ルリ

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「陸だ!」  見張りの声が弾んだ。船が浮き上がるような歓喜の声が沸き起こる。半年ぶりの帰還。それがどれほど特別なことか、リオはよく知っていた。航海の途上で病に倒れ、あるいは事故で帰れなかった者もいる。決められた航路を巡るだけといっても数々の困難の末に帰還したのだ。  不安や心配事はあれど、彼の心も喜びに震える。懐かしい家族は元気だろうか。幼かった甥や姪はもう彼のことを忘れただろうか。  まだ太陽は中天に差し掛かってさえいない。今日のうちに故郷イースウェアの港に入れるだろう。 「リオ、この港のお歌は?」  ルリにジャケットの裾を引っ張って聞かれ、彼は少女を抱き上げる。 「千里の海を  荒波を越えて  今帰ったぞ  我らが愛しき故郷  輝かしいイースウェア  ただいま、ただいま  愛しい人たちよ」  この時だけの特別な歌をうたって聞かせる。リオの胸にも望郷の思いが溢れた。 「ここだけは帰還の歌だ。みんなで歌う」 「みんなで!」  ルリは嬉しそうに叫んだ。ルリは大人数で歌うのも大好きだ。 「みんなで家族や大切な人にただいまといって帰るんだ」 「ただいま」  ルリはゆっくりと繰り返した。ルリが帰る場所はまだない。 「俺も家には父や姉兄が待ってる。今回はまず説教だろうけど」  説教で済むとは思えないが、ルリを不安にさせたくなかった。彼の家族は自身か連れ合いが船乗りであることも多く、姿の少々の違いは気にしない。 「さぁ、風呂だ! 雨水を全部沸かせ!」  彼が指示をすると甲板でひしめき合っていた船員たちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。残っているのは当番があるものだけだ。  海の上では真水は貴重で、稀にしか風呂に入れない。普段は身体を拭く程度だから臭いものも多い。だが、故郷に帰る日だけはみんな風呂に入って清潔にし、髭を剃る。新しい服をおろすものも多い。それほど彼ら船乗りにとって故郷に帰るというのは特別だ。 「ルリはグレースのところで入れてもらえ。男どもの風呂は汚い」  ルリはくすくす笑ってグレースの部屋に走って行った。船長であるリオには専用の風呂があるが、むさ苦しい男であることは変わりない。グレースのところに送り込んでおけば、女だけの風呂に連れて行ってもらえるだろう。船に乗る女性はさばさばしているといっても男たちよりよほど清潔にしている。  彼も身体をきれいに洗い。いつもより念入りに髭を当たる。ルリといるようになってから極力清潔にしているつもりではあるが、この環境にいると少々ルーズであいまいになる。姉兄や父には気兼ねしないが、兄嫁と子供たちには気兼ねする彼だった。  長兄のジョージは三年前に父の後を継いで船に乗らなくなった。ガーネット商会は八隻の大型帆船と二十三隻の小型帆船、それにヨットを十隻所有している。大型帆船が長期航路、小型帆船が短期航路で、ヨットは近隣からの輸送用だ。彼の兄たちもジョージ以外そんな船の上だ。  代々、社長以外船の上という家柄だから兄の妻たちもみんな彼の自宅であるガーネット家の大邸宅に住んでいる。姉たちもやはり船乗りの夫がほとんど海の上だからと一緒に住んでいるうえ、それぞれが子沢山だからガーネット家は大所帯だ。  姉や兄嫁たちもただ家にいるのではなく交代でガーネット商会の店を管理したり、在庫の采配をしたりしている。  二人の姉と三人の兄がいる彼は六番目の末っ子で結婚していないのは彼だけだ。結婚するもしないも自由な家柄だが、たまに心配はされる。ついに甥や姪まで結婚し始めたから気にかけられるのも致し方ない。だが、一番上の姉と彼は十八も離れているのだから、ある程度は大目に見られたい。何しろすぐ上の兄より一番上の甥の方が、年が近い。  リオは真新しいシャツに袖を通し、色褪せてないリボンで髪を結ぶ。なんだかんだ言っても楽しみで仕方がない。甲板に戻ると身綺麗にした船員たちが出てきていた。先ほど残った者たちも入れ替わりで風呂に行ったのだろう。いつもよりこざっぱりした姿の船員たちが立ち働いている。リオは操舵台に向かう。操舵台にはライリーがいた。 「ライリー、代わるよ」 「ああ」  彼もまた家族が待っている。