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「で、なに? 寝癖直してもらったの? 」
「そう」
「優しいじゃん」
「とんでもない!めっちゃ恐いんだから!」
東京への異動は急だったから、部屋を探すまで大学時代の友人、晴己の部屋に住まわせてもらうことに。
会社の独身寮は埼玉の郊外で、通勤に一時間以上かかる。それくらいは確実に許容範囲なのだろうけれど、僕は東京に住みたい。
ひと駅で都内に行ける千葉に住む晴己。
「東京都じゃないだけで、家賃がかなり違う」
と晴己。
そうなのか、でも僕は…… 憧れがいつまでも頑なにした。
「ゆっくり探せばいいよ」と、晴己は言ってくれるけど、そうそう甘えてもいられない。
ネットで部屋を探す毎日。
高いなぁ…… 当然だけど。
四国の香川では会社が借上げていたアパートだったから、家賃は激安、タダ同然だった。最低限の家財道具付きで、バッグひとつで香川に行けた。
改めて東京で探し始めたはいいけれど、あまりの高さに飛び出した目ん玉が引っ込まない。
大学生の時には、大学の学生寮で暮らしていた。
駅からは徒歩十分、光熱費込で月に七万三千円。
ワンルームの狭い部屋だったけれど、各部屋にトイレが一緒になったユニットバスが付いていたし、とても快適だった。
それだって親が払っていたんだけど、同じような条件で探すとその倍以上の家賃になる。
ずっと学生がよかったな、なんて甘えたことを思った。
諦めて郊外の社員寮に入るか…… 段々とそんな考えが強くなってくる。
「今日は寝癖はついていないな」
朝、部署の部屋に入るなり、宇城課長の低い声で迎えられた。
「あ、は、はい、朝きちんとセットしてきました」
「いいだろう」
当然だ、と言わんばかりにギロッと目を向けられ、顔が引きつった。
トイレで寝癖を直してくれた時は、なんだったのだろうかと謎で仕方がない。
「おはようございます」
「おはよう。宇城課長、今日は少し機嫌がいいみたいだな」
「あれでですか!? 」
隣りの席の平林さんに挨拶をすると、そんなことを言う。
いつもと全然変わらないけれど、どこが違うんだろう、不思議に思い宇城課長に恐々目を遣った。
はっ!うそっ!
目が合ってしまう。
すぐに逸らすのもよくないだろうと思いながらも、どこへ視線を逃せばよいのか分からない。それでもなんとなく目を泳がせて自分のデスクに辿り着いた。
こわい、またなにか言われるんじゃないかと思ってドキドキした。
九時の始業時間になると同時に、
「平林」
隣りの席の先輩が呼ばれて、僕までドキリとして体が動いてしまった。
平林先輩は三十二歳、二十九歳(今年三十歳になるらしい)の宇城課長より年上なのに呼び捨て。今どき部下を呼び捨てにする人も珍しい。
香川の上司だって、皆んなに『さん』付けしてた。
「はっ!はいっ!」
毎朝、始業と同時に誰かが呼ばれる。
始まる前は、みんなの緊張感であふれる部署内。
「この報告書、書き直せ」
「え? あの…… 全部…… ですか? 」
「内容はいい、誤字がひどすぎる」
「はいっ!」
まるで表彰状をもらうかのように、平林さんが両肘を真っ直ぐ伸ばして報告書を受け取っていた。
カチャッとビジネスバッグの留め金具の音をさせて、宇城課長が立ち上がった。見るからに高そうなバッグ、金具の音だって高級感を奏でていた。
「出かけてくる」
「いってらっしゃいませ」
宇城課長の声に、皆んなの「いってらっしゃいませ」と掛ける声が明るく聞こえるのは気のせいか。
「ふぅぅー、宇城課長がこの部署に来てからずっとこんなんだよ」
隣りの平林さんが、ほっと安堵のため息を漏らしながらそう言う。
「いつ、ここに来たんですか? 」
「一年前かな? それまで第三営業部にいたんだけど、そこの成績を上げ終えて、今度はこの第二に来たってわけ」
「…… ヘッドハンティングされたって聞きましたが」
「そう、三年前かな? 今年で四年目か? 若いのにさ、すごいんだよ。ここの成績も上げたら今度は第一営業部に行くって噂だよ。早く上げないとだよな」
と言いながら、へへっと笑う平林さんが続けた。
「ウチ、業界大手とは言っても業績は年々悪化していく一方なのを、宇城課長が立て直したらしいよ」
本当にすごい人なんだ。
恐いけど、間違ったことは何ひとつ言っていないのは確かだった。
「青坂、来い」
えっ!?
宇城課長が部署を出たから、皆んなの緊張が一気に解けていたし、僕だってそうだ。突然戻ってきて、みんなの背筋がピンと伸びた。
しかも僕に来いって、やめてほしい。
涙が出そうになる。
「ご愁傷さま」
ボソッと平林さんの声、本当だよ。
「早くしろ」
「はっ!はいっ!いまっ!」
なんだよ、僕、こんなのばっかじゃん。
それでも急いで支度をする。デスクに出した書類をもう一度ショルダーバッグに詰め込み、肩にかけ、バタバタガタガタを大きな音をさせてしまい、周りの人に「すみません、すみません」と謝りながら課長の元へと急いだ。
「今日は一日、俺について回れ」
えーっ、嘘でしょう?
途端に胃液が上がってきた僕。
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