生きる理由

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「───和志さん」  突然呼ばれた声に、本多和志は我に返るように顔を上げた。 「………ドアを開けますよ?もう安東先生は中でお待ちですから」  杉本は何処か冷たい声で現実へ戻すように告ると、ドアノブに手を掛けた。  2人で住むには広すぎる邸の一角にある、バスルームまで付いた客室の前で、和志はその言葉に小さく溜息を吐いた。 「…………言われなくても分かってます」  ぼんやりしていたことを窘められた事に僅かにイラつき、表情の無い声で答えるとゆっくりと瞼を閉じた。  まだ小学生だった頃の事を、不意に思い出していた。  まだ何も知らなかった頃。 ───「また明日」───  その言葉に絶対的な効力があると信じて疑わなかった頃。そう言って別れれば、当然「明日」が来るのだと思っていた。  誰も見た事のない、酷く不確かな言葉なのに。 ───俺は一体……なんの為に生きてるんだっけ…………    時々頭を埋め尽くす疑問が、考えるでも無く頭に浮かぶ。  開けられたドアから溢れた明かりに、和志は一瞬目を細めると、もう癖にすらなっている笑顔を意識するでもなく顔に貼り付けた。 「遅くなって申し訳ありません」 軽く頭を下げ部屋に足を踏み入れると、もう何度か会っている、還暦をとうに過ぎているだろう男が嬉しそうにソファーから立ち上がった。いかにも金持ちそうな上品なダブルのスーツを着ている。 「やぁ──和志くん、久々に会えて嬉しいよ」 「お久しぶりです、先生。僕も……またお会い出来るのを楽しみにしてました」  差し出された手に和志は自分の手を重ねた。ゴツゴツした硬い、それでいてどこか湿って感じる指に、腹の奥から僅かな吐き気が込み上げる。 「君はなかなかの人気者だから、こうして会うのも一苦労だ」 お世辞のつもりか、はたまた嫌味か……そう言って笑うと、安東は和志の手を握り自分の横へと座るよう促した。 「いやしかし……こんなに聡明な跡取りがいるなんて、秀行くんも安心だねぇ。しかも稀に見る美貌の持ち主だ」  舐めるように眺める眼差しに、和志は照れたように笑った。  その間も離されることの無い手が和志の細い指を撫でている。 「先生こそ相変わらずお口が上手い……。体ばかり大きくなって……まだまだ子供で困りますよ」 机をはさんだ向かい側のひとり掛けのソファーに座り、安東から向けられた笑顔に本多秀行は苦笑いした。  どう見ても30代にしか見えない品のあるこの男が、この広すぎる邸宅の主にして、日本でも有数の本多財閥の現当主である。 「今日は手土産にワインを持ってきたんだが……和志君はまだ高校生だったかな……?」 「はい」 「そうか……それは残念。無理に…飲ます訳にはいかないねぇ……」  そう大袈裟に言った安東の視線がちらりと秀行に向けられた。 「公の場ではありませんし……少しくらいならいいじゃありませんか……。なぁ和志?」 「はい。安東先生の手土産なら尚のこと……喜んで頂きます」 当然そう返されると解っていた言葉に、指を撫でていたシミの浮かんだ年老いた手が、和志の腰に回された。 「それでこそ本多の跡継ぎだ!──今夜は楽しくなりそうだね……秀行くん」 息が掛かる程近付き下品に笑った男の顔にうんざりしながら、しかし和志は妖艶にも見える表情でにっこりと微笑んだ。 ───そっか…………この為に……俺は存在してるんだ…………  先程頭に浮かんだ疑問の答えについ笑いそうになるのを堪えると、和志は年老いた男の膝を撫でるように手を置いた。  
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