ルリ

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 狭い牢獄に閉じ込められてリオはぼんやりと空を見上げる。高いところに彼の手よりも小さな窓がぽつんと開いているキリで薄暗い牢獄は彼がガーネット家のものだから特別待遇だと笑われた。それがいい意味でなのか、悪い意味でなのか、彼にわかるはずもない。  牢獄はじめじめとしていて不潔だった。壁の一面が鉄格子になっているから隠れる場所もなく、背の高い彼が横たわる空間さえない。トイレもむき出しだから異臭もしている。  ルリが閉じ込められていたのも似たような狭い空間だった。ルリが閉じ込められていたのはぐるりと格子で野ざらしだったからもっと悪かったかもしれない。大の男である彼でさえ、狭く自由のない空間に不安を覚えた。足に付けられた鎖も重い。ルリがなりふり構わず助けを求めたのも当然だと思う。あの日、幻惑されていなかったとしてもルリを憐れみ、鍵を買っていたかもしれない。  どの道、彼は罪を犯しただろう。お節介のお人好しで厄介を招くとよく兄や姉に叱られる。その通りだとしか思えない。  ルリは寂しがっていないだろうか。子供たちと馴染めているだろうか。そんな心配ばかりが彼の心を占める。自身の犯した罪を償うのは当然のことでどんな刑罰を下されても受け入れるつもりでいた。  人身売買の罪は初犯であれば、鞭打ちと焼き印、禁固二週間だとライリーに聞いた。彼が自首をしたから、裁判は簡略化され、早期に結論が出ることになっていた。だが、ジョージのガーネット商会としての立場があり、時間がかかることも予測はできた。  閉じ込められるのが同じであるならルリのためにも早くしてほしいと思っても、囚人となった彼には何の権利もなく、外の様子を知ることさえできない。 「出ろ、裁判だ」  時間の感覚がいくらか曖昧になったころ、看守に言われて、低い戸をくぐる。足の鎖を外され、手錠を掛けられた。本当に犯罪者のようだと皮肉に思う。看守に促されて建物を出ると眩しさに目が眩んだ。三日もあそこにはいなかったはずなのに身体がひどく重かった。 「しっかり歩け」  どんと押されて重い身体を引きずるように歩いて行くと裁判所の中に入った。傍聴席には父トニーとジョージの姿があった。二人は一瞬彼を見たが、目を合わそうとはしなかった。申し訳なさに胸が軋む。被告人として膝をつかされたのはひどく屈辱的に感じたが、当然の報いと自然頭が下がった。犯した罪の重さがじわじわとのしかかってくるようだ。 「被告人、リオ・ガーネットは五歳の少女ルリ・メイリーをウェンレアの違法な奴隷市で購入したことに相違ないな」  裁判長の重々しい問いにリオは口を開く。 「相違ありません」 「被告人は自首しており、少女と円滑な関係を築いていること、購入時の記憶がないことを医師グレース・スミス及び、ライリー・ブラナン、当裁判所の指定する医師二名が証明していることから、情状酌量の余地は過分にあり、無罪も検討された。しかしながら、被告人の社会的地位の高さ、影響力の大きさを加味し、以下の刑罰を科すものとする」  グレースとライリーが随分と奔走してくれたのだろう。もう十分だとしか思えない。 「鞭打ちを五、以上です」  ずいぶんと軽い刑罰だとリオは思った。 「裁判長、発言を認めてください」  鋭い声は兄のものだった。 「ジョージ・ガーネット。発言を認めます」 「感謝します、裁判長」  ジョージの声は冷たく、兄として弁護してくれるものではない。ガーネット商会の社長として、リオを船長に任命した責任者として、厳罰を求めるのだろう。ここで対応を誤ればガーネット商会の評判は地に落ちる。ガーネット商会の二百年を超える歴史と千人を超える従業員を彼は守らなければならない。当然の振る舞いだ。 「刑があまりに軽すぎます。鞭打ちは少なくとも二十、焼き印もお願いします。弟とはいえ、こんな罪を犯したのは許し難い。いくら情状酌量の余地があるとはいえ、被害者は五歳の幼い女の子なのです」  吐き捨てるように言われて、顔を伏せる。 