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生きる理由
美しい夕焼けが辺りを朱色に染め、どこか物悲しくも感じさせるその朱が、カーテンを開け放ったままの哲太の部屋も例外なく朱く飾っている。
しかしその寂しげな風情とは不釣り合いな、階段を駆け上がる足音がふたつ、軽やかに響いた。
「和志!机片付けろ!」
塞がった両手の代わりに肘を使い器用にドアを開ける哲太とドアの間をすり抜けるように通ると、和志は机の上に広げられたままになっていた2人分の教科書とノートを慣れた手つきで手早く片付け、哲太の両手を塞いでいた2つの皿の居場所を確保した。
「───美味そッ」
机に手を着くと目の前の皿に乗ったケーキに飛び跳ねんばかりに和志は嬉しそうに頬を染めた。
「早く食おうぜッ!」
2人は目を見合わせニッと嬉しそうに笑うと、哲太の母が作ったクリームたっぷりのケーキを頬張り始めた。
「───うまッ!」
毎日のように遊びに来ている、ラーメン屋の2階にある幼馴染の哲太の部屋に、和志の歓喜が響いた。
「哲太の母ちゃん、ケーキ屋もやればいいのに!それか……店のメニューに加えるとかさッ」
和志は興奮気味に言うと、またひと口、哲太の母が作ったケーキを頬張った。
「……ラーメン屋でケーキ食うか?」
哲太も頬張ったケーキを飲み込むと、和志の言葉に眉をしかめ
「それに趣味だから良いんだってさ」
そう付け加えた。
2人で過ごすのも然る事乍ら、哲太の母の手作りのケーキを食べるのも和志の楽しみのひとつだった。
誕生日間近には和志にはチョコレートケーキ、哲太にはチーズケーキと、それぞれ好きなケーキを作ってくれる。
すぐ近所で同い年の子供を持つ母親同士が仲良くなるのは当然と言えば当然で、年齢こそ違うが母親同士も気が合い2人が保育園に上がる前からよく行き来していた。
3年前和志の父が亡くなった時も、親戚と疎遠な和志の母を一番支えたのは哲太の母だった。
そして今も母の帰りを待つ和志は、哲太の家で当たり前のように過ごしている。
そろそろ夕食時になってきたせいか、哲太の両親が営む1階のラーメン屋から人の賑わう音が聞こえ始め、少しの間その音に耳を傾けると、和志は残り少なくなったケーキをまた1口パクリと頬張った。
───お母さん……そろそろ来るかな……
そう思って焦ったせいか、そのひと口がイヤに大きくなり唇に柔らかいクリームの感触が残った。大き過ぎたひと口がクリームを唇に残した自覚もあったし、口の中のケーキが無くなったら舐めて取ればいいくらいに思っていた。
しかしそれを待つこと無く、不意に伸ばされた指が優しく唇を拭った。
「お前……口にクリームついてる」
呆れたようにそう言うと、哲太はクリームの着いた指をそのまま自分の口へ運んだ。
そしてなんの躊躇いも無くその指を舐めた哲太に、和志の胸が“トクン”と大きく音を立てた。
恐らく母にそうされて育った哲太にとって、それは特に深い意味も無く、当たり前の行動だったのだろう。
しかしたったそれだけの行動が、和志のまだ幼い胸に隠していた淡い気持ちを顕にした。
ケーキを頬張る手が止まり、激しくなった鼓動が哲太に聞こえてしまうのではないかと思う気持ちが、また鼓動を早くする。
しかし当の哲太はケーキに夢中で気付く様子は無い。
それがまた恥ずかしくて夕日が当たる頬がイヤに熱く感じ、和志は俯き皿に僅かに残ったケーキを見つめた。
「カズちゃーん!お母さん迎えに来たよー!」
すると突然響いた、階下からの哲太の母の声に和志の体がビクッと震えた。
「───あ…………俺……行かなきゃ………」
俯いたまま急に立ち上がった和志を、スプーンを咥えたままの哲太が不思議そうに見上げた。
帰ると言った和志の皿にはまだケーキが残っている。いつもなら母に「早くしなさい」と言われてもケーキだけは食べていくからだ。
「……お前なに慌ててんの?残りそんだけなんだから食っちゃえよ」
「──え!?──あ…………うんッ」
少し呆れながら笑った顔に余計顔が熱くなる。
居た堪れないような思いに駆られ、和志は掻っ込む様にケーキを口に入れると、逃げるように哲太の部屋のドアを開けた。
「また明日なぁ」
背中から掛けられた、いつも通り変わらない言葉にもドクッと心臓が跳ね、和志は振り返りもせず、ランドセルを背負うと手だけを振って階段を駆け下りた。
鏡を見なくても分かる程、自分の顔が真っ赤になっているのを、哲太に見られたくなかったのだ。
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