前方に目をやれば、陸がもうはっきりと見えていた。家が見えたと気の早い叫び声も聞こえる。誰もが待ちきれない様子だ。 「リオ!」  いつもよりおめかしされたルリが走ってきた。いつの間に新しい服を作られたのだろう。キャロルには五着作ってもらったあたりで止めたのだが、たまに服が増える。先週覚えのない請求書をキャロルが紛れ込ませていたからそれかもしれない。彼はインスピレーションが湧いてしまうと止まれないようだ。すぐ後ろをついてくるグレースもおしゃれで、いつもはしない化粧をしている。 「ルリ、今日の服もかわいいな」 「今日のリオ、ぴかぴか」 「今日は特別だからな」 「とくべつ?」  リオははっきりと姿の見えてきた陸を指さす。 「あそこが俺たちの故郷だから」  彼はふと息をついてルリを抱き上げる。 「ルリ、上陸したら少しの間離れ離れになるだろう。それでも必ずそばに戻るから待っていてくれるな?」 「うん……」  ルリは小さな手でリオの大きな手をぎゅっと握る。彼はライリーと話し合い、ジョージに弁明したらすぐに自首することを決めていた。どんな事情があれ、ジョージは立場もあり彼を許すことはできないだろう。彼にとってはやさしく溺愛してくれる兄だからこそ、兄の手元ではなく、司法に身をゆだねることにした。自首し、少なくとも一週間は会えないことをルリにも事前に話してあった。 「ルリ、大好きだからな」 「ルリもリオが大好き。ずっと一緒」 「ああ、一緒だ」  誰かが帰還の歌をうたい始めると、その声は渦を巻くように大きくなり、大合唱へと変わる。今から歌っていては持たないというのも無粋だ。もう一時間もせずに港へと入るだろう。 「ルリも歌う」  幼い少女もその美声で歌い始めた。リオもふと笑って一緒に歌う。重なる大きな歌声が船いっぱいに響く。歌声がますます大きくなり、魚たちも驚いて姿を消したころ、船は港へと入った。大合唱は港の人々にも届いたのだろう。海岸には多くの人が立ち並び、帰還の歌の返答である、労いの歌をうたってくれている。  海岸が十分に近づいたとき、リオはライリーに舵を任せ、紋章の描かれた旗を掲げて舳先に駆けあがる。人々の姿がはっきりと見えた。彼は思い切り旗を振る。歌声は歓声に変わり、空気を震わせた。船長だけが持てる名誉の旗でもある、それを再び握ることができるだろうか。旗をぐっと握りしめ、口を開く。 「リオ・ガーネット率いるムーンライト号、ただいま帰還!」  彼が大音声で叫ぶと、岸に向かって次々とロープが投げられた。船は軋みながら桟橋に横付けし、誰もが我先にと降りて行く。この日ばかりは積み荷を降ろすのは彼らの仕事ではない。誰もが家族や恋人の元へと駆けて行く。悪く無い眺めだとリオは思う。これをまた見られる日が来るだろうか。 「ルリ、行こう」 「うん」  彼もルリを抱き上げて船を降りる。ライリーとグレースがついて来てくれた。彼らも家族のところに行きたいだろうに申し訳ないと思う。視線を滑らせるとジョージがすぐに見つかった。背広をきりりと着こなす彼は港では少しでなく目立つ。 「ただいま、ジョージ兄さん」 「おかえり、リオ」  いつものようにやさしく頭を撫でられてリオは曖昧に笑う。もう二十も半ばだというのに彼はそうして子ども扱いをやめてくれない。 「隠し子がいたなら早めに教えてほしかったんだが? かわいいリオ」  よその港で子供を設けるものも珍しくはないから、ジョージの反応はごく自然なものだった。長姉のアンナも父のあずかり知らない間に遠くの港で生まれたのだと聞く。 「えっと、その、怒らないで聞いてほしいんだけど」  いざとなると言葉がうまく出てこなかった。ジョージは不思議そうにしたが、笑顔は崩さない。だが、元々船乗りであるがゆえに短気なところもある。 「俺が怒ることなのか? 小さなリオ。できたら簡潔に話してくれると兄ちゃんはうれしいんだが」  笑顔の奥ですでに苛立っているらしい。十五も年が離れているからこれまで甘やかされてばかりで、彼の怒りに触れたことがないが、怖いのは薄々わかっている。千人を超える荒くれ者たちの頂点に彼は君臨している。 「ある港で買った」  一瞬で兄の表情が変わった。見たこともないほど冷たい視線に胸の奥がぞくりと冷える。 「買っ、た?」 「これには訳があるんです、社長!」  ライリーがすぐに割って入ってくれた。今や一触即発の空気でリオは声も出なかった。 