「被告人、あなたの兄君がこうおっしゃっていますが、どう感じますか? 嘘偽りなく答えてください」 「兄が正しい。私は許されてはならないことをしました」 「しっかり反省しているようですね。被告人、あなたの船員たちが何人も何人も陳情に訪れました。被害少女もあなたの姉アンナ・ガーネットに連れられて、つたない言葉で必死に陳情を述べました。あなたは悪くないと、そう言っていました」  裁判長はふと息をつく。 「あなたが素晴らしい人であることは私もよく知っています。だからこそ、このような罪を犯してしまったことを非常に残念に思います」  リオは何も言えなかった。顔を上げてみれば確かに見知った人だ。幼いころによくかわいがってくれた。大人になってからも交流があり、船長になったことを祝ってくれた一人だ。 「誰にも愛される嘘のつけない天真爛漫な青年。それが本来のあなたでこのような場所にいるべき人ではない。今回のことは危険な場所に立ち入っていたのに引き返さなかったあなたの罪でもあります。罰を受けて罪を償い、本来のあなたに立ち返ってください」 「は、い……」  うまく声が出なかった。いくら幻惑されていたとはいえ、本当に多くの人を裏切り、落胆させてしまったのだと理解した。ライリーとはぐれた時点で引き返していれば、路地が狭くなったあたりで引き返していれば、こんなことにはならなかった。 「鞭打ちは十。焼き印はなしです。それでよろしいですね? ジョージ・ガーネット」 「裁判長の多大なるご恩情に感謝いたします」  ジョージは裁判長に深々と頭を下げた。木槌が打ち鳴らされ、すぐさま刑の執行の準備が始まった。刑罰は傍聴人立会いの下で行われる。 「ワインを」  執行官が痛みを和らげるためのワインを口に含ませてくれようとしたが、彼は拒否した。 「しっかりと刻みつけたいのです」 「よい心がけだ」  執行官は頷いてワインを下げさせ、彼をはしごに縛り付ける。耳元でひゅと鞭が鳴った。直後背中に焼けるような痛みが走り、彼は息を詰める。想像以上の痛みに叫びそうになったが、意地で飲み込む。十を数えるころには服が裂けて血が飛び散った。縄を解かれ、崩れ落ちそうになった彼をジョージが抱きとめる。 「よく耐えたな……」  囁くような声だった。 「ごめんな……ジョージ兄さん……」 「歯を食いしばれ」  身体が離れたかと思うと兄の拳が腹に入った。息ができずに崩れ落ちる。 「私の愚弟がご迷惑をおかけしました。二度とこんなことが起きないように十分に教育しなおしますので、ご容赦ください」  ジョージが深々と頭を下げるのを見て、リオは意識を手放した。本当の償いはこれからだ。  彼が意識を取り戻したのは自分の部屋だった。起き上がろうとしたが、身体があちこち痛んで起き上がれなかった。鞭だけでなく、ジョージの拳もかなり効いているのだろう。鍛えているから力が強いのは知っていたが、ここまでとは思わなかった。 「ああ、よかった。やっと起きたね」  聞こえてきたのは長姉アンナの声だった。 「半日のびてたんだよ。気分はどうだい?」 「どこそこ、痛い……ジョージ兄さんのパンチが一番効いた」  アンナはくつくつ笑う。 「ジョージも拳が痛い、やりすぎた。リオが死んじまうって大騒ぎしてるから、許しておやりよ」  ジョージの兄バカぶりは少々のことでは揺るがないらしい。 「俺が悪いから、許すも何もないよ。アンナ姉さん、心配かけてごめんな」  アンナはふとため息を吐いて、リオの頬を思い切りつねる。 「いはい」 「痛くしてるんだよ、このバカリオ! まったくとんでもないことしたもんだよ! あんな小さい子をなんて、死んだ母さんにどう報告したらいいか」 「ごめん」  アンナは深いため息を吐いて手を離す。 「まあいいさ、事情が色々あったみたいだし、ジョージと父さんのほうがよっぽどカンカンだから早めに叱られといで」 「わかってる。その前にルリに会わせてもらえないか? 寂しがってたろ?」 「ダメって本当だったら言いたいんだけど、あの子のためにならないからね」  アンナはすぐにルリを呼んでくれた。ルリはすぐに走ってきた。