六月の歌姫は雨に誓う

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「ひいおばあちゃんのケーキもホットチョコレートも、喜んでもらえたわよ」 「そうかい」  就寝前、サギリは曾祖母・サバエの部屋で顛末を話した。洋燈(ランプ)の仄かな明かりが二人を照らす中、曾祖母はいつも通り、微笑を湛えて耳を傾けている。 「雨の神さまはひとりぼっちで寂しかったのね。あんな山奥で、寄りつく人もいなくて……これからも、大丈夫かな?」  サバエが横になったベッドに肘をつくサギリの声は、尻すぼみとなった。山の頂は、夜になれば一面の闇に包まれてしまう。こんな風に誰かに話を聞いてもらうこともなく、彼は――マダキは、どんな風に過ごしているのだろう? 「大丈夫さ。サギリが覚えている限り、神さまはひとりじゃない。そのかわり、忘れないってことは、想像以上に難しいことなんだよ。人間は、当たり前のように忘れてしまう生き物だ。……忘れることが、救いになる場合もあるからね」  皺だらけのか細い手に頭を撫でられ、ざわつく心が凪ぐのを感じる。忘れない。小さく呟くと、起き上がってサバエの頬にキスをした。 「ひいおばあちゃん、あのね――」  言いかけた言葉を呑みこみ、「おやすみなさい」と変換した。  彼の名前は、自分だけの秘密にしておこう。  初めての秘密だと思うと鼓動が速まる気がして、足早に部屋を後にした。  *  サギリの足跡が消えて夜の沈黙が訪れると、サバエは洋燈が置かれた脇机の引き出しに手を伸ばした。すぐに取り出せるよう最上部に置いた写真を取り出し、そっと指でなぞる。衰えた視力では、もう彼の顔を確認することはできない。だが、思い出に生きるその姿は、長い年月を経たいまなお光を帯びていた。 「マダキ」  枯れ落ちた声がなぞったのは、亡き弟の名前である。  一つ年下の美しく優しい少年は、姉の目にも眩く特別な存在だった。歌声がまた素晴らしく、変声期前のボーイソプラノは、女には真似できない強靭で透き通る輝きで人々を魅了した。  ――姉さんよりも、僕の方が上手いんだ。だから、歌姫の役は僕が引き受ける。  百年前の長雨で、歌を――命を――捧げるよう任じられたサバエに、マダキはそう言って笑いかけた。サバエの制止も振り切り、雨の中へと駆け出した小さな背中が、弟の最後の姿となった。  あちこちが破れかけたセピア色の写真を元に戻し、静かに目を閉じる。三十九日ぶりに訪れた雨のない平穏な夜は、静かすぎて逆に寝つけない。 「もうすぐ、会いに行くよ」  瞑目するサバエの顔には、うっすらと笑みが刻まれていた。
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