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三か月の時を経て、彼らはついに故郷へと船首を向けた。約七か月ぶりの帰還に船内の誰もが浮足立っているが、リオの心は沈んでいた。一緒に過ごすうちに情はますます移り、ルリはリオにべったりと懐いている。リオもそうして懐くルリがかわいく思えないはずもなく、別れなければならないと思うほどに思いは募って行った。
帰国すれば彼に人身売買の裁きも下るだろう。そうなれば気持ちが少しは切り離せるだろうか。そう考えても複雑なものばかりが彼の心を占める。
ルリは四つになる前にさらわれ、彼が買うまでずっと檻の中にいたのだという。親のことは覚えていないと小首を傾げた。ルリが飛べないのは早くに親元から引き離され、飛び方を教えられなかったからだろう。そんなルリを親元に返すのが正しい道だということはよくわかっている。犬や猫といった愛玩動物ではないのだから、かわいいからと手元に置いていいものではない。わかっていても彼の気持ちは重く塞ぐばかりだ。
「リオ、考えごと?」
「ああ、ごめんな、ルリ」
ピアノを弾いていたのにぼんやりして手が止まっていたから、ルリがそばに来たらしい。
「ルリは親のところに帰りたいか?」
ルリは悲しそうに頭を振った。
「ルリ、リオといるの」
何度聞いても同じ答えが返ってくる。それを聞いて安心する己のあまりの愚かさに彼は苛立ちを覚えた。ルリは初めて出会った優しくしてくれる人間に懐いているだけだ。抱きしめてくれる腕を、撫でてくれる手を欲しているだけだ。
「ルリ、お前は両親のもとに帰るべきなんだ。そうしたら飛べるようになるかもしれない」
「いや!」
ルリは強情に頭を振った。ルリが空に憧れているのは知っている。毎日のように空を飛ぶ鳥を眺め、必死に羽ばたいては残念そうに翼を畳む。本能が飛びたがっているのだとそう思わずにはいられなかった。それと引き換えにしてもここにいたいという。
「両親はきっと今もお前を探してる」
「リオがいればいい! りょうしんなんかいらない!」
「ルリ!」
それだけはせめて言わずにいてほしかった。勢いでその口から飛び出してしまっただけだとわかっていてもいたたまれなかった。彼の鋭い声にルリは怯えて泣き出した。
「ご、ごめん、ルリ、ごめんな」
慌てて抱きしめて背中を撫でてやってもルリは泣くばかりで返事をしてくれなかった。
「なに喧嘩してるのよ?」
ドアを開け放していたから遊びに来たのかキャロルが入ってきた。
「喧嘩、じゃない……」
「ルリ、こんなに泣いちゃってかわいそうに」
キャロルに抱きあげられたルリは突然、胸を引き裂くような声で歌い出した。
「船長さん、なにを言ったの? 今のルリは普通じゃない」
リオは何も言えずに後ずさる。ルリをひどく傷つけてしまった。その歌声は彼を糾弾するようで、苦しくて、うまく息ができない。
「ルリは故郷に帰るべきだと思ったから、説得してただけ、だ……」
「そう。少し食堂で落ち着かせてくるから、船長さんは頭を冷やしてちょうだい。ひどい顔よ」
リオは思わず両手で顔を覆う。ルリの感情の抜け落ちた顔を見ていられなかった。
「わかった」
キャロルは泣き叫ぶように歌い続けるルリを抱っこしたまま去って行った。ルリが遠ざかっても歌声は彼の頭の中で鳴り響き続ける。何がいけなかったのかさえわからない。ルリがあんなショック症状を起こすとは想像もしていなかった。
それほどルリは彼に依存し、帰りたくないと思っているのだろう。それがうれしいと思ってしまった自分にもまた腹が立った。
「バカだな、俺は」
柱に頭をゴンとぶつける。その痛みよりもずっとルリの歌声の方が痛かった。
「リオ、苛立つのは勝手だが、ルリに当たるな」
いつの間に来たのかグレースに軽く頬を叩かれた。
「当たったわけじゃない。ルリのためを思って!」
「それだよ。あんたいつもルリのためっていうけど、ルリの話はちゃんと聞いたのかい?」
「ちゃんと聞いてる。俺といたいって。でも、ルリはまだ五歳で、親のことを覚えてないからそう言っただけだ」
「聞いただけで聞き入れる気がないじゃないか。ルリは確かに幼い。親のことを覚えていないのも当然だろう。それを理由にあんたから離れたがらないのも仕方のないことだ。そこを汲んだうえで話す必要があったんじゃないか? 決めつけるのではなくな」