リオは小さな少女を抱き上げる。ルリは彼の胸に顔をうずめて泣きじゃくった。 「いい子で待っててくれてありがとな、ルリ」  ルリは泣くばかりで話せそうにない。 「あんたとの約束だからって今日までずっと我慢してたんだよ。本当にいい子にしてた」 「そうか。ルリは本当によく頑張ったんだな。約束を守ってくれてありがとう。俺もうれしいよ」 「寂しかった。ここぎゅーってなっても我慢したの。リオ、ルリのこと好き?」 「ああ、世界で一番大好きだよ、ルリ」 「ルリも、リオのこと世界で一番大好き!」  ルリがやっと顔を上げて、にっこりと笑った。もう一度ぎゅっと抱きしめて頭を撫でる。頬が少しこけているのが気になった。 「少し痩せちゃったんじゃないか?」 「あんまり食べてくれなかったんだよ。好き嫌いをしたわけじゃないんだけど」  ルリは困ったように目を伏せた。 「リオいない、おいしくない」 「そうか。寂しかったんだな」 「うん、でも、いい子でいた」 「ルリは偉いな。今日からは一緒に食べられるから、たくさん食べてくれるな?」 「うん!」  ルリは不意と目をこすり、彼の胸に頭を預けた。 「ルリ、眠いの」 「寝ていいぞ」  やさしく翼を撫でてやるとルリはすぐに寝息を立て始めた。そばにいない間眠れなかったのかもしれない。彼が目覚めたからほっとしたのかもしれない。リオがベッドに寝かせるとアンナが薄掛けをかけてくれた。 「あんたのことが本当に好きなんだねぇ、この子は。普通に養女だって連れてきてくれりゃ、こんな思いせずに済んだのに、仕方のない子だね」  軽く額を突かれて、リオは曖昧に笑う。 「まぁ、ちゃんと父親してんだなっていうのはわかったけどね」 「ルリは俺が最後まで責任を取るって決めたんだ。アンナ姉さん、色々ありがとな。裁判所にも行ってくれたんだろ?」 「ルリがあんまり健気だから心を動かされたのさ。わたしも丸くなったもんだよ。歳かねぇ」  ふうと息をついたアンナの目じりにはいつの間にかしわが寄っていた。 「リオ、そろそろ行っといで」 「ああ」  彼の身勝手な行動が会社全体の評判に大きく影響したことは彼にもよくわかっていた。だからこそ、あの場でジョージが派手に異議申し立てをし、抱きしめた後に殴ってきたのだろう。  リオはルリの頭をやさしく撫でてジョージの執務室に向かう。きっと父もそこにいるだろう。  兄の厳しい叱責をリオは黙って聞いた。ガーネット家に名を連ねるものとして、船長としての責任について散々説かれた後、父トニーが重い口を開いた。老いた父に心労をかけてしまったことに彼は申し訳なく思う。 「罰も叱責も十分に受けただろう。航海には思わぬ落とし穴が付き物だ。お前が連れてきた子がもっと大きければ罰則を受けたのはあの子だろう。善悪というものは簡単に入れ替わる。だからこそ、慎重にあるべきだ。リオ、情状酌量と本人の希望があり、あの子はお前に託された。果たさなければならない責任が何かわかっているな?」 「故郷に送り届けることがルリに対する責任の果たし方だと考えています」 「そうだな。そして、だ。もしも親が見つからなかったり、見つかっても引き取りを拒否されたりした場合のことは考えているのか? 幻惑を使える種族は使うことを禁忌とし、使ったものを追放、もしくは死罪にすることもある」  ルリは幼く無意識とはいえ幻惑を使ってしまったことは事実だった。ルリも歌いながらいつもと違うことをしたのは薄々自覚があるらしい。となればトニーの言うようにルリも国に帰れば罪を問われるかもしれない。 「ルリが裁かれるなら弁護し、追放されるなら俺の養女にします。どんなことがあろうと投げ出すつもりはありません」 「独り身で異種族の子供を育てるのは簡単ではないが、考えたんだな?」 「はい。これまでも種族が違うせいかすれ違いはしたけど、船でも教育はしてました。これからも時間をかけて向き合い共に歩んでいくつもりです」 「そうか」  トニーはため息交じりにそう言って、すっかり白くなった髪をかき上げる。 「末の息子のお前にはずいぶんと甘くしてしまったから、こんなことを仕出かしたのだろうとも思った。