旅立ちの日に。

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旅立ちの日に。

 アンティーク家具を集めるのが趣味だった祖母は、どういうわけだか、近所のひとたちに『魔女』と呼ばれていたらしい。  そんな彼女から昔、間接的ではあったがまるっと譲り受けたこの部屋の家具たちを眺めながら、これらを持って行けないのは惜しいなあと私はちょっとだけ悔しく思った。  おもちゃをぶつけたことであちこちに刻まれた傷も、剥がれなくなったきらきらでぷくぷくのシールも、幼い頃の自分がつけたものだ。けれど、それは表面上の話で、もう長く使われているはずの家具たちは、私が成人した今でさえどれもこれもが、老朽という漢字二文字とは疎遠のようにしっかりと背筋を伸ばして立っていた。まるで、年を取らない魔法でもかけられているみたいだ。  そこに、いつも私は、会ったことのない祖母の姿を重ねてみていた。  中途半端に開きっぱなしになっていた扉の向こうから、母の声がするりと入り込んできた。 「美春、そろそろ時間だけど、準備できたー?」 「待ってお母さん、あとちょっとだけー!」  今日は、ようやく訪れた引っ越しの日。  引っ越し作業は大詰めだった。本当は立つ鳥跡を濁さず、なんて言葉の通り何もかもまっさらにしてこの家を巣立ちたかったのだけれど、残念ながらこの部屋から新天地へ持っていけるのは、普段使いのリュックサックの他に、大きなキャリーケースがひとつと、高校生の時に部活で使っていたエナメルバッグがひとつだけ。最後のエナメルバッグにいたっては、ぱんぱんになるほど服を詰めたせいで、でかでかと描かれているスポーツブランドのロゴが、おなかが膨れたたぬきの信楽焼みたいに、ぽこんと前に突き出してしまっている。 せめてあと段ボール箱三つくらいは荷物を持たせてほしかった。が、流石にそこまでは難しいと『専用』の『引っ越し業者』に渋い顔をされてしまってはそれ以上の我儘は言えなかった。そもそも、すでに我儘を叶えてもらっている身だ。泣く泣く荷物の選出に精を出すしかない。  本棚の角から机の奥まで。クローゼットの上からベッドの下まで。  自分の持ち物を引っ張り出したり発掘したりして、厳選に厳選を重ねた。どれもこれも、自分をお供に連れて行けときびだんごでも欲しそうな目をして私を見上げてくるのだから困ってしまった。だけれど、予定より時間がかかった本当の理由は、本棚の整理の際に漫画だの小説だのをうっかり手に取ってしまったのが原因である。そう、うっかりだ。だから後悔はしていないし、反省の色はない。うん、やっぱり今読み返しても面白かったな。  ちなみに、夏休みの宿題はぎりぎりで取り掛かるタイプでした。 「そんなに悩まなくてもいいでしょ。またお正月に戻ってくるんだから」  痺れを切らして一階から階段を上ってきた母が、唸る私の背中から呆れたような声を向けてくる。振り返れば言葉と同じような顔があって、それに私は肩を落とした。 「それはそうなんだけどさあ」 「大丈夫よ。私もお父さんも、勝手に美春のもの捨てたりとかはしないから」 「それもわかってるんだけどさあ……」  それでもこの部屋に置いていけば半年以上は目にすることも、触れることもない。  本当は、もう、鞄いっぱいに必要なものは詰め込み終わっているのだ。ただ、こうしてキャリーケースを閉じることが出来ないのは、この部屋自体が名残惜しいから。私は唸りながらすぐそばのキャビネットに寄りかかった。  小さなころは、家具のひとつひとつがまるでお姫様が住むお城から持ってきたもののように思えて、それがある自分の部屋が周りに自慢して回るほど大好きだった。中学生の頃は、なんだか自分とちぐはぐに思えてきて、何故だか恥ずかしくなって、友人を部屋にあげるのが心底嫌だった。高校生になると慣れたもので、いかにこの家具を生かしたレイアウトで物を飾るかに本気で拘りはじめた。まあそれも最初だけで、高校生の途中からはそんなことしている場合じゃなくなったというか、しばらく家にいなかったというか、まあ、そんな時期もあったわけだけれど。  近くに会った椅子を引っ張って、その足をつるりとなぞった。ふにゃりと曲がったその足は、それでもずっと私のことを支えてきてくれた。顔も知らない祖母の代わりに、優しく見守ってきてくれた。新居でもこれと同じような家具が待っているのを知っているし、それらとこの先を過ごしていくのもわかっている。それでも私が過ごしてきた家具たちは、祖母の遺した使い魔のような彼らだった。 「美春。アキくん来たぞ」 「えっ早っ」 「もう、時間通りよ。こんにちは、アキくん」 「お邪魔してます。ミハル、準備はどう?」  なんて愛着に引っ張られて、物思いに浸っていれば、いつの間にか父は彼を私の部屋まであげていたらしかった。ひょい、と母の後ろから覗き込んできた青年に、私は苦笑いで誤魔化してみる。本当に誤魔化されてくれるかは二の次だ。  礼儀正しいこの青年が、母親はともかく、過保護な父親まで絆したのはいまだに信じられないことだった。まあ、だからこそ私は、この部屋を、いいや、この家を巣立ってくことを許可されたわけだけれど。  彼らには前例があったから、受け入れられたのかもしれない。  けれどそれ以上に、アキが居てくれたら大丈夫。そう、両親は思ったらしい。  私もそう思う。うん。私が迷ったときにずっとそばにいてくれたひとだ。私の心も体もすべてを守ってくれた人だ。こうして、今この場所にいることが何よりの証拠。  アキがいてくれたなら、私はどこでだって。 「――遅くなってごめん、アキ。もう、終わるよ」  私は笑って、キャリーケースを今度こそ閉じた。
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