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「じゃ、後はよろしくな」
そう言って、先輩は車に乗り込んだ。
中肉中背、顔面偏差値は高め。歳は30代くらい。
これまで高校教師という仕事を真面目に務めてきたが、魅力的な男子生徒に心を奪われてしまった。彼が靡かないと分かると、あろうことか無理やりキスを迫る。
そしてギリギリで助けに来たスパダリイケメンにしばき倒され、退職を余儀なくされる――という設定である。
読者をやきもきさせ、しかし不快感を与えすぎないという難度の高い役目を見事こなしてみせた先輩は、早くも次の任地へと赴く。エリート補佐官に休む暇はないのだ。
薔薇のエンブレムを掲げた乗用車が曲がり角の向こうに消えるのを見届けると、私は敬礼をとく。
「よぉし……頑張るぞ」
BL補佐官として働き始めてもう一ヶ月。今日が初めての単独任務だ。
校門の前に立ち、今いちど服装を確認してみる。
制服のリボンは忘れずに付けているし、スカートはギリギリ膝が見える長さ。ブレザーのボタンは3つのうち1つだけ留めている。
うん、無個性だ。
これなら大丈夫。私ならやれる。
一度だけ大きく深呼吸して、任地へと足を踏み入れた。
♡
教室、朝。
窓際でカーテンにくるまって愛をささやきあっている2人は今回の補佐対象ではないので見て見ぬふりをしつつ、前もって指定されていた席につく。
「あ、おはよう!」
「おはよー」
『背景』役――エキストラ課のみんなが声をかけてくれる。
名もなき無個性同士、話しかけあい手を振りあう。
本題のノイズにならない程度に中身のない会話を続けていると、チャイムと同時に教室にひとりの男性が入ってきた。
「今日からお前らの担任になる、宮兎ケイだ。よろしくな!」
明るく声を上げたのは、先輩演じる淫行教師と入れ替わりでやって来た新任教師だった。
彼は受けだ。誰にでも分け隔てなく接するがゆえにガチ恋を産みまくって攻めの焦燥を煽るタイプ。悩みがなさそうに見えて、いまだに学生時代の失恋を引きずっている。
自己紹介が質問コーナーに移ったところで、さっと手を挙げる。
茶化すような期待するような、印象に残らない声色で。
「どんな人がタイプですかぁ?」
宮兎ケイは少し驚いたように目を瞬いて、少し頬を赤らめて言う。
「そうだなー。今は、そういうのは考えられないかな……」
ごくわずかに俯いて、ほんの一瞬だけ寂しげな眼差しを見せる。
クラス中が「えー」と声を上げる中、ひとりの男子生徒が何かに気づいたように目を見開いた。
彼が攻め。受けのことを忠犬のように慕うが、そのぶん束縛も激しいタイプ。名前もなんか狼っぽい感じだった気がする。この界隈、なぜか狼モチーフが人気である。
とりあえず、ここで二人の接点は作れた。ひとつめの任務、無事達成。
こっそりと、安堵の息をついた。
♥
昼休み。
学校一のイケメンのもとへ。
白馬の王子様よろしく慕われまくっている彼は、毎日のように女子生徒に囲まれているらしい。
その人混みの中に飛び込んで、他の生徒たちと一緒にやいのやいの。一度「セナ様ぁ〜♡」と叫ぶ。これは吹き出し無しの書き文字くらいになるだろう。
その後、教室に戻って菓子パンを食べる。
食堂では食いしんボーイが世話焼き少年に口元を拭ってもらっているし、屋上ではサボり魔と優等生が口論してる。そしてどちらも最終的にくっつくのだ。
とはいえ、このあたりは私の出る幕ではないので、最後の任務に向けて英気を養っておこう。
♡
放課後、である。
本日最後にして最悪の任務。
できることならやりたくない……が、大抵のBLはこれを経由する。誰かがやらねばならないのだ。
「……うぅ……」
嫌すぎるあまりうめき声が漏れてしまった。慌てて誰にも聞かれていないことを確認する。
深呼吸を2回して、校門めがけて直進した。
「……あのう、清原くん」
なるべく甘ったるい声で呼びかけると、同じクラスの清原くんとやらは立ち止まって、不思議そうに小首を傾げた。
「ん? どうかした?」
「…………」
言え。
「……あ」
言うんだ。
「……あの、ね」
言うんだ、補佐官。
「…………もしよかったら、一緒に帰らない?」
もじもじ、赤面しながら言う。恋する乙女。
けれど、清原は困ったようにがりがりと頭をかいた。
「うーん。でもアイツが良いかどうか――うおっ!?」
来た。
清原に覆い被さるようにして、もうひとりの少年が現れる。
「悪ぃ。コイツ、俺ンだから」
彼は彼自身のものでしょ、と言い返したいのをぐっとこらえる。けっきょく清原は無理やり連れ去られてしまった。
清原は申し訳程度の抵抗をしながらも殆ど自発的についていく。
その肩を抱く少年にとって、女とは本質的に相容れない存在らしい。
私物の死角でこちらを睨みつけた目には、間違いなく殺気が宿っていた。
♥
なにはともあれ、任務はすべて達成した。
先輩に連絡を入れると、ちょうど向こうも終わったとこらしい。庁舎に向かうついでに拾ってもらった。
助手席に座ると、どっと疲れた気がした。
一日中気を張っていたんだろうと先輩は笑った。
「単独での初仕事、どうだった?」
「そうですね……最後のはちょっとキツかったです」
「お。それ以外は楽勝か? やるじゃないか」
「いや、そういう意味じゃ……」
いつもより意識して明るくしてくれているらしい口調に釣られて、こっちまで笑みが零れる。
最後の任務について零すと、アレは俺でもしんどいぞ、と最近の失敗談を話してくれた。
「いやぁほんと、なんで好きでもない奴に告白して振られなきゃいけないんだーって思ったよ」
仕事の愚痴を言っているだけなのに、その横顔がまぶしい。
夕日に目がくらみそうになって、慌てて下を向いた。
この物語の『本題』のために、個性も人格も潰される補佐官たち。
名前すら与えられない私たち。
「先輩」
先輩。
私は、この気持ちの名前も知らないんです。
「どうした? 後輩」
「……明日も、頑張りましょうね」
ちょっとだけ不安そうな声に、微笑む。
それだけであなたは嬉しそうに笑うから。
この世界を、許してやってしまうのだ。
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