お前が鞭打たれる間、わしも鞭打たれているような気さえした。リオ、お前はただただまっすぐだ。そのせいで道を誤ったのだろう。お前はまだ若い。まだやり直せる。今度こそ、道を誤るな。リオ、子育ては簡単なことではない。途中で投げ出すこともできない。一人でなんでもしようとせず、けれど甘えるのではなく、頼ることを覚えるんだ。幸い、お前の周りには手を差し伸べてくれる素晴らしい人間がたくさんいる」  裁判所まで陳情に訪れてくれたものが幾人もいたことを言ってくれているのだろう。それに彼が減刑されるよう奔走してくれた人もいる。 「みんなには感謝してもしきれない。父さん、チィヤンはエンテンの港のすぐそばのごく狭いエリアに住む種族なんだ。誘拐のせいで絶滅が心配されているんだとか。できるだけ早く送って行きたい」  トニーは深いため息を吐いた。 「そのことはジョージから説明した方がいいだろう」 「はい、父さん。リオ、情状酌量されたとはいえ、お前は前科者になった。すぐに船に乗せてやることはできない。船長の資格もはく奪だ」  リオはぎりと唇を噛む。わかっていたはずだ。わかっていたはずなのに、はっきりと通達されて言葉が出てこない。 「お前が誠実で正しい男なのはよくわかってる。だが、世間はそうじゃない。どんな理由があれ、幼い子供を買った危険な男。それが今のお前の評価になる。行く先々で差別を受けることになるだろう。お前がガーネット家に名を連ねるがゆえに、人望があったがゆえに、お前の顔と名を知っているものが多いからなおさらだ。俺や父さんの権力でも守ってやれない。守るわけにはいかないんだ。だから、リオ、今は傷を癒すことに専念しろ。話はそれからだ」 「わかった……」 「リオ、わしはお前を信じているからな」 「はい、父さん……」  父と兄は頭を撫でてくれた。未だに子ども扱いされていることを複雑に思いもするが、今回のことは彼が子供だったから起こしてしまった事件なのかもしれない。リオは頭を下げて、二人の前を辞す。  彼は人知れず涙を落とした。犯した罪は想像以上に重い。だからといってルリと出会わなければよかったとは思わなかった。  リオが人買いをして自首をしたと言う話は島中を駆け巡り、有罪になって鞭打たれたこともすでに知れ渡っているのだという。ジョージが厳罰を要求したこと、衆目の前で自ら制裁を加えたこと、リオが一切の隠ぺいをしなかったことでガーネット商会への影響は最小限に抑えられたどころか、身内にも厳しい罰を下せるジョージの采配に株を上げたのだという。会社への影響が最小限に済んだのならよかったと思う。  傷を癒せという言葉は謹慎しろという意味でもあるのは間違いない。がやがやとうるさい船内が恋しくなるが、罪を犯した身ではいつ戻れるかわからない。もうムーンライト号には乗れないかもしれない。父とジョージも船長を務めた優美な船は彼にとって特別だった。時間をかけて信頼関係を築いた仲間たちは彼のために陳情に訪れてくれたのに、合わせる顔がない。 「ごめんな……みんな……」  ムーンライト号はライリーを船長として出航が決まったとアンナに聞かされた。ライリーは本来船長にふさわしい男だ。当然のことだろう。  失って初めて存在の大きさが身に染みる。ジョージに旗を託されたあの日、どれほど誇らしかったか、もう思い出せない。どんな理由があれ、彼らの信頼を裏切ってしまったことには変わりない。荒波を越え、歌い騒いだ日々はもう戻らない。 「リオ、どうしたの?」  部屋に戻ると起きていたルリに触れられ、思わず抱きしめる。小さな体はあたたかくて、やわらかい。ルリと出会ったことは後悔していない。けれど、失ったものはあまりにも多い。 「心が、痛いんだ……ルリ、ごめんな……今は少しだけ、こうしていてくれないか……」 「うん。ルリ、リオが大好きだよ」 「やさしいなぁ、ルリは……」  襲い掛かってきた現実に彼はなかなか追いつけずにいた。
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