リオはぎりと唇を噛む。先走ってしまったことは否定できない。彼はルリと同じ年のころに母を亡くしている。そのせいで余計に感情的になってしまった部分もある。そんな事情はルリには関係なく、わかるはずもない。
「あの子のこと、大事に思うからこそ言葉が強くなっちまったんだろう?」
「ダメだな、俺は……」
「ああ、そうだね。ダメダメだね。泣き虫のチビからなぁんにも成長しちゃいない」
ずけずけと言われて彼は苦笑いをすることさえできない。
「でも、ちゃんと成長してるところもある」
胸にとんと拳をぶつけられた。
「ルリがあんたに懐いてるのがその証さ。仲直りしといで、ルリはキャロルとシモンのところさ」
「ありがとう、グレース」
リオは部屋を出て歩きながら考える。確かにルリの気持ちを考えようとしなかった。これほど懐かせておいてあまりにも冷たかった。両親とはいえ記憶にない人たちのもとに置いて行かれるかもしれないというのは幼いルリにとってどれほどの恐怖だっただろう。ルリはすでに見知らぬ人のもとで辛い目に合っているのだ。もっと考えてやるべきだった。
記憶がないとはいえ、買ってしまい、最後まで責任を取ると決めたのはリオだ。正しく向き合い理解することが何よりも大切だ。
ルリはキャロルとシモンに寄り添われていたが、まだ落ち着いていないようだった。歌ってはいないがぐすぐすと泣いている。
「リオ、ルリ嫌いになった。ルリ、悪い子」
一度の過ちでそんな風に思わせてしまったのかと彼は胸が痛んだ。
「ルリ」
やさしく声を掛けるとルリはびくりと身体を強張らせた。彼はそれ以上怯えさせないように目の前に膝をつき、小さな手を握る。
「大きい声を出してごめんな、ルリ。俺はお前のことを思うあまり、お前の気持ちをちゃんと聞いてやれなかった。ルリを嫌いになることは絶対にない。大好きだよ、ルリ」
ルリの大きな青い目が涙で揺れる。
「嫌いにならない?」
「ああ、絶対にない」
「ルリのこと好き?」
「ああ、世界中の誰よりも大好きだよ、ルリ」
ルリはほっとしたように笑って抱きついてきた。
「ルリも! ルリもリオのこと世界中の誰より大好き!」
リオは少女のやわらかい身体を抱きしめて、そっと背を撫でる。
「不安にさせてごめんな」
ルリは彼の肩に顔をうずめたまま頭を振った。
「熱烈で妬けちゃうわね」
キャロルにくすくす笑われて、リオは思わず顔を赤くする。
「無粋ですぜ、キャロルの姐さん。娘と父親なんてみんなこんなもんだ」
「あら、言うわね、シモン。娘が二人となると違うのかしら?」
そう言って笑った彼は自由気ままな独り身だ。パートナーと呼べる相手はいるらしいが、自由こそ誇りと彼はいう。妻子を港に残している男が大半を占める船ではあるが、それぞれの信条が尊重される。
「まぁ、その、二人もありがとう。あとは二人で話すから、部屋に戻るよ」
「はいはい。もうルリにあんな声で歌わせないでね」
「努力する」
軽く手を振ってリオはルリと部屋に向かう。ルリは機嫌が直ったらしく、いつものように小さな声で歌っている。
「なぁルリ、故郷に行く話をもう少ししてもいいか?」
ルリはひどく悲しそうな顔をしたが、頷いてくれた。
「ありがとう。あのな、俺がルリを買ってしまったから、もしもあの場所に助けが来てもお前は故郷に帰ることができなくなってしまった。それに俺はお前を買ってしまった罪を償わなきゃいけない。そうするとお前をすぐに送り帰してやることができない。だから、誰かに頼まなきゃいけないとも思って焦ってしまった。でも、ルリが俺を大好きといってくれて、そばにいたくて、帰るのが遅くなってもいいなら、罪を償った後に一緒にお前の故郷に行こうと思う。それから、ルリが俺といるか、故郷に帰るか、決めればいい。それならいいか?」
ルリはなかなか口を開かない。髪に結んだ彼のおさがりのリボンをくるくると指に巻き付けたり、解いたりしながら、ルリは一生懸命考えているようだった。ルリは不意とリオの髪に結ばれたリボンを解く。彼の豊かな金色の髪が零れ落ちた。
「リオはずっとルリが好き?」
「ああ、ずっと大好きだ」
ルリは彼の髪に口づけを落とす。ルリから口づけをされたのは初めてのことで不思議な感覚だった。何か意味があったのだろうか。
「ルリ、リオと一緒がいい。故郷、リオと行く」
「わかった。一緒に行こう」
「うん! ルリ、リオ、だぁい好き!」
「ああ。俺もだぁい好きだ」
もう一度わかりあえた。そんな気がした。
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