「わけがあろうが、なかろうが、人身売買に手を染めたのは事実ということか? ライリー」 「はい。それは事実です」  ライリーも慎重に言葉を選んでいた。ライリーとジョージは本来もっと慇懃に会話をしている。それだけ今は情報を正確に伝達するために心を砕いているということだろう。  リオは怯えてしがみついてくるルリの背中を撫でてやることしかできなかった。いつもは穏やかな兄の怒りがここまで怖いとは想像もしていなかった。 「この子はチィヤンという種族で、歌声で幻惑する力を持っています。リオがこの子を買ってしまったとき、幻惑されていた可能性が高い。リオがそんな危険にさらされたのははぐれてしまった俺の落ち度でもあります」  ジョージの視線が検分するようにルリを見る。 「幻惑か。証明はできないな」 「確かに証明はできませんが、リオはこの子を買ったときの記憶が完全にないんです。気付いたら船に戻っていて、手を繋いでいたと。この子は幼くて知らずに力を発揮して助けを求めていたんです。それをリオが救い出した。そうとしか思えません」  グレースの言葉にジョージはこめかみを揉む。 「まったくお前は本当に困ったやつだ。かわいいばかりにお人好しでお節介ですぐ厄介ごとを拾ってくる。そろそろ安心して船長を任せられると思ったのに」  ジョージはくどくど言いながら盛大にため息を吐く。 「処分はひとまず保留だ。その子にこれ以上怯えられるのも気分が悪い」  ルリが突然顔を上げてジョージの顔を真っすぐに見あげた。 「リオがルリ買ったの、ルリが助けてってお願いしたの。リオ悪くないの!」 「ルリ、話しただろう。悪いのは俺だって」 「でもでも、リオ悪くない! 悪いのはルリなの!」  必死に言い募るルリの頭をジョージはやさしく撫でてくれた。 「お嬢さん、私の弟を思ってくれてありがとう。でもね、どんな事情があれ、リオは罪を償わなきゃいけないんだ。わかってくれるかな?」  ルリはしばらくジョージのブルーグレーの目を見つめていたが、ゆっくりと頷いた。 「ジョージ兄さん、俺は自首する。どんな理由があれ、人身売買に手を染めてしまったのは事実だ。ちゃんと罪を償ってからルリを故郷に返してやりたい」  ジョージは複雑そうに目を伏せたが、彼の頬に手を添えた。 「リオ、情状酌量はある程度望めるだろうが、ガーネット家に名を連ねる以上、あまり軽い刑で免れることはできない。ガーネット商会の威信にも関わる問題だ。お前に耐えてもらうほかない。いいな」 「わかってる。悪いのは俺だから、ジョージ兄さんは会社を守ってくれ。不出来な弟でごめんな」 「いいさ。尻ぬぐいも兄貴の仕事だ。この子は姉さんに預かってもらおう」 「アンナ姉さんなら安心だな。ルリ、アンナ姉さんは俺の一番上の姉さんでちょっと厳しいけどやさしいから、言うことをよく聞いて大人しく待っていてくれるな?」  ルリは唇を噛んで頷いた。リオはジョージの腕にルリを託す。 「歌うのが好きだから好きなだけ歌わせてやってほしい。そのリボン、ちょっと褪せてるけど、取り上げると不安がるから取り上げないでやってほしい。それから、好き嫌いはしないから何でも食べるけど、早食いのくせがあるから気を付けてやって」 「わかった。ちゃんと姉さんに伝えておくから、行ってこい」 「ああ、いい子でいるんだぞ、ルリ」 「ルリ、いい子でいるから! リオ、大好き!」 「ああ、俺も大好きだぞ、ルリ」  リオはライリーに促されて警察に向かった。 「そんなに泣くなよ」  肩を叩かれて、リオは涙をぐいと拭う。 「ルリと少しの間でも別れるのがこんなに辛いと思わなかった」  ライリーはあきれたように肩をすくめる。己の未来を憂いて泣いていると思われていたのかもしれない。 「お前、本当にどうかしてるな。これから刑罰を食らう可能性が高いってぇのにルリのことかよ」 「刑罰を受ける覚悟はできたけど、ルリと別れる覚悟はまだ全然できないんだ」 「困ったやつだな、本当」 「うるさいな。別にひとりで行けるからライリーは家族のところに行けばいいだろ」 「送り届けないとジョージに泣かれる」  そんなやり取りをするうち、警察署の前についた。リオはライリーに頭を下げ、一人で門をくぐった。
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