一緒になって歌い出した。ルリも大喜びで歌い出す。
誰かがギターやバンジョー、太鼓を持ち出した頃合いを見計らってリオはルリの手を引いて踊り出す。簡単なステップをルリもすぐ覚えて楽しそうに踊り出した。
「いいぞ、船長! ルリ!」
船員たちに囃されながらリオは気ままに踊る。ルリはそんな彼にくるくる回されたり、軽く投げ上げられたりできゃらきゃらと笑った。
「ブラボー!」
いつの間にか人だかりが大きくなっていた。リオはルリをくるりと回して抱き上げる。
「最高のパートナーだな」
「さいこう!」
彼らが座るとまた別のものが躍り出した。嵐の夜はそうして更けていく。ルリがうとうとし始めたのを見計らって寝かしつけるとキャロルに後を頼む。
「船長さんのお部屋に寝かせておけばいいかしら?」
「ああ、頼む」
「いいのよ。頑張ってね、船長さん」
「ああ」
喧噪の中を出ると激しい風雨の音や船の軋む音が聞こえてきた。騒いでいる間は気にならなかったが、揺れもかなり激しくなっている。リオは自分の持ち場に駆けあがる。嵐との真剣勝負の始まりだ。
大きな嵐ではあったが、明け方近くにどうにか抜けた。寝ずの番になった船長以下航海士と甲板係は疲れ切ってそれぞれの寝床に倒れこんだ。すでに次の指示は出してあるし、副船長のライリーと熟練の甲板長がいるから心配はいらない。リオはそのまま眠りに落ちた。
彼がふと目を開けると真っ青な瞳がじっとこちらを見ていた。晴れた日の海のようなのに星が一つ浮かんでいるのはどうしてだろうとぼんやり思う。それがルリの目だと理解するのにたっぷり時間がかかったのは徹夜明けだからだ。彼は呻きながら髪をかき上げる。嵐の夜の徹夜は堪えるものがある。
「ルリ、起きていたならみんなのところに行っていてもよかったんだぞ?」
「ここがよかったの」
「そうか」
リオはベッドを出て、身支度を整える。今朝がた濡れたままベッドに倒れこんでしまったから。服がゴワゴワと張り付いて気持ち悪い。髪も風と雨でぐしゃぐしゃだ。身体を丁寧に拭いて、髪を念入りに梳かす。昨日貰ったかわいらしいピンクのリボンを結ぶとルリが色褪せたリボンを差し出して来た。
「ん? なんだ?」
「ルリも結ぶ。リオと同じ」
「キャロルみたいにかわいくしてやれないぞ?」
ルリの長い髪はいつもキャロルがかわいく結い上げてくれていた。
「リオがいい」
だいたいにおいてリオがいいと言われることがまんざらでもない彼である。リオは苦労してルリの量が多くて真っ直ぐな黒髪を結ぶ。同じがいいと言われたから低い位置で一本にしたが、ルリの黒髪は多くてコシが強いから同じには見えない。リオの金髪はコシのない癖毛だ。
「これでいいか?」
あまりうまく結べているとは思えなかったが、鏡を見たルリは満足そうにうなずいた。満足してもらえたなら良しとしよう。近頃ますますかわいらしく、愛おしく感じるようになったのは気のせいではない。
「シモン、サンドイッチ作ってくれてあるの」
「そうなのか」
時計を確認すれば十時を回っていた。思ったより眠れたらしい。
「ルリもおやつの時間だな」
「おやつ」
嬉しそうに翼をパタパタさせたルリを抱き上げて食堂に向かう。吹き返しもそれほどではないらしく、船は安定して航行している。昨夜の嵐が嘘のようだ。
腕の中でルリは囀るように歌い始めた。少女は話すとき以外、ほとんど歌っている。翼もあいまって小鳥のようだとも思っているが、無邪気で愛らしい。
「船長起きられたんで」
食堂に入るとシモンがすぐに気づいてくれた。
「ああ、サンドイッチを作ってくれてあるとルリから聞いたんだが」
「へい、ありますよ。ちゃんと伝えられてえれぇですよ、ルリ」
シモンはサンドイッチと一緒にルリのためのクッキーを出してくれた。
「クッキ、クッキー、シモンのクッキー、チョコチップ」
ルリは歌うように言って、シモンと小さな拳をぶつける。それが二人の最近の挨拶だった。
「午後はドライフルーツのケーキ」
「やったー!」
ルリは嬉しそうに笑って両手を上げる。
「ルリはかいらしなぁ」
シモンはやさし気に目を細めた。稼ぎがいいからと船に乗っているが、せいぜい半年に一度帰れるかどうかの暮らしだから故郷の妻子が恋しくなる日も多いらしい。彼の胸に揺れるペンダントには家族の肖像画がおさめられている。
ルリと離れたら彼のように懐かしみ、会うたび知らないおじさんと泣かれるようになるのだろうか。それは少し寂しいと思いかけて、その考えを追い払う。そもそもルリをこのままそばにおいていいはずがない。ルリは故郷に返してやらなければいけないのだ。黙々とサンドイッチを口に詰め込んでいるとルリが顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「リオ、ここがぎゅーってしてる」
眉間にしわが寄っていると言いたいらしい。彼はふと息をついて笑って見せる。
「少し考え事をしていたんだ。ルリは故郷に帰りたいよな?」
ルリは困った顔をして頭を振った。
「ルリ、リオとずっと一緒」
「そう、か」
彼は複雑な思いを抱きながら、ルリの頬についたクッキーを拭う。ルリはさらわれたと言っていた。故郷にはおそらく両親がいるだろう。これほど幼い我が子を奪われるのはどれほどの悲しみだろうか。想像もできない。だからこそ、できる限り早く返してやるのが正しい道だ。それはわかっている。
ルリは幼くて、今の庇護者である彼に無条件に懐いているだけだ。両親と再会し、一緒に過ごせば忘れられる。そうあるべきだ。
最初のコメントを投稿しよう!